[過去ログ] 日蓮って ver.29 (720レス)
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129(1): 2014/08/23(土)10:21 ID:/xoaEc+Y(1/4) AAS
>>117
1.不軽菩薩を摂受と日蓮宗系は言うが、そうとは言えないという意味で書いた。しかし折伏をしているわけでもない。118さんも触れているように、
日蓮が開目抄で「常不軽品の如し」と言っているのは不整合だから同書は偽書だという研究者もいる。(例:前スレの終りでふれた今成論文)
だが私は、この言葉は、折伏に際して、不軽菩薩のように倦まず弛まずしつこくやれと、その「姿勢」を模範にせよと諭したとすれば足りると思う。
3.当時の記別の常識の話ではないと思う。経典を素直に読めば、不軽菩薩が忌避された理由は、その主張ではなく、振舞いにあったと考えられる。
4.「行菩薩道」と修行をすすめている。ストーカーについては「凡有所見」「遠見四衆 亦復故往」と、所構わず、常に迫りくるように叙述されている。
5.法華経の記述なのだから、それ以前の大乗修行者の説話だろう。誰でも仏になれるというが、不軽菩薩的には、あくまで菩薩道を行じれば、という話だ。
6.大乗一般が誰でも仏になれるという立場だからね。不軽菩薩の主張自体はそう特異ではなかったはず。やはり振舞が人々の嫌悪感を掻きたてたのではないか。
131(1): 2014/08/23(土)10:41 ID:/xoaEc+Y(2/4) AAS
129の補足
ところでこの常不軽菩薩品でも、「不軽」の解釈以外にも、羅什訳の気になる点がある。
周囲の人々が不軽菩薩に苛立つ描写において、羅什訳は要らぬ誇張と解釈を持ち込んでいるのである。
心不浄者、是無智比丘、従何所来、等々である。梵本にはこうした表現はない。
羅什訳で「比丘」は岩本訳では「求法者」、梵本ではボーディサットヴァ(菩薩)である。
なぜ羅什は菩薩でなく比丘と訳したのか。在野の出家修行者を菩薩といえない空気があったのではないか。
羅什訳は明らかに中国で仏教教団が階層的な権威主義に毒されていた影響が感じられ、注意が肝要である。
133(1): 2014/08/23(土)20:47 ID:/xoaEc+Y(3/4) AAS
>>132
文書が成立した年代がオリジナルの説法から何年経っていようが、その文書の内容が純然たる創作であるという証明にはならない。
古代では聖なるものは限られた人の伝承によって伝えられたのだ。文書の成立年代は文書の成立年代以上の意味を持たない。
我が国の古事記も稗田阿礼が口述したものだが、これは稗田阿礼が口述時に即興で出まかせを述べたということを意味しない。
しかも成立年代の平均年代それも100年の幅をもっての平均などは、いかに所説の分布が広いかを示すものでしかない。
Wikiを見てもわかるだろうが、法華経の成立年代についての定説などはない。今後もおそらくない。興味ある問題ではないからだ。
134: 2014/08/23(土)21:08 ID:/xoaEc+Y(4/4) AAS
133の続き
では私が法華経が釈尊の直説だと思うかと言えば、まったくそうは思わない。それは内容的なものである。それが核心である。
本スレで重要なことは、天台の五時八教説を根拠に法華経を最勝とした日蓮の教説は誤りであること、権実相対の崩壊である。
そもそも内外相対も疑わしい。不殺生を徹底するマハーヴィーラのジャイナ教のほうが日蓮教よりはるかに仏教に近いと思われる。
大小相対も日蓮教徒の口出しする問題ではなかろう。部派仏教のすぐれた成果が日蓮教のどこに見出されるというのか。
日蓮教徒が何を信じようと勝手だが、仏教を詐称するのはやめるべきではないか。日蓮教徒もよくよく考えてもらいたい。
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