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【旧日本軍】従軍慰安婦「兵70人に1人」と記述 外務省文書、軍関与を補強 ★11 (1002レス)
【旧日本軍】従軍慰安婦「兵70人に1人」と記述 外務省文書、軍関与を補強 ★11 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/
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639: 名無しさん@1周年 [sage] 2019/12/08(日) 14:30:51.66 ID:gWPYspGs0 398名無しさん@1周年2019/12/08(日) 12:32:10.97 ID:AhIVNskK0 『反日種族主義』 ・朝鮮風の公娼制 娼妓は、前に指摘したように、もともとは日本風で、 日本人女性が多数でした。 日本人娼妓の数は、一九一六年の二〇七七人に始まり、一九二一年の二五九九人で 頂点に達し、徐々に減って行く傾向にあります。 それに比べ朝鮮人娼妓の数は、最初は七七四人しかいなかったのが、一九四〇年には 二一五七人にもなり、日本人娼妓の一七七七人を凌駕しました。芸妓も最初は日本人 が多数ですが、朝鮮人芸妓が徐々に増え、一九二九年には日本人の数を追い越し、 一九三九年には六一二二人というピークに達しました。 酌婦も、最初は日本人が多かったのですが、一九一九年には朝鮮人が日本人を凌駕し、 一九三九年には一四四五人もいました。 三つの部類を総合すると、日本人が一九一六年 から一九四〇年まで四〇〇〇人の水準で停滞したのに対し、朝鮮人は一九一ハ年の 一七〇〇人から一九四〇年の九五人〇人にまで大きく増加しました。 朝鮮の妓生はもともと一、二、三牌に区分されていたそうです。一牌は、宮中や官衙の宴会で 舞と歌を披露した一級芸能の所持者で、売春とは無関係でした。二牌は、芸能水準が一牌より 低く、売春も兼業しました。三牌は、芸能の訓練を受けたことのない自称妓生で、主に売春に 従事しました。 一九三〇年代に入って、朝鮮人芸妓が急に増加したのは、伝統妓生のうち主に二牌と三牌が芸妓 名簿に名前を登録し、料理屋に出て歌と舞の芸能を売って売春をすることが急増加したことを 意味します。 つまり、娼妓業を中心とした移植公娼制は、伝統妓生別の作用を受けて芸妓業を中心 とする朝鮮風となって定着し、拡散して行ったということができます。 後に日本軍慰安婦となった女性たちの相当数が妓生養成所である券番や料理屋の妓生 出身であったのは、このような時代的背景からでした。 このことから、一九三〇年代に入り、公娼制の中心が朝鮮人に移ったということが できますが、そのような時代の流れを作ったのは朝鮮人芸妓の急速な増加でした。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/639
642: 名無しさん@1周年 [sage] 2019/12/08(日) 14:31:13.52 ID:gWPYspGs0 400名無しさん@1周年2019/12/08(日) 12:32:49.66ID:AhIVNskK0 『反日種族主義』 周旋業者が地域で女性を募集する最初の過程を見てみます。前に少し紹介しましたが、 女性が娼妓となるには、保護者の就業承諾書が必要でした。保護者はふつう父親です が、父親がいなければ母親、母親もいなければ戸主になっている兄や他の親族が保護 者でした。 これら保護者をひとまとめにして戸主と言ってもいいでしょう。周旋業者は戸主を 説得して、就業承諾書に印鑑を押させます。 それから、女性と戸主との関係を証明する戸籍謄本と印鑑証明書を発給してもらい ます。このような書類を揃えなければ、管轄警察署長から就業許可を得ることはでき ませんでした。 ところで、今私が言及した戸主、戸籍謄本、印鑑、印鑑証明書などの制度は、全て 日本が朝鮮を支配した初期に生まれたものです。それどころか、「家族」という言葉 と概念ができたのも、日帝初期のことです。朝鮮王朝時代には、家族という言葉は ありませんでした。 似たような言葉として、家率、家脊のような言葉がありますが、その意味は家族と 一致するものではありません。 私は、二〇世紀初めに成立した朝鮮の家族制度を「戸主制家族」と規定しています。 従来あまり注目されていませんでしたか、「戸主制家族」の成立は、二○世紀の 韓国人の家庭生活や精神文化に重大な影響を及ぼしました。 そのことに関しては 私が書いた『韓国経済史』Uという本の中の「戸主制家族の出現」の節を読んで ください。 私は、「戸主制家族」についての理解がなくては、日帝期に成立した 公娼制や日本軍慰安婦制度をきちんと理解することは難しい、とまで思っています。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/642
644: 名無しさん@1周年 [sage] 2019/12/08(日) 14:31:42.20 ID:gWPYspGs0 402名無しさん@1周年 2019/12/08(日) 12:33:19.19ID:AhIVNskK0 『反日種族主義』 戸主制家族が生まれたのは、一九〇九年の民籍法、一九一一年の戸籍法、一九一二年 の民法を通じてでした。その過程で日本式の家族制度が移植されました。 その過程で日本式の家族制度が移植されました。すなわち戸主制家族です。 成員は、 家父長戸主に対して無権利です。 例えば、 成員が取得した所得は、別規定がない限り、戸主の所得に帰属します。 妻の社会活動も、戸主の承認があってこそ法的効力を有します。戸主制家族は、徹底 的に男性優位の家父長制文化です。このような文化、このような権力であったため、 女性の性を国家が管理する公娼制が成立できたのです。 戸主制家族の成立は、逆説的に、何も持っていない貧困階層の戸主に娘の就業を承諾 する権利を与えました。そのため、周旋業者が来て「甘言利説」で説得し若干の前借 金を提示すれば、仕方なく、あるいは喜んで娘の就業承諾書に印鑑を押したのです。 娘は拒否することができませんでした。 家族成員の地位変動は、 戸主権力の所管でした。娘は泣きながら周旋業者に連れて 行かれました。これが公娼制を取り巻く、いわゆる人身売買の実態です。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/644
650: 名無しさん@1周年 [sage] 2019/12/08(日) 14:32:38.88 ID:gWPYspGs0 404名無しさん@1周年2019/12/08(日) 12:35:15.46ID:AhIVNskK0 『反日種族主義』 父親が娘を周旋業者に娼妓や芸妓として売り渡すのは、 単に貧困からだけではあり ませんでした。家族を養育し、保護する家父長の義務が、 貧困階層の家庭倫理として成熟していなかったことも一因と言えます。 従来、サンノム(常漠、下層身分を指す蔑視語)は、極めて堕落して伝道の自由も 就学の自由もなく、まさに人間の層として生きて来た。両班は彼らの人格を認めず、 サンノムも自らを軽んじていた。臆面がなく、道徳など彼らの知ったことでなかった のである。 彼らの生活難は、一層、彼らの良心を麻痺させた。朝鮮の娼妓と言えば、誰もが慶尚道 の女が最も多いと思うであろう。そこに行って聞いてみたら、娼妓は皆、微賤なサンノム たちが生活難により、自分の娘を売り放したのである。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/650
655: 名無しさん@1周年 [sage] 2019/12/08(日) 14:33:18.74 ID:gWPYspGs0 407名無しさん@1周年2019/12/08(日) 12:36:20.61ID:AhIVNskK0 『反日種族主義』 この記事を以て、娘を娼妓として売り渡した下層民の非道徳性を批判する趣旨、と 理解してもらっては困ります。 長い歳月にわたる非人間的な身分支配と差別は、下層民の家庭倫理を堕落させるしか ありませんでした。そのように、身分制社会が残した負の遺産という視点から植民地 期の朝鮮社会の矛盾を見る必要があります。 右記の記事の中で「朝鮮の娼妓と言えば、誰もが慶尚道の女と思う」という指摘は、 まざれもない事実でした。一九九一年、日本軍慰安婦問題が生じて以来、自分は日本軍 慰安婦であった、と告白した女性百七十余人の中で、慶尚北道と慶尚南道出身が九七人 もいました。全羅南道と全羅北道出身は二七人、忠清北道と忠晴南追出身は一〇人に過 ぎません。 つまり、 日本軍慰安婦問題と朝鮮王朝時代の強固な身分制とは無関係ではありませんで した。前にも指摘しましたが、妓生制、公娼制、慰安婦制は、もともと歴史的に一つ の系譜なのです。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575748830/655
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