在日韓国・朝鮮人の通名に多い名前を語ろう (154レス)
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75: (JPW 0H76-zg9g) 03/24(日)01:00:16.53 ID:JjWFzTCqH(1) AAS
秋月種信(生没年不詳)は李氏朝鮮出身の日本の武士、のちに浪人、豆腐製造者。種信という諱は秋月家系譜録に記されているもので、通称の長左衛門という名でより知られている。朝鮮名は朴元赫、日本における幼名は長次郎。 文禄・慶長の役の際朝鮮へと出陣した長宗我部元親に従って来日し、長宗我部氏の小姓を務めた。関ヶ原の戦いによる長宗我部氏改易の後に浪人となり、豆腐製造業を開始し、土佐に大陸風の堅豆腐を広めた。
種信の曽祖父は通訓大夫鎮海県監を務めたいわば地方長官で、父の朴好仁は慶州の小城(いくつかの資料では「秋月城」とされる)の主を務めた武官であった。秋月氏の系譜によると、元赫(種信)は慶州城中にて出生したという。
文禄の役の際、長宗我部元親を含む日本の軍勢が熊川城に攻め入ると、朴好仁は家族と主従八十数人を連れ、援軍として駆けつけた。しかし朝鮮軍は敗走し、好仁が妻子を逃がそうとしていたところ、元親の軍勢が現れ好仁の妻子や下官を捕虜とした。それを見た好仁は自ら長宗我部の陣中に駆け込むが、家臣の吉田政重により捕らえられた。
翌文禄三年(1594年)、好仁・元赫父子は元親の帰国に伴い、主従三十数人とともに土佐へと移住し、浦戸城下に住まわせられる。元赫は12歳のときに名を長次郎と改め、長宗我部氏の小姓として仕えた。なお元赫の妹は盛親の妻となり、大坂の陣に至るまで近侍した後、奈良へ移住してそこで没した。
なお、秋月という姓については好仁の居城であったとされる「秋月城」に由来すると考えられる一方、以下のような伝承も伝えられている。朝鮮出兵の際、五番隊の元親は四番隊の秋月種長とともに作戦行動を行っており、その際元赫は種長の養子になったというものである。
省2
95: (ワッチョイW 66ed-E3mg) 05/09(木)21:10:06.53 ID:kTcGnXxA0(1) AAS
某平川
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