土佐藩&土佐勤皇党 (453レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん
286(1): 2024/06/27(木)09:14 ID:1F+UqTwr0(1/3) AAS
土佐藩の石高
16世紀末、豊臣秀吉による全国土地調査(太閤検地)において、土佐国の石高は長宗我部氏によって9万8千石と申告されました。
その後、土佐藩主となった山内一豊は入国後、石高を再調査し、慶長10年(1605年)に幕府へ20万2千6百石余りを申告しました。
元和元年(1615年)には、阿波徳島藩が淡路国を加増されて石高が17万石余から25万7千石に達すると、土佐藩もそれに倣い25万7千余石を申告しました。
しかし、本来石高を高く申告すると、幕府の普請などの負担が大きくなるにもかかわらず、山内家臣団は四国一の石高を持つ大名家としての誇りを示したかったためと考えられます。
省3
287(1): 2024/06/27(木)09:18 ID:1F+UqTwr0(2/3) AAS
>>286
土佐勤王党と宿毛の侍
武市瑞山は文久元年(1861年)に再び江戸へ出て、長州の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎らと交流し、勤王の志をさらに固めました。そして同年9月、高知へ帰国すると土佐勤王党を結成し、その盟主となりました。
この土佐勤王党に入党したのは、坂本龍馬、中岡慎太郎、間崎滄浪ら192名でしたが、幡多地方からは佐井松次郎(中村)、矢野川龍右衛門(三崎)、田辺豪次郎(十川)、佐井寅次郎(中村)の4名のみでした。
瑞山と親交のあった岩村通俊なども入党していませんが、『維新土佐勤王史』には「血盟簿以外の勤王党同志人名録」として、以下のように幡多地方の人士が紹介されています。
「血盟者の名簿に列せざる勤王党同志は、或は遠隔の地に住し、或は其の地位の利害より、或は血盟をなす暇なく、或はその血盟中止後に蹶起せる人々にして、要するに、其の精神の血盟者と異なる所なきは、現に左に列記する人の中にて数十名の殉職者を出したる事実、之を証し得て余りありといふべし、故にその血盟書の名簿に列すると否とは、もとより敢てその間に軽重する所なきなり。」
省13
288: 2024/06/27(木)16:38 ID:1F+UqTwr0(3/3) AAS
この時期の他の藩の尊王攘夷運動と比べて土佐勤王党が特異なのは、「挙藩勤王」という思想を掲げていた点ですよね。これは、個々の志士が攘夷を唱えるだけでなく、藩全体を挙げて勤王を行おうというものです。他の藩の多くの志士は、藩士という立場よりも個人で活動することが多かったのに対し、土佐勤王党はあくまでも土佐藩の内部から活動することにこだわっていました。後に弾圧を受けた際、多くの志士が脱藩する中で、武市は従容として投獄されたというエピソードからも、土佐勤王党の強い藩への忠誠心を伺うことができますよね。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.012s