[過去ログ] 【大反省会】光る君へ (964レス)
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(3): 2024/12/15(日)20:59 ID:dYGAbtNl(1/10) AAS
えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト - 吉井氏、馬氏の事 外部リンク[html]:nishinomiya-ebisu.com
吉井氏、馬氏の事  『「西宮町誌」第三篇 第十章 第二節 旧家』参照
吉井氏   『吉井氏は其の先鎌足の裔、藤原千晴に出づ。千晴の三男に信良あり。嘗て門前に井を掘鑿せしに、清水滾々として湧出したるにより、時人挙って吉井也とす。依って以て氏となす。安和二年(西暦969)左大臣源高明及橘繁延、藤原千晴等、源満中 藤原善時の讒謗する所となり、坐せられて各地に配流せらる。
信良また遁れて攝津國西宮に蟄居す。翌年摂政藤原伊尹に愁訴し、許されて廣田南宮蛭児三社兼帯の社務職を承く。圓融院の勅許なりとす。系譜左の如し。』とし、1信良 から52良晃(現代) まで全員が記載されている。即ち、信良が西宮に移った経緯、そこでの吉井の姓の生れたいわれ、廣田神社等の神主になった事などが記されている。
以下、52代を転記す。   1信良 2良継 3信政 4良連 5良忠 6信常 7良通 8信之  9良治 10良重 11信俊 12朗信 13良高 14良邦 15信種 16良興 17信保  18良昌 19良澄 20信實 21良村 22信匡 23良玄 24信庸 25信豊 26信祐 27良惟 28良憲 29信憑 30信懿 31信宗 32良繁 33信行 34信貞 35良建  36良它 37良輝 
38良孰 39信吉 40良衡 41良兼 42良重 43良次 44良政  45良信 46良行 47良知 48良足 49良明 50良顕 51良郷 52良晃
尚、「西宮町誌」は大正十五年発行で、その後の53は良地、54は良隆、55は良昭である。また、初代「信良」の信 又は良のいづれかを上に付してをり、40代以降は良ばかりになっている。
傍系は、1良則 2良直 3良運(47良知の弟) 4良幹 5良秀(現代)とある。その後の6は良尚 7貞俊 8良英である。
803
(2): 2024/12/15(日)22:14 ID:dYGAbtNl(5/10) AAS
>>126 えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト - 境内案内

西宮神社は 福の神として崇敬されている えびす様をおまつりする神社の総本社です。

札場筋脇、御輿屋(おこしや)跡地から旧西国街道を西に約二百米、正面に西宮神社表大門(おもてだいもん)が現れます。
通称赤門(あかもん)と云われる表大門は、桃山建築の遺構をのこし、その左右に連なる大練塀(おおねりべい)と共に、重要文化財に指定されています。

天文三年(一五三四)の兵火により尽く焼失した境内建物も一部修復されていたようですが、慶長九年(一六〇四) から同十四年にかけて豊臣秀頼公の奉献によりこの表大門始め本殿拝殿等全て元に復したと言われています。

大練塀が最初に建てられた年代についての文献は残っていませんが、昭和二十五年の大修理の際、築土の中から宗銭三枚、元銭一枚が発見され、これによって室町時代に建造されたものと推定されます。全長二四七メートルの土塀で、その堅牢な構造から国の重要文化財に指定され、名古屋・熱田神宮の信長塀、京都・三十三間堂の太閤塀と共に日本三大練塀と称されています。
省1
805: 2024/12/15(日)22:17 ID:dYGAbtNl(6/10) AAS
>>803 >>126
手水舎(てみずや)で口を漱ぎ振り向くと、三連春日造(さんれんかすがづくり)と云う珍しい構造の本殿の屋根が望まれます。
江戸時代寛文三年(一六六三)に四代将軍家綱の寄進になる国宝の本殿は、
昭和二十年の空襲により烏有に帰してしまいましたが、昭和三十六年、桧皮葺から銅板葺に変わった他は、ほぼ元通りに復興され、今は銅屋根も古色を帯び、えびすの杜を背景に佇んでいます。

平成二十三年は、昭和三十六年の戦災復興から五十年の年にあたりますので、五十年毎の式年造替という嘉例に従いこれを記念し祈祷殿の新築、神池の改修を行い、本殿、拝殿の改修を行いました。。

本殿、拝殿の手前、社務所、授与所は阪神大震災後再建された建物ですが、中には「えびす信仰資料展示室」があり、全国から集まったえびす様の像や御神影、土鈴などがどなたでもご覧いただけるようになっています。授与所では御札・御神影・御守り・福銭・絵馬・御神像や、おみくじなどが授与されています。
898
(1): 2024/12/16(月)14:46 ID:+Ww8hLnO(1/2) AAS
>>126 >>806 廣田神社 〒662-0867 兵庫県西宮市大社町7番7号 
廣田神社の御沿革 廣田神社は、上代から中古にかけて、国家鎮護・天地自然・立身出世・武運長久に御霊験高き神として、全国的に延喜式内の官幣名神大社として厚遇されました。
  「伊勢大神宮御同体」の兵庫県下第一の御社格御由緒の大社として広く崇敬を集め、中世には「西宮参拝」と称して国家の神事を司った神祇官の
歴代長官や公家・五山の僧侶たちが度々に亙って参詣し、物語や和歌・今様・漢詩に多々その痕跡を残しています。
献燈祭本殿にて 廣田神社献燈祭 大同元年(806)封戸四十一戸、貞観10年(868)従1位昇叙、延喜年間(901〜923)官幣名神大社・相嘗(あいなめ)祈雨の奉幣に列し、正暦2年(991)19社の一社に加えられ、朝廷 より恒例・臨時の奉幣(ほうべい)枚挙たることが古記録に残っています。白河天皇の時代(11世紀末)には、全国神社に冠たる勅祭22社の一社にも県内で唯一社選ばれ、朝廷・公家の篤い崇敬を受けました。
武家の崇敬も篤く、源頼朝は元暦元年(1184)平氏の討伐を祈願して淡路・広田荘を寄進し、豊臣秀頼は慶長9年(1604)大規模な改築を末社・戎社(現在の西宮戎神社)を含み行い、徳川吉宗は現今の地に遷宮しました。
明治4年(1871)には兵庫県内で唯一、最高位である官幣大社に列せられました。 御社殿は、伊勢神宮戦後初の式年遷宮に当たり荒祭宮(あらまつりのみや)旧社殿の譲与を受け、昭和31〜38年(1956〜63)に神明造にて造営がなされました。
平成13年(2001)には御鎮座1800年の喜節を迎え、天皇陛下よりの御幣帛を奉って式年祭・奉幣奉祝祭を齋行致した廣田神社は、悠久の歴史と高貴な社格、深遠な由緒を有する、日本全国の10万社を代表する1社です。
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