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151: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/14(金) 16:19:31.23 ID:+sLCpRey2 中立のリアル・・・・・・・63 ポルトガルのオポルトで、ポルトガル王ジョアン1世の三男として、エンリケ王子は 生まれている。航海王子として大航海時代を開いた人だ。母はイギリスのランカスタ公 の娘で、幼い頃は宮廷で育てられた。と言われる。早くから騎士道物語や占星術に没頭 して星を読む技術を習得していた。当時の航海技術の一つの知識でもあって、騎士道の 物語では、騎士がドラゴンを倒してお姫様を救出するような冒険物語の性質を帯びて、 当時のイベリア半島で流行していた。1415年、ポルトガルがアフリカ北部のモロッコの 主要都市セウタを攻略し、陥落させた。これが、西洋世界の大航海時代の始まり、とさ れている。エンリケ航海王子は、兄弟と共にこれに参加した。なぜ、ポルトガルがモロ ッコ進出を始めたのか。主な理由として、ここでは2点挙げられる。第一の理由では、 当時のポルトガル王権が、国内支配の安定化させる手段として選んだ。ということにあ る。エンリケの父、ジョアン1世はアヴィス朝という新しい王朝を ポルトガルで開始 した人物だ。1383〜1385年の政変で、新たな王として誕生したばかりであったためだ。 その支配は不安定で、他の部族や酋長・首長あるいは、キリスト教国の有力者に、何の 威厳もなかったのだ。ジョアンは、国内を安定させるために、様々な手段をとった様だ 。たとえば、伝統的な、同盟相手のイギリスとの関係を強化しようとした。そのため、 上述のランカスター公の娘と結婚して縁故となり、エンリケ航海王子などが産まれた。 こうした、支配安定化の手段の一つが、対外拡張策だった。ジョアン1世を国王として 支持していた有力貴族たちは、見返りを求めていた。だが、ジョアンは新たな国王で、 土地の有力者達にふるまう様な、十分な財力を保持していなかった。そのため、対外的 に、征服戦争を行い、強さや、新たな土地の支配をして、その土地や権益を彼らに見返 りとして配分することにした。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/151
152: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/14(金) 16:25:41.66 ID:+sLCpRey2 中立のリアル・・・・・・・64 同時に、1410年代に、新しいジョアン1世に不満を抱く貴族も多くいた。レコンキス タで、やっとできた新領地である。イスラムもキリストもなく、武力の実力の世界が、 横たわっていた。ジョアン1世の主な敵が、フランスと敵対するスペイン王だったが、 これらの地方貴族達が、スペイン王に味方する恐れもあった。ジョアンは、これらの、 国内不満分子を、国内から遠ざける必要はあったものの、スペインには行かせたくなか ったし、イギリスとの連携にも障害となっていた。そこで、別の戦地に送り込もうとし た。このように、ジョアン1世が新たな王権を安定化させるために、対外拡張を選んだ のであった。1411年に、スペインとの和平が成立した為、1415年に思い切って、セウタ 攻略に踏み切ったのである。第二の理由は、セウタ攻略がこのレコンキスタの延長線上 にあったことである。レコンキスタ。国土回復運動と日本で訳されるこの動きは、スペ イン語で再征服の意味で、イベリア半島から侵入してきたイスラム教徒に対するキリス ト教徒による反撃の動きであった。ポルトガルとスペインはこの欧州最先端のイベリア 半島に位置していた。いわば侵入の最前線の前線基地の国だった。8世紀レコンキスタ が始まり、イベリア半島でイスラム勢力に奪取された地域を、奪い返した再征服運動の 延長上にアフリカ戦略があり。ポルトガルは、イベリア半島からイスラム教徒を、追い 出すだけでなく、さらに、海を越えて、アフリカ北部に進出した制圧を開始したのだ。 スペインでも、1492年に完了しているので、ポルトガルは、父ジョアン1世の時代に、 欧州でのこの運動は、既に完了していた。しかし、レコンキスタは十字軍の精神であり 、騎士道精神は残り、その精神によって活性化され、修道士会の活発な動きが続けられ ていたのである。こうした活動は、ローマ教皇庁によって推奨されて応援されていた。 その為、レコンキスタ同様、ポルトガル王朝の誇りや威信のように喧伝され、アフリカ 大陸での、イスラム勢力との戦いは、十字軍に準じるような活動とみなされ、止められ なかったようだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/152
153: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/15(土) 15:14:29.92 ID:+zz0HSoUP 中立のリアル・・・・・・・65 しかし、結果的に、これらの事業を推進し、成功した事は歴史に残った。1427年には アゾレス諸島に到達し、1434年、ボジャドール岬を通過した。ここはそれまでの、ヨー ロッパ人が、誰も越えることのできなかった地点だったのである。1443年には、ギニア に到達し1456年、ヴェルデ岬諸島を発見した。1460年、ポルトガルは、こうしてシエラ レオネまで到達している。これが、結果的に国内で反乱因子となっていたユグノー信者 古代ユダヤ教の隠れ信徒の入植になって、スペイン・ポルトガルを安定させた。実は、 カルヴァン主義、即ち人類は先祖の罪を背負って産まれ出て、神の下に救いを得る事が 最上の生き方であり、永遠の昔に救われるべき人々を神は選んでいて否定する事は出来 ない。救われるべき人々を無条件に選ばれ−神が選ばれた人々の恵みに人は反抗する事 ができない。選ばれた聖霊によって最後まで信仰に堅く立ち。神が選ばれた人々は誰も 失われる事がなく、永遠に保障される。と言うユダヤの選民思想を持つ信仰であった。 つまりユグノーはカルヴァン派の改革派教会とされるが、内容は「全的堕落・無条件的 選び・限定的贖罪・不可抗的恩恵・聖徒の堅忍」と言うユダヤの選民思想、そのままで あったのだ。つまり、ユダヤのユに、グノーシス(叡智)を引っ付けた言葉だったのだ 。このポルトガル船が送り込んだスランスからの反抗者の一団は、入植地を新天地アフ リカに体良く与えられ、帆船の寄港地を維持する任務に就いたのである。シエラレオネ は、従って大航海時代の一大白人入植地として栄えた。最初のアフリカ入植村になった http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/153
154: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/15(土) 17:20:34.33 ID:+zz0HSoUP 中立のリアル・・・・・・・66 まさにアフリカ中央部に行く入り口、西アフリカのギニアやシエラレオネに達した時 この年に、航海王子のエンリケは没したのであった。その後もポルトガルの探検航海は 続けられ、遠洋航海によって喜望峰が発見されることになった。まだまだ天動説や平面 地球が信じられている中で、エンリケらは、上述の理由でセウタを 占領したのだが、 その後に、他の目的も追加されるようになるほどポルトガルを救った。理由はアフリカ の金と奴隷の貿易の成功である。主に三点あげれば、アフリカの、黄金や奴隷の貿易に 参加して、大きな収益を得ようという狙いがあったなど言われる。ところがこの頃酋長 部族で生活していたアフリカでは、獲物の取り合いで、領土争いが絶えず部族ごと対立 し、自ら勝った種族が、黒人を奴隷として売りに来た。更にセウタでは、アフリカ中の 黄金が集められ、取引されていた。ので、ポルトガルは、この黄金を欲したのである。 とくに、中国の元朝が滅んだ後、15世紀のヨーロッパでは、金銀の貴金属不足が、深刻 だったと言われる。このため、黄金のニーズは非常に高かったのである。セウタの場所 は、ジブラルタル海峡に於いての、地中海覇権の興亡史において、重要な砦であった。 モロッコの場所を知ってる方は判ると思うが、殆ど大西洋に面した、日本の様に細長い 海岸べたの国である。アフリカ大陸側に山脈(やまなみ)が走り国境となった砂漠地帯 と言われる。サハララリーではかなり有名だが、その北の先端は半島状になっている。 そして太西洋側に、ハンフリー・ボガードで有名なカサブランカやタンジェの街がある が、先端は少しだが地中海側にも海岸がある。その半島の突起部に、セウタの街がある そして、このセウタにはアフリカと欧州の、そして地中海の国々の攻防の歴史がある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/154
155: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/15(土) 17:21:53.98 ID:+zz0HSoUP 中立のリアル・・・・・・・67 セウタの街は、紀元前からの史料が残る。紀元前7世紀に、フェニキア人が定住地を 築き、アビラと呼んだとある。、紀元前319年にカルタゴの支配下となり、紀元前201年 、第二次ポエニ戦争でカルタゴが降伏すると、街はヌミディアへ割譲。紀元前47年には 現地人マウレタニア領となった。しかし紀元後40年、カリグラ帝がマウレタニアを併合 し、ローマ属州の都市になった。この時に勃興してきた西ゴート王に、島の王女が凌辱 されたと言う。この事がイスラム勢力の怒りを呼んで、スペイン侵攻に繋がったと言う 。5世紀半ば、ローマ人の手を離れ、ヴァンダル人の支配に帰した様だが、ユスティニ アヌス1世時代に、将軍ベリサリウスが占領し 東ローマ帝国領となった。710年には、 イスラム系のウマイヤ朝が侵攻し、当時の西ゴート王国のセウタ伯ユリアヌスは寝返り 、ウマイヤ朝軍に対して、スペイン侵略を説いたと言う。アラブ側の口伝や、史料では 、その背景としてユリアヌスの娘であるフロリンダ・ラ=カヴァが、西ゴート王ロデリ クに、凌辱されたことによる怨恨がある。と書いている。セウタは間も無く、イスラム 軍のイベリア半島攻撃の拠点となった。ユリアヌスの死後、セウタの支配は、イスラム 側に帰して、イスラム教の拠点の一つに成長する。788年に モロッコのイドリース朝が セウタを占領。931年 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世が、イベリア半島に あったカリフ領を征服した。その後、グラナダ王国 (スペインアンダルシア州)とフェ ズ王国(モロッコ・フェス)の、係争地となり、カスティーリャ王国(スペイン・ブルゴ ス:カステラ発祥地)とアラゴン王国(スペイン・バレンシア)が、セウタ攻略に介入 することが度々あった。が、落とせなかった。1415年にエンリケ航海王子が、セウタに 侵攻する決断をし、奪取した。ここで、セウタはポルトガル王国領となったのである。 この攻撃の目的は、この地域一帯から、イスラム勢力を駆逐し、キリスト教を、振興す ることにあったし、ムスリム達の排除の延長であった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/155
156: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/15(土) 17:23:20.31 ID:+zz0HSoUP 中立のリアル・・・・・・・68 その後、ポルトガルは、貪欲に黄金を探し求め、ギニア沿岸の、金産出エリアに到達 した。次に、奴隷については アフリカの探検航海が進むにつれて、ポルトガル人は、 黒人奴隷の、商品的価値に目をつける。1440年代頃から、探検・征服事業は、金と奴隷 の交易によって、財政的に支えられるようになって行く。こうした、2つの理由と共に 、大きな目的はインド貿易にあった。エンリケらの当初から狙いは、インド貿易の実現 を目標としていた。だが、航海での印度貿易であったわけではない。まだまだ世界地図 での地球の俯瞰が出来ないでいた頃、中東やインドからの、香辛料貿易を目指していた が、インドが集められた香辛料が売られるだけで、誰もその産地を知らなかったのだ。 海の向こうの、誰も知らない小さな香辛料の地がアフリカにもあるのでは、と思った訳 で、その頃のインドの位置も、香辛料の地も、全く把握されてはいなかったのだ。そし て分け入ったところ、見つけたのはバナナややカカオ豆の輸入に限定されたのである。 ところが、アフリカ大陸の南下を続ける中で、航海によって、インドに到達できる、 可能性を知るようになった。というのもすでにアフリカは中東のペルシャ人やアラブ人 が進出して来ていたからだ。当時、モロッコはベルベル人の商隊の終着地であった。と される。何故最終地だったか、実は海洋に進出してたのは、何も欧州人だけでは無かっ た。ネフィールム族と言われた、現代ではインカとされる南米人も又、海洋に古くから 出ていた。謎の民、ピラコチャ信者達である。南アメリカのアンデス地域の、インカの 人々は、創造神であるビラコチャの創造神話を持っていた。伝説によると、ビラコチャ はチチカカ湖から出現し、太平洋に出航する前に、人間を含む世界の、すべてのものを 作成した。とするものだ。そこに、マンコ=神の使徒の、国王がいてマンコカパック・ マンコインカ・アヤルマンコなど、代々の帝国があった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/156
157: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/15(土) 17:26:20.08 ID:+zz0HSoUP 中立のリアル・・・・・・・69 スペインの古記録によると、彼らは呪術師集団で、大柄大男の集団であったようだ。 時々やって来ては、自分達の持つ伝統工芸の、織物や金宝飾と砂糖などを持ってきて、 塩・毛皮・刃物などと交換して帰って行ったと言う。その中で、医療品としてコカの葉 や、カートの葉やケシの実が、集まってきていた。今でも南米では最古の栽培植物の一 つとして、この葉が嗜好品として用いられ、今でも疲れにくく食欲を減らすため、鉱山 労働者など、広く使用されている。これらが持ち込まれ、そして、販売してきたのが、 雑貨商を営んできたサスーン商店である。スペインに起源を持つセファルディムの出身 で、父サレハは、バグダードと現在のイラク南部を支配したパシャの主任会計を務めた とされる。元々紀元前からのユダヤコミュニティーを率いる資産家だったようだ。その 後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住 した。英国の海軍設立時に軍についていったと言われて、その後にインドでの綿花栽培 に成功し、サッス―ン商会を開業している。古くはパールシー(ゾロアスター教徒)と された。パールシーは、インドに住むゾロアスター教の信者である。とされるが、実は 違っている。と言うのも伝承では「パールシーがインドに来た時、代表者がマハラジャ に定住の希望を伝えた。マハラジャは「貴方方の為の場所は残っていない」と答えた。 代表はコップに一杯のミルクを希望し、ミルクをコップに注いだあと、スプーン一杯の 砂糖を溶かしこむ。見事にコップからは一滴のミルクもこぼれることはなくこう言った 。『このように私達がこの地に溶けこみ、地域を甘くすることが出来ます』と述べた。 この話に感銘したマハラジャは、少し考えて布教を行わない条件付きで定住許可した」 とあるのだ。更に紀元前からのユダヤと言うのも商売上の信仰であったと言えよう。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/157
158: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:37:10.82 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・70 考えてみれば、スペイン・ポルトガルのイベリア半島は、欧州の先住民が、東欧近く からドンドンと逃げてきた人の行き着いた場所だ。実は、このイベリアと言う名称も又 イベリア文明にある。スペイン南部の都市バサの北、セロ・デル・サントゥアリオ遺跡 がある、古代ローマ以前の墓地遺跡である。1971年、発掘作業員がここで掘り当てた物 に、色の付いた岩があった。土を取り除くと女性の顔が現れ、太陽の光を浴びたのは、 高さ1.2mの石灰石の彫像で、「バサの貴婦人」と名付けられた。翼をもつ 玉座に座る 婦人だ。ドレスと宝石で着飾った女性が座っている像は、かつては 鮮やかに彩色され たもので今でもその顔料の名残りがある。バラ色の頬やマントの縁の市松模様などに見 られ、右側の物入れの中から火葬された人骨が見つかり、年代測定で、バサの貴婦人は 紀元前 380年頃の骨壺だった。と判明した。およそ2400年ぶりの石像だったのである。 この「バサの貴婦人像」は、1897年に発見された「エルチェの貴婦人」など、幾つかの スペインの他の場所の女性像に似ていて、石像にはどちらもイベリアの衣装や髪飾り、 イヤリング、ネックレスで飾られており、かつては鮮やかな色が塗られていたのだった 。こうした先住民を、イベリア人と呼んで迫害して行った事で、この半島をイベリア半 島と呼んでいたのだ。こうした遺跡は、当然、古代ローマに支配される前の時代に作ら れたもので、当時栄えていたイベリア文化はまだ多くの謎に包まれている。精巧な装飾 を施された「バサの貴婦人像」は、その体内に葬られた人物に関する手がかりとして、 今も究明が続けられている。現代の考古学では、イベリア人という言葉を厳密な意味で 、青銅器時代に、この地域にいた先住民を指す。とした。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/158
159: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:37:43.97 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・71 アフリカ起源で、人類の移動が始まって以来、現在の、スペイン・ポルトガルが位置 するイベリア半島は、アフリカ、欧州、地中海沿岸の文化が混じり合う場所となった。 8000年にわたって、このイベリア半島の古代人の遺伝的特徴をまとめた新たな論文が、 遺伝学者と考古学者からなる研究チームにより、発表された論文によると、遺伝子は、 非常に複雑に入り混じっているという。また、約4500年前に謎の大移動が始まり、それ だけで古代イベリア人男性のDNAが完全に一新されたことが示唆される。紀元前2500 年頃から、イベリア半島の古代人の遺伝子構成は、青銅器時代に劇的に変化し始めた。 黒海とカスピ海周辺のステップ地帯に暮らしていた人々に関連する遺伝子が、イベリア 半島の人々から検出され始めたのだ。その後、古代イベリア人のDNAの多くが、この ステップ地帯の人々のDNAと置き換えられた。とされた。その「ステップ仮説」では インド・ヨーロッパ語族を広めたステップの人々だったという推測で、ステップの人々 はほぼ同時期に、東はアジアへ、西はヨーロッパへと広がったとされる。今回の論文は 、彼らがイベリアにも到達していたことを示し、その前後で、イベリアの人々の60%に ステップ由来の遺伝子が加わらなかったものの、Y染色体は紀元前2000年までに、ほぼ 置き換わった。つまりY染色体の遺伝性を持つのは男性のみであるため、ステップ地帯 から男性が大量に流入した。即ち侵攻があった事が示唆された。当時この一帯で繁栄し ていたのがアルガル文化と言われ、その副葬品から、女性は男性よりも早くから成人と 見なされていた。女の子であれば、6歳でもナイフや道具と共に埋葬されたが、男の子 がそうされるのは十代になってからだった。更に彼らは、明確に階級社会の文化を受け 継いでいた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/159
160: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:38:07.41 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・72 アルガル文化は紀元前1500年頃に崩壊したが、紀元前1000年頃から、複雑なイベリア 社会が新たに現れ始めた。アルガル文化の祖先たちと同じく金属加工が得意で、地中海 東部の商人との交易で裕福になった。としている。紀元前8世紀に、新たに台頭して来 たのがケルト人で、海からスペインに入り込み始めた。そして、現地のイベリア人と、 混ざり合い、2つの文化が融合した「ケルティベリア(ケルト・イベリア)」文化が、 生まれた。と言う分類をしている。しかし、ケルト人はイベリア半島南東部の、地中海 沿岸には進出しなかったため、そこでは本来のイベリア先住民の割合が高く保たれた。 と言う。南東部のイベリア人部族の中に、紀元前4世紀〜前3世紀頃にかけて強い影響力 を持った部族があった。後にローマ人は、この部族を、彼らの首都バスティにちなんで バステタニと名付けた。現在バサと呼ばれるその首都バスティこそ、50年近く前にバサ の貴婦人が発見された場所であった。「7500年前のイベリア女性の顔を復元した時に、 研究所は、アナトリアからのDNAが90%」としている。即ち、この階級社会の現象は アナトリアつまり、トルコの民が持って来た社会であったのだ。まさに地中海世界が、 海の交易路として機能していたのである。この姿は日本の瀬戸内海を思わせるものだ。 「その政治的な力が厳密にどんなものであったのかは、私たちにはわかりません」と言 いつつ「しかし、このラ・アルモロヤの墓は、青銅器時代の女性の政治的な役割に疑問 を投げかけています。従来の考え方が大きく問われているのです」と女性皇帝を匂わせ る。古代世界でこうであるから、中世にサッス―ン商会が中東買い付け品でモロッコで 繁盛していた事は、よく分かる。そして、そのモロッコ貿易の中心地セウタを攻略して 手中に収めた理由も、サッス―ン商会がユダヤに宗教替えしたのも、ここがその中心地 となっていたからだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/160
161: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:38:59.65 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・73 この、中東からの行商人たちは、古くから地図を持って、正確に地球が丸い事を知っ ていた。アリストテレス時代からの図書館や、文物や資源の利用法や数多くの叡智を持 って、インド洋、そして東南アジアの島々にまたがるエリアで、貿易を行っていたのだ 。そして彼らは、アフリカとインドの貿易ルートの海路も知っていたのである。さらに ベネチア商人はこの香辛料貿易を奪取したいと、神聖ローマに掛け合い、イスパニアと ローマ・ベネチアの三者連合で、ペルシャ海軍に挑んでプレヴェザー海戦をおこした。 元々、地中海はエジプト勢の海運が主だったしかしペルシャ帝国が勃興し航海を仕切る 。しかし、ローマ帝国に敗け、そのローマも滅んでいく。ローマ帝国を滅ぼしたのは、 遊牧民フン族とされる。馬に乗り、草原を縦横無尽に強奪の限りを尽くしたとされる。 古代ローマの歴史家タキトゥスの「ゲルマニア」のよると、ゲルマン民族は、バルト海 沿岸地方を原住地としていた。ゲルマン民族は紀元前後には既に、ライン川・ドナウ川 の北方にまで居住地を拡大していて、4世紀頃アジアのフン族に押されて、ゲルマン人 がやって来たとする。ゴート族が南下し、これによって、ゲルマン民族が西ローマ帝国 内に大移動。結果として帝国は滅亡し、その後、ヨーロッパでは、ゲルマン民族らによ って、更に多くの国が築かれた。とされた。ゲルマン民族大移動をさせたこのフン族は 、一体どこから来たのか。今でも謎だが、現在定説としているのは、モンゴル高原に、 活躍していた匈奴(きょうど)の子孫という説になっている。又、大移動を行った民族は 、大王国を築いたフランク族の他、北アフリカに建国したヴァンダル族、ガリア中部に 建国したブルグンド族、北イタリアに建国したランゴバルド族、ブリタニアに建国した アングル族、サクソン族などがある。としている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/161
162: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:39:22.19 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・74 その後ローマ帝国に敗けて、ローマが滅ぶ迄、地中海においてはガレー船が商船とし て多用された。ガレーとは船を意味する。一応帆はつけているが、常時使用はしない物 で固定された小さい物で、基本櫂(かい)つまりオールの漕ぎ手が2〜40人ぐらいに 載せて航海していたのである。1538年、オスマン帝国のスレイマン1世の時代になって も、このガレー船の戦闘時代だった。フン族達は騎馬隊で蹴散らしても、船による遠征 までに至らなかったのである。ところが、中央アジアの覇者となるオスマン帝国でも、 新たな潮流には負けたのである。。ガレー船は中世に入ってからも地中海の東方貿易で 盛んに用いられたが、櫂を上下に配置する大型ガレー船は次第に少なくなった。中東で は、人口の増加に森林の伐採が進み、大型船が造れなくなっていたのだ。14世紀頃か らは、船幅が広く安定したガレー船が作られるようになり、15世紀には特にヴェネツ ィアでガレー商船が盛んに作られた。その漕ぎ手は古代ギリシア以来、自由人であった が、労賃が高くついたので、中世末期からは戦争捕虜や囚人が漕ぎ手として使役される 。しかし、15世紀後半、大航海時代になると、ポルトガル・スペインでカラベル船と いわれる帆船が用いられるようになった。これはユグノーによる水車を利用した、綿糸 や布の技術が出来て、大型帆船にも使える布、即ち強風に敗けない布とロープが出来た 事が大きい。ポルトガルやイスパニアで、大型の帆船の、カラック船やガレオン船易が 出現し、遠洋航海術が発達して行くと、大砲や銃火器もフランスで発展を遂げた。そこ で、ガレー船オスマン軍は敗けて、16世紀をピークとして、ガレー船も17世紀以降 は少なくなる。1571年のオスマン帝国海軍とヴェネツィア・スペインなどの連合海軍が 戦ったレパントの海戦では、ガレー船が実戦で重要な働きをした最もよく知られた海戦 であったが、ここで連合軍が勝ったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/162
163: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 13:52:57.97 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・75 ここで軍用船としてのガレー船が用いられなくなった理由は、漕ぎ手を集めることが 次第に難しくなったことと、海戦に大砲が用いられるようになると、漕ぎ手で、容積が 一杯になってしまうガレー船では、大砲を多く艦載できないことにあった。それでも、 地中海では徒刑囚を漕ぎ手とするガレー船が、19世紀まで用いられていた。と言う。 最初に敗けたプレヴェザー海戦で、ヨーロッパの香辛料は途絶えて、僅かの量になり、 その価格は金以上ともなった。オスマンの手中になって、より多く輸出されそうなもの だが、知っての通り原料は、印度若しくは東南アジアだったのだ。そして買い付けには ユダヤのベネチア商人が運んでいたのである。その為オスマンは破格の通行税を取り立 てたのであった。一旦スペインなどキリスト教側について戦ったヴェネツィアの共和国 だったが、再びオスマン帝国との友好関係を築いて行く。こうして、インド貿易の願望 を後押ししたのは、ヨーロッパでの、高価な胡椒の価格の急騰であった。ヨーロッパは 、東方の、ビザンツ帝国を通して、インドから胡椒がヨーロッパに運ばれていた。だが 1453年、オスマン帝国が、ビザンツ帝国を滅ぼし、この貿易ルートは一時的ではあれ 使えなくなったのである。その時期に、胡椒の価格は40〜80%も値上がりした。これが 、エンリケたちを大いに刺激したのである。他にも、兄のペドロがエンリケに 与えた ものには、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の物語もある。少年時代に 読む数少ない 冒険物語は、エンリケを刺激したことだろう。かくして、ポルトガルがインドの香辛料 貿易の夢を本格的に、推進しようとしたのは、この時期からあったのだろう。同時に、 ポルトガルの探検事業が エンリケ航海王子の個人事業に近いものから、ポルトガルの 国家事業へと本格的に変わっていった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/163
164: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 13:53:29.83 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・76 モロッコ進出は、このような時代と国家の要請で決まった。王権安定化の手段となり 進出を決めた。他の理由もあった。リスボン商人も又海外商人に敗けていたからだ。他 の国の商人達は、こぞって貿易の拡大を図り、この国の商人も国家の拡大策を望んでい たのである。グローバル化が、再びジブラルタル海峡を勢力争いの前線にしていたのだ 。貿易船が安全に通過出来るためでもあったし。あるいは、エンリケ航海王子らが、つ くった騎士道精神の影響もあって、武勲を立てたい。という貴族階級の願望もあった。 ただし、エンリケ自身は、航海王子と呼ばれながらも、自らは、探検航海と遠征に参加 する事はしなかった。船酔いの為だと言われることもある。その真実は不明だが。終生 未開地探検を応援した。エンリケの父、ジョアン1世は、新たなアヴィス朝を安定化さ せるために、自身の子供たちに重要な役職や領地を授け、その為、1415年、エンリケは ヴィゼウ公となって、1420年に、キリスト騎士修道会の統轄者になった。この修道会は 、レコンキスタの際には、テンプル騎士修道会だったが、彼らは海洋に出なかったし、 海洋を知らなかった。テンプル騎士団で有名なのは、バチカンの教皇庁の便りを持って ジンギスカンに会いに行ったマルコ・ポーロの父ニコロ・ポーロと父の弟の、マテオ・ ポーロは有名である。ニコロ・ポーロの家は代々続く商人の家系で、コンスタンチノー プルで商売を行い成功していた。バチカンの聖水を受けて、国王から依頼され、ニコロ は弟のマテオと共に元に渡り、モンゴル皇帝のフビライ・ハーンに会いに行き、ローマ 教皇への手紙をもって一時帰国した。エンリケは、この物語を心に刻んでいたに違いな い。海を行くキリスト騎士の修道士会を新たに作った。これがイエズス会である。ここ で、集めた資金などを用いて、さらなる探検航海を続けたのだ。こうして、アフリカの 西海岸の南下を開始したのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/164
165: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 15:59:04.43 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・77 探検事業の目的が、インド貿易と言うより香辛料貿易を行う事は大きな動機になった 。香辛料、すなわち、主にコショウのことで、当時のヨーロッパ世界で、コショウは、 考えられないほどの高値で取引された。つまり、コショウ1オンスが、金1オンスと同 じ価値で取引されたのである。つまり、コショウは、同じ重さの金と交換できたのだ。 当時に、このコショウが飛ぶように売れた理由は、その機能性である。まだまだ当時の 欧州の食卓は貧しいものだった。つまり新鮮な生肉か魚か、牛乳と卵、小麦で出来た物 と共に、干し肉と葡萄酒や麦酒。と言ったもので、日本で言えばお菓子のでる居酒屋の 食べ物であった。しかし、これを一変させるのが、胡椒とアヘン粒だった。コショーは 、香りづけや臭み消しに使うことができ、防腐作用もあるため、秋にシメた家畜の肉を 保存して、冬に食すときなどに重宝したのです。干し肉にも塩と胡椒の味付け肉が原料 となったし、ウインナーなどのミンチ製造にも必要であった。また、香辛料が貿易に向 いていた理由としては、香辛料は重量が軽いため、楽に輸送することができる、という こともあった。当時は樽詰輸送が普通で、樽詰めしても腐らない事が大事だったのだ。 この大航海時代の、一つの目的にならない筈もない現実である。当時この貴重な香辛料 が突然物流から消えたのだ。これを手に入れるために、イスラム商人から高値で買うし かなく、自分たちが儲けるためにイスラム商人を介さないで、別ルートで輸入する必要 も出て来た。しかし、大航海時代の幕開けを飾ったポルトガルとスペインは 約100年も の間に、アフリカ大陸を探検し続けたが見つからなかった。香辛料があるのは、アフリ カ大陸ではなく、アジアである。とわかっていたが、大陸の形状や植物の植生分布も、 全く判っていなかった為だが、だがこの航海で、日々欧州は食生活が変わった、砂糖の プランテーションで甘いお菓子やスープができ、ナス、カボチャ、トマト、芋、タバコ とうもろこしなどが南米から輸入され栽培されたからだ。これは画期的なことだった、 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/165
166: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 15:59:35.70 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・78 面白いのは、この食糧に関しては、人々は、色んな動物と共同生活して生きて来た。 と言う事だ。今やペットは食べ物では無い様な事を言うが、実は愛情を注ぎ育てて、大 きくなったら労力や乳を使われ、そして怪我などしたら、食糧になった。モンゴル人を 日本人が馬賊としたのは、そうした習慣からだ。で、牛やヤギ、はゲルマン世界の山で の生活だが、印度人やイラン人は牛やリャマを飼っていた。そして北アフリカは、意外 にも豚が飼われていた。中国や韓国では犬で、橇(そり)の生活には必需動物だった。 そして日本の場合は猫であった。日本の三味線は、本来猫皮で、それに三毛猫が一匹の メス猫しか産まれない程、人と共生して来ていた。まあネズミや蜘蛛やカタツムリと言 った害虫駆除の性質が多かったのだろう。豚は、およそ中東で8000年以上前に家畜化を していた。とされる。オリエント世界のエーゲ海やイオアニア海の、石山の地の島で、 ユダヤ系の人々が飼っていたの古い様だ。ヨーロッパからアジアにかけては、5千〜1万 年前の遺跡から、豚の骨が出土している。古代ローマ人も豚を食べなかった訳ではない が、豚に携わる職業を俾民や賎民と見ていた。古代エジプトでブタを飼う民は賤民とさ れていたことが、そのまま同じ文化であった様だ。ブタの飼育が発達したのはその後の 北方森林地帯の ゲルマン人やケルト人の食文化において、進化した痕跡が出ている。 イスラム教では豚は不浄な動物であると教えている。出エジプト記では、脱出した古代 イスラエル人達は、豚と鶏を財産とした。と伝え、エジプトから持ち去られたとしてい る。つまり、エジプト人は、誰一人豚や鶏を飼っていなかったのである。その宗教を受 け継いだユダヤ教の影響を受けて誕生したイスラム教においては、豚肉の肉食が、食の タブーとなった理由とする説がある。又実用上の理由として、過去に生の豚肉を食べて 食中毒か、疫病があったから、という説もある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/166
167: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 16:00:00.53 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・79 ブタには、音楽を聴く能力がある。とされている。2022年に発表された研究によると 、ブタが複数の種類の音楽に対して、豚ごとに個々の異なる方法で反応し、さまざまな 感情に精通するようだ。と纏められるほど、反応がある。又、ペットとして飼われてい たブタが、心臓発作を起こした飼い主の為に、道路に出て横たわり、助けを求めた事例 があると言った、犬と同じ行動と匂いの反応を持つ。特にトリュフ探し使われるイベリ コ豚と言うのがある。豚は決してトリュフを食べる為に探すのではなく、オス豚フェロ モンに喜びを感じるから。と言われる。従ってメス豚が探した時、興奮するので、ピー ナツで興奮を抑えないと危険である。と説明される。豚肉は、食材としても広く食べら れている。血液さえも、沖縄のチーイリチー、欧州のブラッドソーセージなど、多くの 料理に使用される食材となる。その他、骨や骨髄が、日本のラーメンの豚骨スープの、 材料にされたりする。琉球料理では「鳴き声以外は全部食べる」と言われるほど、豚の 利用箇所は多い。豚乳が利用されることは少なく、商業生産はほとんどない。搾乳時期 の雌豚は、人が近くにいると怒り、搾乳自体も嫌がり、取れても少量である。しかし、 戦時中の日本は、豚の乳で育ったと言う人は多い。 ブタは、類人猿以上に体重や皮膚 の状態、内臓の大きさなどが 人間に近い動物である。その為に現在も、異種間移植の 臓器提供用動物として研究が行われている。家畜としての飼育を養豚というが、仕事と しての養豚を養豚業、養豚業者という。ウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギといった家畜は原種 が絶滅したり減少しているが、ブタは原種のイノシシが絶滅せず生息数も多いまま現存 しているという特徴がある。日本では薩摩では、堆肥の為に養豚した。とするので日本 の場合肉の需要よりは糞の需要が高かったようだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/167
168: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 16:00:31.32 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・80 豚の遺骨として最も古いものは中国南部の1万年前の物が見つかっている。つまり、 東アジアで中国の新石器時代から家畜化した豚があった事になる。中国南部を発祥地と すると、オーストロネシア語族の南太平洋のブタ養豚も納得できる。満州民族の先祖で ある邑婁人(ゆうろうじん)、勿吉人(もっきつじん)、靺鞨人(まっかつじん)は、 つまり、この満州地域での養豚で古くから暮らし、養豚発祥の地のようだ。満州民族の 先祖であるこの人達は、ツングース族の オホーツク人種で、今ではエキスモ―の先祖 とされる。邑婁(ゆうろう)の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro;やじり) 、箭(セン)や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と言う。勿吉人(もっきつじん )も今のモンゴル人の語源とされる。勿吉は 「Mukri(ムクリ)」つまり童顔の、少し 肥えた人型(じんけい)を言うので、日本語の「浮腫み(むくみ)」の語源であろう。 人種として、勿吉人の服装はゆうろう人と同様、男性が猪(イノシシ)や犬(イヌ)の 皮を着用し、女性が布製の裙(スカート)を着用した。猪(ブタ)を多く飼っており、 食物は、主にその猪を食す。と書かれている。また米を噛んで製造する酒、いわゆる「 口噛み酒」を造って飲む。 住居は、夏季は樹上に家を構え、それ以外の季節は 塚状の ほら穴住居に、一族の数家族が居住した。方形や長方形のもので上部に入口があって、 梯子を使って降りる。また、2〜3m程度の、生垣を備え円形小城(周囲200〜300m) の内側に構えられた住居で、城の大半は、河川の近傍にある丘の頂上から発見される。 邑婁人同様「人尿で手や顔を洗う」風習で、中国の史書は「諸夷で最も不潔」と評され 、使用する毒矢は、殺傷能力に優れ、命中すれば必ず死に至る、毒薬の製造過程で発生 する気でも死に至る。毒薬製造は毎年7月8月に行われ、弓の長さ3尺、箭の長さ尺二寸 、石(フリント質)を使って鏃(やじり)としている。と書いている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/168
169: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 16:01:57.50 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・81 、勿吉人(もっきつじん)までが地中生活が主であれば、靺鞨人は、寒冷な満州の森林 地帯の森の陸上に住んでいた。ブタを盛んに飼育し、極寒時にはブタの脂肪を体に塗っ て寒さを防いでいた。豚は、現代でも中国や台湾でもよく食べられ、中華料理で重要な 主食の一つだ。中国語で単に「肉」といえば豚肉を指し、飼育量も世界最大である様だ 。中国では牛は農耕用に使われ、廃牛や水牛を、年一回肉にする程度で、食用としては 硬すぎたり筋張ったりし、それほど好まれない。朝鮮半島(特に韓国)は、縁起の良い 動物として吉祥獣である。漢字の「豚」を朝鮮語読みした「トン(ローマ字転写:don, 、MR式ローマ字転写:ton)」が 「お金」を意味する朝鮮語と綴りが同じで、日本での 米の様な通貨性を持っていたようだ。ベトナム料理でも、祝い事や廟への供物などに、 子豚の丸焼きを用意する。ティット・コー(豚の角煮)や、焼豚を載せライスヌードル であるブン・ティット・ヌオンが、日常的に食べられたりする。これらは、中国文化を 受けたブタの食材料理である。中国語同様、ベトナム語でも単に「肉」といえば豚肉を 指す。長崎の卓袱(しっぽく)料理のメインでもあし、琉球料理でも、かなりに重宝され る。島嶼国の南太平洋諸島の文化においても、ブタは唯一の、大型食用家畜として重要 視された。元々、これらの島々にはブタは生息していなかった。が、紀元前10世紀頃に オーストロネシア語族の拡散で、ブタも海を渡り運び込まれた。メラネシアポリネシア の島々で、重要な家畜となり、オーストラリアやニュージーランド、イースター島や、 トゥアモトゥ諸島などのように ブタが持ち込まれなかった島々も存在した。ミクロネ シアの一部諸島では、いったん持ち込まれたブタも何らかの理由によって絶滅した所も 存在する。ブタの飼育された島は、ブタは儀式で屠られる特別な祝い食材で、バヌアツ などに、ブタの牙が富の象徴ともされた。長く伸び円弧を描いたブタの牙は、富の象徴 としてバヌアツの国旗にも描かれている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/169
170: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 16:02:22.88 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・82 日本列島で縄文時代のかなり古い時代に、シカやイノシシを対象とする狩猟が行われ 、縄文時代の遺跡でのイノシシ骨で、飼養段階の家畜利用を示す「家畜化現象」の骨が 出土している。日本列島における家畜化の可能性は高いが、学説の定説化はしてない。 一方で、イノシシ飼養はいずれも限定的なものであったようで、弥生時代から日本列島 の本格的な稲作農耕が開始されて飼われる、弥生豚は。中国種であったようだ。農耕で ブタやウマ、ウシなど家畜が伴うものであるのに対し、日本列島における弥生期の遺跡 からは、長らくこうした家畜の痕跡がない。このことから、家畜利用を欠いた「欠畜の 農耕法」であったと理解される。しかし1988年〜1989年に、大分市の 下郡桑苗遺跡に おいて、弥生時代の完形のイノシシ類頭蓋骨3点とブタ頭蓋骨が出土し、九州や本州の 遺跡においてブタやニワトリの出土事例が相次いだ。この事から縄文時代の本州におい ては、シカとイノシシの出土ないのに対し、弥生時代には「イノシシ」の比率が増加し 、また成獣よりも若獣が多く出土していて、弥生時代の「イノシシ」に関しては、下郡 桑苗遺跡出土のイノシシ類骨に骨が「家畜化現象」が認められる家畜化したイノシシで はなく、家畜としての「ブタ」である。とされた。その後、弥生ブタの発見事例が相次 ぎ、1999年時点で10か所以上からの弥生遺跡において弥生ブタが確認されている。弥生 時代の遺跡において「イノシシ」の出土比率が高く、中でも若獣が多い点は「イノシシ 」の骨の中に家畜化されたブタが混在していている可能性が指摘され、どうも大陸から の流入豚の頭数が少なく、後世に残せない程度の養豚があった。と推測される。弥生ブ タに関し、縄文時代からイノシシの家畜化は失敗し、中国大陸から家畜としてのブタが 持ち込まれたが、結局交配雑種となり、失敗したのだろう。古墳時代の遺跡からもブタ の骨は出土し、『日本書紀』『万葉集』『古事記』にある「猪飼」「猪甘」「猪養」な どの言葉の「猪」はブタの意味であり、ブタが飼われていた。とされる http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/170
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