[過去ログ] 【内田雅也の猛虎監督列伝(26)〜第26代 藤田平】孤立した「鬼平」の寂しき末路 前代未聞の解任拒否 [砂漠のマスカレード★] (51レス)
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1(1): 砂漠のマスカレード ★ 2020/05/16(土)12:46 ID:Emcr7SuV9(1/2) AAS
1995年夏、シーズン中に辞任した中村勝広の後任に2軍監督の藤田平が就いた。本紙連載に「スムーズに物事が運び過ぎてこっけいだ」と球団職員の談話がある。球団は6年目を迎える中村体制で2軍監督に藤田を据えていた。監督交代を見越した人事だった。
球宴前最終戦で中村最後の指揮となる7月23日朝、次期監督を示唆された藤田は鳴尾浜にいた。報道陣が詰めかけ衆人環視のなか、練習に遅刻した新庄剛志に外野の芝の上で正座を命じた。選手同士で決めた罰則だが、足首を傷めていた新庄はトレーナー室で相談していた。藤田は理由も聞かず遅刻と決めつけた、と後に新庄が語っている。
球宴中の練習では炎暑のなか50分のダッシュを課した。厳しさと名前の「平」から『鬼平犯科帳』になぞらえ、自ら「鬼平になる」と語った。
24日、大阪・野田の電鉄本社にオーナー(本社会長)・久万俊二郎を訪ねた。辞任を了承した中村は「休養」扱い。「監督代行」に就いた藤田は「力を出し切れていない選手が多い。梅雨時のようなチームを梅雨明けさせたい」と語った。
就任初戦で桧山進次郎を4番起用するなど色は出したが、17勝36敗と成績は上向かなかった。
シーズン終了恒例のオーナー報告は10月18日にあり、藤田は正式に監督となった。この時、契約年限について藤田が語っている。「複数年の話も出たが、阪神はそういう契約はしないということだった」つまり単年(1年)契約だった。<肝心の監督任期>と本紙・鈴木光が書いている。後の騒動で争点となった。
12月の契約更改。新庄が球団への要求をはき出した。「ここまで来たのは2人のおかげ」という前監督・中村の退任、打撃コーチ・柏原純一の解任も不満だが「理解できない交代や抹消や昇格がある」と藤田の采配を批判した。「阪神を辞めたい。環境を変えたい」とトレード志願。「僕にはセンスがない」と引退まで宣言した。結局は「倒れた父親に野球する姿を見せるのが一番の薬」と撤回して契約した。3週間に及ぶ騒動だった。
藤田自身も84年オフ、監督・安藤統男への不満からコーチ就任を拒否し「安藤監督の下ではやっていられない」と引退・退団している。因果は巡るということか。
迎えた96年。藤田は調整不足を理由に4番のグレン・デービスを開幕2軍に落とした。グレンは「悪いのは誰かというスケープゴートにされた」と怒りをぶちまけた。
最悪ムードで開幕し、一時は87年の球団最低勝率を下回るほど負け続けた。5月26日からは応援団がふがいない戦いに抗議し、鳴り物をやめた。この応援ボイコットは6月2日まで続いた。
2020/05/16 08:01
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