★あとはよろしく (379レス)
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1: 04/04(木)14:13 ID:0Dh7o9kwr(1) AAS
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2: 04/04(木)17:56 ID:p921etvw3(1/11) AAS
 閑話休題x   001

 こんなに、世に公開されることを意図していなかった。と思われるメモがニュートン
遺品から見つかった。このいくつかのメモの中には、聖書の出来事に対しての考察が、
書かれてあって、プロテスタントならではの、理解に基づいて、世界の終わりを、予測
しようと試みたものも見つかったのっだた。この中である試みでは、その計算式と共に
「2060年」についての終末予想があって、その言及に至っている。そこには、暗号コー
ドのように、いくつものステートメントが記されていて、現代でもひも解く事が出来る
。そこには、さまざまな、聖書の中の、聖書的な暗号数字が登場するのだが、簡単に言
えば、「教会の堕落日」の確定と、「終末に到る日」の日数を解いたとされる中で、端
的に言えば、「1年と2年と、半年」の期間を読み時、3年半と解釈して1260日となり
省13
3: 04/04(木)17:57 ID:p921etvw3(2/11) AAS
 閑話休題x   002

 この自信は一体何であろうか。実は当時でも、既に有名なノストラダムスの『予言集
(百詩篇)』が刊行されていた。刊行は1555年で、1999年にやって来る「恐怖の大王」
が流布されていて、これについて 人々が知るところとなったのだが、流星群の預言と
共に隕石の恐怖の実態もあった時代だった。つまり、そろりそろりと、天文学の正しさ
が知れ渡り、カトリックないしバチカンの天動説も崩れ、地動説が頭をもたげてきて、
科学的事実と、宗教的コンセンサスとの協調分離の模倣が始まった頃でプロテスタント
も、その中身の整理を行っている渦中にあった。この、ニュートンが生きた時代にでも
「世界の終わり」を、もっともらしく予言し説明巧言する者が少なくなかったのだろう
。「その類の輩」を嫌っていたニュートンは、おそらくは周囲に聖書について、詳しく
省14
4: 04/04(木)17:57 ID:p921etvw3(3/11) AAS
 閑話休題x   003

 しかし、それでも、ノストラダムスの予言やマヤ歴のように、このニュートン予言も
盛大に外れてくれる。ことを祈るしかないのが、現代に生きる個人の悩ましい現実であ
る。ただしもし外れているにしても、当たっているにしても、こうした破格の理想郷の
裏で自然破壊に加速度的に及んで 砂漠化させているとしたら「2060年以前の終末到来
もあり得る。」と言うことにもなってしまう。歴史上の大科学者はなかなか厄介なメモ
を遺してくれたものだが、現実の考古学が知り得た事実では色んな事が判明して来てい
る。例えば、ベドウィン達が売っていた、最古の聖書の4つの写本が、ベツレヘムでの
古物が扱っていて、「死海文書」と言う言う物の解読も終わってる。ヘブライ語聖書の
最古の写本で、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教
省11
5: 04/04(木)17:59 ID:p921etvw3(4/11) AAS
 閑話休題x   004

 クムラン教団というかクムラン宗団というか、この集団は、発掘された、キルベト・
クムランや、アイン・フェシカの遺跡のここに、住んでいたと思われ、生活の跡も確認
されたと言われる。ユダヤ教のエッセネ派と思われる集団で、彼らは、ユダヤ人のヘレ
ニズム化に反対した原理主義教団で、とても頑なだった。欧州各国で出来たヘレニズム
文化は、ギリシャ文明の復古主義的人間賛歌の、神話と裸体王の世界だった。それらは
ギリシア語の普及した地方で,いわゆる、分散 (ディアスポラ) のユダヤ人社会の間に
みられる同化の文化であった。しかしパレスチナに於いては、強くユダヤ教が聖都とし
て崩すことなく厳密に受け継がれた。パレスチナ以外で、アレクサンドリアはギリシャ
的欧州社会のその中心で、プトレマイオス朝時代初期に、旧約聖書にはギリシア語訳が
省12
6: 04/04(木)17:59 ID:p921etvw3(5/11) AAS
 閑話休題x   005

 ユダヤ戦争は、帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州
において、支配者ローマ人と、被支配の、ユダヤ人との間で行われた独立戦争である。
と言う。ヘロデ大王は(紀元前73年〜紀元前4年)、共和政ローマ末期からローマ帝国
初期のユダヤ王国を統治した王とされている。しかし王の死後、ユダヤ属州はローマの
総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側に
すりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死する
と、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は、基本的に被支配
民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示していたが、
多神教文化であった地中海世界の中では、一神教のみを奉ずるユダヤ教は、特殊な文化
省12
7: 04/04(木)18:13 ID:p921etvw3(6/11) AAS
 閑話休題x   006

 ユダヤ戦争は、開始から3年目にして、4人のユダヤ人側の指導者が現れた。西暦68
年の事だ、すなわち、ギスカラのヨハネ(以下はヨハネ)、エルアザル・ベン・シモン
、ヨセフス・ベン・マタティア(フラウィウス・ヨセフス)、そして、シモン・バル・
ギオラ(ギオラ)である。エドム人であったシモン・バル・ギオラは「改宗者の息子」
を意味する愛称であった。シモンにとって、ヨハネ(使徒=選ばれし子)は最大のライ
バルであった。ギオラは司令官となり、約4万人ものローマ軍を釘付けにした、非常に
有能な司令官であったとされる。実際に、この年の6月9日にローマ皇帝ネロが自殺し、
70年までの2年間で4人のローマ人が、相次いで皇帝の地位を争う内戦時代にに突入し
、中央政府が、かなりに弱体化し、ユダヤ戦争への対応が棚上げとなったことがプラス
省14
8: 04/04(木)18:14 ID:p921etvw3(7/11) AAS
 閑話休題x   007

 ガリラヤの町ヨタパタは、現代で言うゴラン高原からナザレ街道筋の街と思われる。
異邦人への投降をよしとしなかった守将たちは、自決を決議、くじを引いて互いに殺し
あう道を取ったが、ヨセフスは、最後の2人になったところで、もう1人の兵士を説得
した。とされて、2人で投降する事にしたのであった。ローマ司令官ウェスパシアヌス
は、後にローマ皇帝になるのだが、彼の前に引き出され、ウェスパシアヌスが、預言者
と聞き、「俺を予言してみろ!」とからかった。ところが「ローマ皇帝になる。」と、
予言した為に、気を良くして、命を助けられたのだった。現実に、ネロ帝死後は混乱を
経て、実際にウェスパシアヌスが、皇帝になる。と、その息子ティトゥスの幕僚として
重用され、エルサレム攻撃に参加させられた。こうして、70年のエルサレム陥落を目撃
省14
9: 04/04(木)18:15 ID:p921etvw3(8/11) AAS
 閑話休題x   008

 一方、ユダヤの中で、「改宗者の息子」とされたギオラ派であるが、ナザレのイエス
に終始していた。この頃、エドム人たちは、ヨハネの力を恐れて、エルサレム市街の、
一部に固まって住んでいた。ギオラは、69年4月にその場所へ入り、ギオラは王として
、エルサレムが陥落するまで、王として裁判官となり、裁決を行った。狭いエルサレム
市街地内で、熱烈信者党を、扇動するエルアザル・ベン・シモンと、シカリウス派を率
いるギオラ、そしてそれ以外の、反対派や反ローマ党は、ヨハネを指導者として集まり
、ローマ軍と闘った。ただローマと争う時以外は、ユダヤ人達は、四分五裂の内戦状態
であった。ヨセフスは、ヨハネの部下が、しばしば男達が、女装で通りをパレードし、
女に色目を使って、スポーツと称して、人殺しを行った。と記載されている。結局は、
省12
10: 04/04(木)18:54 ID:p921etvw3(9/11) AAS
 閑話休題x   009

 ローマ側で、対応にフロルスに、シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、
反乱軍の前に敗れてしまったので。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに、
三個軍団を与えて鎮圧に向かわせたのだが、このウェスパシアヌスは、息子ティトゥス
らと共に出動して、多大な業績を残している。実はこのエルサレムを攻略する前に周辺
の都市を落として、孤立させようと考えて、ユダヤの周辺都市を各個撃破していったの
である。ウェスパシアヌスらは、このユダヤ軍を撃破しながらも、サマリア人の助けを
借りた。ガリラヤなどを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した時に、この時
に傍にいたのが、この善きサマリヤ人と呼ばれた、パレスチナ人達であった。ガリラヤ
とは、現代のパレスティナの地名であるので、イスラエルの事になる。16〜18世紀まで
省15
11: 04/04(木)18:56 ID:p921etvw3(10/11) AAS
 閑話休題x   010

 68年の4月の、ガリア・ルグドゥネンシス属州の、総督であったガイウス・ユリウス
・ウィンデクスによる反乱は、帝政ローマの没落を象徴する反乱だった。ガリア・ルグ
ドゥネンシスとは、ローマ帝国の属州のひとつで。現在のフランス東部にある、現在の
リヨンの街とされている。ゲルマニア・スペリオル、即ちボンバルディアがローマ帝国
の属州で、日本語は上ゲルマニア、高地ゲルマニア、近ゲルマニアなどと訳される場所
だった。この地はガリアのケルト人居住区にあった。皇帝属州であり、皇帝の管轄に入
るが、この東側にラエティア、西側にガリア・ルグドゥネンシス、北西にガリア・ベル
ギカおよびゲルマニア・インフェリオルがあって、イタリア半島は、下ゲルマニアと、
低地ゲルマニア、遠ゲルマニアと呼ばれた時期だ。「ルグドゥネンシス」の地方の首都
省15
12: 04/04(木)18:57 ID:p921etvw3(11/11) AAS
 閑話休題x   011

 こうしてネロは、帝王学や宮廷教師が付けられ、教育が施されたが、それも虚しく、
ネロ自身には、道徳哲学にも、政治にも、科学技術にも興味がなく、唯一体育系の殺戮
を鑑賞した。まあギャンブラーの闘鶏好きみたいな物だったのだろう。ローマ社会の中
で、放蕩なふるまいを充分に継続した。母、妻、部下など邪魔になった人物に、次々に
殺害して、セネカまでも自死に追いやるので、ネロは、元老院から「国家の敵」と宣告
された。ここで、逮捕のために兵が差し向けられ、ネロは召使いの家に逃れたものの、
逃げ切れないことを悟ると自死を決意し実行した。「暴君」とは「人民を苦しめる君主
」で、比喩的な意味として「横暴にふるまう人」のことを指す。ネロが残したローマの
オリンピックは「ネロ祭」と呼ばれる壮大なお祭りであった。ギリシャで行われていた
省12
13: 04/05(金)03:44 ID:GFm9LfXLc(1/20) AAS
 閑話休題x   012

 この大火に対して、被災者への支援や、再建に関して、ネロは施策を行い、市民には
評判が良く、ローマ市内は、以前よりも美しく蘇った。にも拘わらずに、大火で燃えた
地域が、ネロの黄金宮「ドムス・アウレア」の建設予定地であったため、住人を追い出
しに、ネロが火を放ったとの噂が広がったのであった。ここで、キリスト教史における
初めてのキリスト教徒迫害を行なわれた。ネロは、こうした醜悪 な疑いを晴らそうと
、キリスト教徒が放火したのだ。として告発して、キリスト教徒を捕らえて拷問し処刑
した。それも、ライオンに食い殺させるなどの見世物の興行処刑と言う手法の残酷処刑
を行ったのである。まあ、今でも北朝鮮で行われる、獣による 食い殺し処刑である。
実は、かつて野獣処刑は、ネロが初めてでは無くよく行われていた。というのも、キリ
省13
14: 04/05(金)03:58 ID:GFm9LfXLc(2/20) AAS
 閑話休題x   013

 不思議なのは、初代ローマ皇帝ペトロは、何故だかイエス・キリストに従った使徒の
一人とされている。初代ローマ教皇ともされても、ネロのによるキリスト教徒迫害での
殉教した人とされている。つまりローマ皇帝ネロ時代に、キリスト教徒を迫害した彼は
、64年にローマで起きた大きな火事の原因をキリスト教徒による放火と断定して、キリ
スト教徒たちを逮捕し虐殺し、迫害を始めるのだが、キリスト教最大の伝道者といわれ
るパウロも、65年に斬首され殉教したと伝えられほど、この帝国はキリスト教国では、
ない国だったのである。しかしながら、ペトロが初代ローマ教皇とされている事から、
旧約聖書に頼ったバチカンがあって、カトリックの教徒は整理されていたのだ。ここに
ギリシャ神話に重きを成すミトラ教と、ユダヤ教基準のカトリックとの、宗教対立が、
省13
15: 04/05(金)04:11 ID:GFm9LfXLc(3/20) AAS
 閑話休題x   014

 ペルシアは、ギリシャ読みペルシャで、現在のイラン地域を表したヨーロッパ側の、
古名である。とされる。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)と言われた。思うも
中国からの西の彼方、西の端(はし)と言う意味であろう。で、欧州側からのペルシャ
は古代ペルシア人が、自らに「パールサ」を自称していた。と言われる。それを、古代
ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」とな
った。かつては、イランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられた。
1925年のレザー・シャー・パハラヴィーの即位後に、イスラム化前への復古主義が盛ん
となり、1935年に「アーリア」に由来する「イラン」に改めるように、諸外国に要請し
イランになった。しかし、混乱があり、1959年研究者らの主張によりイランとペルシア
省14
16: 04/05(金)04:17 ID:GFm9LfXLc(4/20) AAS
 閑話休題x   015

ペルセウスはアルゴスの王となったが、ペルセ=異端、ペルセポリス=異邦人街なのだ
。かつて日本にも、托鉢と言う制度があった。インドには托鉢頭陀行というのがある。
仏教などの古代インド宗教において、出家者が行う修行である。現在日本での教育では
人の生活の社会的基盤に、衣食住の充実をあげる。政府の施策はここに基本を置くが、
古代インドの、原始仏教は、出家者とは、所有欲を一切否定するために、修行をしてい
るので、三衣一鉢(大・上・内の三枚の衣と、鉢1つ)の、最低限の生活必需品しか、
所有を認めていない。つまり、仕事の道具さえも、僧の身分では持てなかったのである
。また、修行に専念するため、さらなる「殺生戒」を修める為、害虫捕殺が避けられな
いような畑仕事は行えない。とした。したがって、出家者は、生存するための最低限の
省15
17: 04/05(金)04:18 ID:GFm9LfXLc(5/20) AAS
 閑話休題x   016

 外典である『ペトロ行伝』によれば、迫害が激化するローマから逃れようとペトロが
アッピア街道を進んでいると、イエスが反対側から歩いてくて、「主よ、あなたはどこ
へ行かれるのですか?」とペトロが尋ねた。イエスは「もう一度、十字架にかけられる
為にローマへ行く。」と答えたので、ペトロは悟りを得て、ローマに戻り、捕らえられ
て逆さ十字架によって殉教した。とされる。ネロの母親であったアグリッピナは、ネロ
を溺愛し、第3ローマ皇帝の妹という血縁だった為数々の差配をし、息子ネロを帝位に
つかせるべく密かに対抗馬を暗殺して行った。又、強力な補佐を付けようともくろみ、
その当時、弁論家・著述家として名声を博していた 哲学者ルキウス・アンナエウス・
セネカ(紀元前1年頃〜65年)を呼び寄せた。セネカは、まずネロの家庭教師となり、
省13
18: 04/05(金)21:16 ID:GFm9LfXLc(6/20) AAS
 閑話休題x   017

 パルティア王国(紀元前247年〜紀元後224年)は、古代イランの王朝である。王朝の
名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれた。日本語ではしばしばアルサケス
朝パルティアという名前でも表記され、古代中国では安息と呼称した。前3世紀半ばに
中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世は、裸僧の托鉢頭陀行の乞食を許す為に建国
を決意した。インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王のアショーカ王が、
大きな影響を持ち、インドデカン高原までも統治したからだ。王朝の創設者のチャンド
ラグプタの孫で、紀元前268年に即位し、前232年頃まで在位した。中国漢字で阿育王と
書かれた。釈迦王が産まれた頃は、どんな王国の子でも、托鉢行(たくはつぎょう)は
必至の科目であった。王家が信心深い信者の場合、仏教やジャイナ教を含む古代インド
省13
19: 04/05(金)21:26 ID:GFm9LfXLc(7/20) AAS
 閑話休題x   018

 ところが、肥沃なインドでは出来たであろう こうした僧生活も、山など山林生活は
、砂漠などのパルティアの地、即ち 古代イランでは、普通の生活でも、水・食糧は、
乏しかったので、出来ない生活であったのである。そこで夜盗のごとき洞窟生活が存在
した。更にミトラダテス1世(前171年〜前138年)の時代には、現在のイラク、トルコ
東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部など、西アジ
アの広い範囲を支配下に置いていた巨大軍事国家が成り立っていたのだ。前1世紀以降
、地中海世界が勢力を拡大して、ローマ帝国との文化衝突が起こっていたのであった。
特に、アルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って、血みどろの争
いになっていたのである。末期時には王位継承を巡る内乱が起こって、この中でも自立
省16
20: 04/05(金)21:27 ID:GFm9LfXLc(8/20) AAS
 閑話休題x   019

 ここらで少し、国というものを考えてみよう。日本では国の正式名前を「国号」と、
呼ぶ事になっている。この「号」と言うのは、いわゆる「目印」と言う区分けを指す。
詰る所、固有の括り付けが出来る集団、を意味する。従って本の発行は「頁」を閉じた
一冊ごとの物が「号」であり、船や車も「号」が付けられる。これは「郷衆」つまり街
の集団に対して組み合わせと同じ発想と言える。この国号の最後の部分には、その国の
政体を表す名称が付く事も多い。この名称の種類が幾つかあるが、代表的に「合衆国」
「共和国」「王国」「公国」「連邦」などの5つが挙げられる。ただ、これらは具体的
な意味あいなどについては、分かりにくい部分があって、授業で聞くぐらいで後は聞く
事はない。「合衆国」「共和国」「王国」「公国」「連邦」の意味や違いについて、少
省13
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