[過去ログ] 【地震】首都圏の地震頻度、高止まり 巨大地震確率も押し上げ 「普通の地震では考えられないような現象が起きている可能性もある」 (215レス)
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211: 2013/06/16(日)06:08 ID:Nl/Uwc8e(5/5) AAS
宝永地震「大坂の死者2万1千人超」 通説上回る被害
外部リンク:www.nikkei.com
江戸時代中期の1707年に発生した宝永地震(マグニチュード8.6)で、大坂(現・大阪)市中の津波などの死者は2万1千人を超えたとする記録が
残っていたことが9日、分かった。矢田俊文新潟大教授(中世災害史)が尾張徳川家に伝わる文書で確認した。
有史で最大級の南海トラフ地震だが、被害実数が分かる史料は少なく、大坂の死者は数千〜1万人、全国で計2万人との推計が通説だった。
地震直後に尾張藩士が幕府の報告書を写したもので信頼性が高く、宝永地震の被害見直しを迫る史料となりそうだ。
「天下の台所」と呼ばれ、物流拠点として栄えた大坂の人口は当時約35万人。死亡率は6%に達し全国最多とみられる。
尾張徳川家は将軍家に次ぐ御三家筆頭で、代々、尾張藩(愛知県など)の藩主を務めた。矢田教授は藩士が17〜18世紀に幕府の動静や事件、
災害を記録した「朝林」を調べた。
朝林によると、地震6日後の大坂は「3537の家がつぶれ、5351人が圧死、1万6371人が(津波で)溺死」。文末に「公儀御帳面之写のよし」とあり、
大坂町奉行から幕府に届いた報告書を写したものと分かった。
当時の幕府の公式記録は火災などで大半が失われ、将軍徳川綱吉の側近・柳沢吉保の公用日記には地震翌日の日付で「大坂は建物被害900軒、
死者260人」と記されているが、その後の記述は見つかっていない。
一方、別の尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」には「地震から6日後の幕府の評定(会議)では死者2万人」とあり、他にも大坂で
1万人以上が死亡したとの史料も残っていたが、東日本大震災が起きるまでは研究者に注目されていなかった。
矢田教授は「大震災を受け、史料を再検討した。宝永地震では今の大阪市中心部の大半が浸水し、多くの橋が落ちた。朝林の記述は現実的だ。
将来の防災に生かしてほしい」と話している。〔共同〕
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東南海地震
1944年12月7日
M7.9 震度5 死者、行方不明者1223名
津波9m
三河地震
1945年1月13日
M6.8震度5 死者、2306名
南海地震
1946年12月21日
M8.0震度5 死者1330名
津波9m
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