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110: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:00:44.18 ID:xGGOIpCDF 中立のリアル・・・・・・・27 このように中立は簡単な政策ではない。ある一時だけの中立ならともかく、ずっーと 中立を国是として貫くのは、至難の技といっても良いでしょう。中立国は戦争に勝手に 巻き込まれることもない代わりに、他国に守ってもらうこともできない。時には友好国 を見捨てる事になり、恨みを買う。同盟国を持たないため、単独で国防をせねばならな い。自主防衛どころか、これでは孤立防衛である。この中立を守るに、マキャベリズム の「狐の知恵と獅子の勇気」にとどまらず、そのうえさらに「貝の辛抱」が求められた のである。別の言い方によると「(中立政策とは)氷のように冷血で、利己的、かつ、 生存のための可能性の政策」とされる。これが試されたのが、スペインである。スペイ ンは第一次世界大戦でも出遅れた国とされた。かつて大国だったスペインは、まだまだ カトリックのローマの護りや露払いの騎士としての、風格や格式を引きずったままで、 植民地主義が破綻したにも関わらず、英国や仏国更に後追いする、米国・独逸・ロシア と競っていた。アメリカが、アラスカを買ったのは、1867年であった。合衆国とロシア 帝国の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの植民地であった様な、 ロシア領アメリカが、買い取ることになって、正式にアメリカ合衆国領となって、これ までもめてたメキシコの境界線も、ロシアが手を引き、残るはスペインの南米となった 。1836年に一方的にテキサス共和国の独立を宣言した後、さらに1845年に、アメリカは テキサス共和国を併合した。メキシコの抗議に、アメリカ合衆国はメキシコ戦争に至っ た。メキシコ側が先に領土を侵犯したと口実でメキシコへの侵攻を開始し、1846年5月 、アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)となって、その仲裁に、ロシアの懐に、不毛な 領土を高値買い付けで、鉾を収めさせたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/110
111: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:01:21.48 ID:xGGOIpCDF 世界は金に飢えていたのか http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/111
112: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:01:43.28 ID:xGGOIpCDF 中立のリアル・・・・・・・28 しかし、にわかに起った、1848年カリフォルニア・ゴールドラッシュが起り、それに 続いて1856年のアヘン戦争とアロー戦争の後始末や、1854年の日本の開国には。その後 のアラスカ州での数回のゴールドラッシュ(ノーム、フェアバンクス)が発生までも、 世界の帝国銀行の金庫を満杯にした。そしてその金はスエズ運河や、中東の鉄路という 砂漠の開発と、石油掘削に使われたのである。第一次世界大戦は1914年〜1918年の間に 起こった戦争だが、実はその前哨戦に中東クリミア戦争があった。1853〜1856年ロシア は、南下政策を積極化させて、オスマン帝国に宣戦したことで、イギリスとフランスの この中東投資の回収に赤信号が灯ると、積極的に参戦した。サルデーニャも、オスマン 帝国を支援し、列強間の戦争となったが、かろうじて近代科学の石炭船で、ロシアを、 敗北させた。パリ講和条約で、オスマン帝国の領土は保全され、ロシアのバルカン方面 での南下はいったんは抑えられた。しかし、これによって戦後は、ロシアに近代化の波 を呼び込み、アレクサンドル2世による近代化、機械化の改革が起こった。この事で、 朝鮮半島に、飛び火となった。ロシアにすれば、大陸横断鉄道が完成した事で、黒海に 出ようが、朝鮮半島に出ようが、大海に出て、大海原の覇者となれれば、それで良かっ たのである。処が侵攻される国や地域はたまったものではない。ロシアのツァーリズム の政治体制は、ニコライ2世のもとで、国内の矛盾を深刻化させていたがシベリア鉄道 開通や敷設などの、アジア戦略で勢力拡大し1904年、満州と朝鮮への侵出したロシアと 日本が衝突し、日清・日露戦争が勃発した。と同時に、鉄道輸送が整備され始めると、 当時、ヨーロッパでパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起きて、ヨーロッパ諸国や、 アメリカ合衆国で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まったのである 。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/112
113: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:02:24.65 ID:xGGOIpCDF 世界で急に ユダヤが 溢れ出す。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/113
114: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:03:50.28 ID:xGGOIpCDF 中立のリアル・・・・・・・29 パレスチナの地は、長い間イスラーム国家の支配下だった。が、突然にこの地をユダ ヤの地である。とユダヤ人がプロパガンダし広報作戦に出た。これまで居住していた、 イスラム教徒は、さんざん十字軍の遠征などでキリスト教徒と対立していたのに、今度 は、ユダヤ教徒との三者は共存関係を維持する事になる。当時のパレスチナを支配して いたのはオスマン帝国であり、こうした入植は、規制されなかった。何故ならそもそも イスラム教も、旧約聖書の、商人の誓いとして成立した、経済宗教であり、自由な往来 を護る事に宗教主旨があったからだ。しかし、ドレフュス事件などの影響もあって、パ レスチナ入植の、ユダヤ人の数は徐々に増え始めた。これまで一人もいなかった砂漠の 地に忽然と現れた横暴な白人の金持ち集団である。更に世界の一連のゴールドラッシュ は、世界のマネーサプライを急増させる。すると資本家の持つ銀行は軒並み忙しくなる 。フランス銀行の発券高は、1850年の4億5千万フランが、1870年に15億5千万フラ ン。何とたった20年の間に、4倍近くが金庫積みあがったのだ。プロイセン銀行の方は 1850年に1837万ターラーだったのが1870年には1億6326ターラーで20年で10倍と近くに 達し、金準備の増加は、中央銀行の再割引も促進した。イングランド銀行は、1847年10 月の、830万ポンドが1852年の第3・4半期平均で 2180万ポンド、5年で3倍近くに増え 、フランス銀行の場合も、増加率が5倍近く、1847年の1億2260万フランから 1852年の 5億8480万フラン にまで膨れた。この増加は、融資の増加と、死の商人の暗躍を誘った 。ここで、本来なら農民に渡る筈の利益が、逆に資本家と中間層の商人の懐を温めて、 逆に厳しい返済に迫られる、地主や農場主は、農夫や農奴を痛めつける方向に走って、 逆に「ジプシー」のユダヤ人やロマ人が、中東イスラエルに移住していった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/114
115: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:04:13.74 ID:xGGOIpCDF 歴史の中の 幸せな国家は、乗り遅れて大帝国を築いた http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/115
116: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:09:17.56 ID:xGGOIpCDF 歴史の中の 幸せな国家は、乗り遅れて大帝国を築く http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/116
117: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:09:45.75 ID:xGGOIpCDF 中立のリアル・・・・・・・30 1914年に国際的異常、は更に天候不順での不作もあって、農業関係は、3つの元凶が 農奴の特に植民地化していた、欧州のパン籠である東欧には、大きな不幸が押し寄せた 。そこで、オーストリア=ハンガリーのフェルナンド大公の皇太子暗殺事件が起こる。 サラエボ事件である。オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナでボスニア系セル ビアに襲撃されたのである。当初、各国はよくある暗殺事件であり、大事件のままで、 戦争になるとは、誰も思わなかったのであるが、ここに大国オースリアの後ろ盾を無く した事で、小公国の集まりで出来たばかりドイツ連邦の舵取りに、ドイツ皇帝ヴィルヘ ルム2世に暗雲が垂れ込める。これが2つ目の不幸である。当時、プロイセン皇帝から ドイツ皇帝になりたてで、共和制議会政治を始めたばかりであった。その上で、この、 オーストリアに暗殺調査を厳粛に申込みしたのだ。しかし気が付けば、ドイツの隣国は 対オスマンの下「イタリア〜英国〜仏国〜ロシア〜」と繋がって共同防衛条約を交わし ていた敵ばかりだったのである。そもそも、ハプスブルク家の全盛期に、ドイツの宗教 改革の時期、神聖ローマ帝国皇帝(在位1519〜1556)時代の父より、ブルゴーニュ公国 を継承した。現在のフランスのブルゴーニュ地方と、フランドル地方(ベルギー含む) 、ネーデルラント(オランダ)、ルクセンブルクを含む一帯で統治したのある。こうし て神聖ローマ皇帝の、ドイツ王、スペイン王などを兼ね、ヨーロッパ最大の勢力を有し たのだった。その時、ドイツでは宗教改革が始まり、最初は諫めて押さえにかかった。 更に、フランスとのイタリア戦争を戦い抜き、東方ではオスマン帝国の侵攻を食い止め た成果をもった。こうしてカール5世は、カルロス1世と名乗ったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/117
118: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:10:41.28 ID:xGGOIpCDF アラゴン王女はプロセン帝国に、そして息子はドイツ帝国に http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/118
119: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 02:11:17.98 ID:xGGOIpCDF 中立のリアル・・・・・・・31 しかし、カールの時代は、まさに大航海時代にあたり、この大航海時代の知見は富者 を蔓延らせ、農民の抵抗運動と宗教戦争が起こった時代だった。カールは、ドイツ王・ 神聖ローマ帝国皇帝を出すハプスブルク家の出身ではあったが、昔からのハプスブルク 家の、全ヨーロッパに巡らした婚姻政策が続き、純粋なドイツ人とは言えなくなってい た。父(フィリップ)の両親つまり祖父と祖母は、祖父マクシミリアンでドイツ人(そ の母はポルトガル王女)、祖母マリアもブルゴーニュ公国の王女でフランス人。また母 のファナ(狂女ファナ)は父フェルナンド(アラゴン王)、母イザベラ(カスティリャ 女王)で両方ともスペイン人。だから3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は 8分の1しか流れていないと言うスペイン血脈であった。生まれた場所は父の領地の里 ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュのフランス語文化圏で、スペイン に初めて行ったのはスペイン王となった16歳の時だったが、フランスの中でスペイン 語は当然方言の様に使われていた。その後、ドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝となるが、 彼は、フランス語とスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかった。という 。このカールが、カルロス1世と名乗り、スペインの方に居住したのは当然だっただろ う。そして、引退にあたり、ネーデルラント、スペイン(南イタリア含む)を、子供の フェリペ2世に与え、神聖ローマ帝国は、弟のフェルディナントに譲った。これによっ て、ハプスブルク家は、スペイン=ハプスブルク家と、オーストリア=ハプスブルク家 に分裂することとなった。つまり、第一次大戦のサラエボ事件は、縁戚の又従弟の子供 の暗殺であったのだ。オーストリア=ハプスブルク家が、その支配領域を中部ヨーロッ パに広げることとなった時点では、ハンガリーの大部分はオスマン帝国の支配下にあっ た。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/119
120: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:24:16.53 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・32 宗教改革と三十年戦争で、オーストリア帝国は、カトリック体制の強化が進んでいく のだが、修道士会の、フランチェスコ会や、イエズス会などが出て来て、その改革は、 依存するようになり、宮廷文化が開花し、バロック建築やバロック音楽が出来ていく。 その後も、幾つもの戦争を嵩ねながら、オーストリアは、国内の体制を固め、1683年に 、オスマン帝国による第2次ウィーン包囲の危機を脱し、オスマン帝国の弱体化に乗じ て、バルカン方面への進出を開始するのである。フランス生まれの、軍事的天才オイゲ ン公の活躍もあって、1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国からハンガリーを 奪回を果たしたのであるが。……カルロヴィッツは、現在のセルビアの首都ベオグラー ドの事で、オスマン帝国はオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアに土地を切り刻ま れた。オスマン帝国が、最初に領土を放棄する事を飲んだ条約であったのだ。このカル ロヴィッツ条約でハンガリー・トランシルヴァニアの大半を、オーストリア(ハプスブ ルク家)に割譲し、ここで一気にハクスブル家は世界の中心に躍り出た。また、これに よって中欧・東欧におけるハプスブルク家オーストリアの覇権が確立し、その繁栄が始 まっている。ところが、同時にオーストリア・ハプスブルク帝国の支配を受けることと なったハンガリーでは、自治要求、さらに独立を求める運動が強くなっていくのである 。こうして植民地や領土の経営といったものの、その衰退の始まりを示している。そし て、ハクスブルクの威厳もその衰退の中にあった。その後レオポルト1世は、スペイン =ハプスブルク家の、断絶すると、次男カールにスペイン王位を継承させようとして、 フランス王ルイ14世と対立して、1701年から、スペイン継承戦争を戦っている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/120
121: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:24:55.19 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・33 オーストリアはイギリス、オランダ、プロイセンなどと共に、対フランス同盟を結成 していた時代だった。、有利な戦いを進める事が出来て。結局、スペイン王位は、ルイ 14世の孫フェリペ5世が継承することで、戦争は終着をみたが、此の時、スペインと フランスが敗けて、1714年のラシュタット条約では、スペイン領であった南ネーデルラ ント(旧オランダ)、ミラノ、サルデーニャなどを獲得して実利を得て、大国としての 地歩を固めるのである。このスペイン継承戦争でのハプスブルク家同士の身内の闘いは 、その後に身内の結束は無く、同じ様な身内が戦う事を示唆していた。更にこの条約に イギリスが全く関わっていなかったのだ。この戦争ではフランスとスペインが実質的に 敗れたので、それまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント・ミラノ ・ナポリ王国・サルデーニャをオーストリア=ハプスブルク家に譲り、これによって、 18世紀中頃のオーストリアは大国になり、一方で、ハンガリーやチェコ、ポーランド などにも領土を有し、ヨーロッパ大陸の東西にまたがる帝国の地位を得た。がしかし、 同時に、その領域内には多数の民族を抱える多民族国家となったため、その統治に苦悩 する。一方でルイ14世は、新大陸アメリカの独立に手伝いに及んだ。又、彼は熱心な カトリック信者であった事で、王権神授説に立って一国家一宗教の原則を実現しようと 、1685年にナントの王令を廃止した。これはフランスにおける新教徒=プロテスタント (事実上カルヴァン派)の信仰を認めていた王令を廃止し、再び認めないとする厳しい 宗教統制であった。教科書は出てこないがナントと言う都市は、実は18世紀フランス 大西洋岸の最大の貿易港として栄えたが。その最大の商品は黒人奴隷だった。つまり、 日本の江戸時代に、フランスは、早々と多人種国家として、成立していたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/121
122: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:25:26.03 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・34 ナントはフランスの黒人奴隷貿易の拠点港で、商業も盛んであった。ブルジョワ階級 が一定の成長を遂げ、フランス革命が起きるとジャコバン派共和国政府の拠点都市とも なった。1793年3月、南西部の農民のヴァンデーの反乱が起き、農奴軍はナント攻撃を 目標として進軍した。共和国の総督カリエが防衛するが、彼は非情で、反乱軍捕虜を、 集団で溺死させる。など残虐行為で反乱軍を撤退させ鎮圧した。この共和派の虐殺行為 が「ナントの虐殺」で、「ナントの王令廃止」を行った意図であった。自ら熱心な信者 でありカトリックの保護者と自認していたルイ14世は、「一国一宗派」にこだわった 。ナントの王令が廃止され、結果、数十万のプロテスタントが密かにフランスを逃れ、 イングランド、オランダあるいはプロイセン、スイスなどに亡命したのである。ユグノ ーのディアスポラである。プロテスタント信仰をもつユグノーには、手工業者(職人) や商人が多かったので、フランスの商工業の発達が阻害され、周辺のプロテスタントの 諸国には大きな発展を与えた。ここでイギリスに産業革命を起こしたのだ。ドイツの、 三つ目の不幸はそこにある。カトリックのローマ教皇もできない新教徒弾圧を強行した ルイ14世は恐れられ、その分、産業革命はイギリスの独占となった。代わりにナント は、大西洋交易の貿易港の繁栄は、砂糖プランテーションなど開かれた土地への、労働 力の黒人奴隷を送る事が支えていた。アフリカから買い、ナントから送り出す黒人奴隷 貿易での繁栄である。地中海のマルセイユとならぶ貿易港で18世紀のフランスの黒人 奴隷貿易の40%以上、つまり半数がナントで、最大の奴隷貿易港だった。黒人奴隷貿 易はポルトガル・スペイン・イギリスが有名だが、フランスも盛んに行っていた。奴隷 商人は布、火酒、鉄砲などを積んで西アフリカに行き、黒人と交換、ついで黒人を積み 大西洋を渡って、カリブ海域で売りさばいた。その収益で砂糖、綿花、タバコなどを買 いナントに戻る。この三角貿易はナントに大きな富や人口増加をもたらした。1700年に 4万人であったが、90年には8万人に達している。これが第一次世界大戦前の欧州の 情景だったのだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/122
123: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:26:53.43 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・35 この、鉄とガラスと蒸気機関は、やがては石油の燃料機関と電気通信を産んでしまう 。こうして、第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って 参戦したオスマン 帝国に対して、協商国側のイギリスは、侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する 中東地域に目を付けて、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んでいた。まず 、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーと、イギリス の駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で、「フサイン=マクマホン協定 」が結ばれていた。ここでは、中東地域のアラブ人の独立支持を約束したのである。次 いで1916年5月、秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間で「サイクス・ピコ 協定」が結ばれて、この3国協定によるオスマン領中東地域の分割が決定されている。 さらに1917年11月には、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが「バルフォア宣言 」を発して、パレスチナにおける、ユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明したのである 。要するに、人の土地人の家に、世界中のお客を連れていき、土地の者と主張する者に 地賃の交渉をし、大家だと言うものに家賃の交渉し、ユダヤ人お客に、さあ住んでいい よ、これだけ払うなら。と、人の土地人の家で、アメリカ方式でまんまと賃料横取りに 成功した。みたいな形なのである。第一次世界大戦はこうして孫たちの戦争と言われた 。1914年に始まった人類初の世界戦争である第一次世界大戦は、900万人以上 もの 犠牲者を出した大きな戦争であった。この戦争は従来の戦争とは違い、「総力戦」で戦 われていく。それまで戦争といえば軍人同士が戦うものでしたが、この大戦は、否応無 しに、民間人をも巻き込んでいった。更に悲惨だったのは、人類が産業を発展させた中 での、化学兵器や飛行機や戦車、気球や機械化と言った物が、初期型であったが、高い 殺傷率を持って登場して戦争を進化させたからだ。、なぜ、このように悲劇的な戦争は 始まってしまったのか、なぜ、それが早期に止まらず いがみ合いを続けたか。そこに ユダヤの創った罠があった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/123
124: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:59:34.95 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・36 ヨーロッパ戦線が世界戦争へと発展する前に、列強といわれる国々が帝国主義を掲げ 覇権を争う大規模な争いを展開していく。帝国主義を背景とした戦いはしかし、此の時 の背景に、各国の思惑が交差していて、「サラエボ事件」をきっかけに爆発し、瞬く間 に広まってその前段には、スペイン内乱、独立戦争が起こっていたのだ。フランスで、 共和制議会が出来ても、スペインはブルボン王朝の格式に於いて、王朝の廃止を望まな かったし。ナポレオンは1808年に、スペインに軍隊を侵攻させたが、激しい抵抗を受け 挫折、スペイン=ブルボン朝を倒し、兄ジョセフをスペイン王とした。が尚もスペイン の民衆は、ゲリラ戦で抵抗する。と言う構図になり、ナポレオンは、自らスペインに、 遠征し反乱制圧に向かう。鎮定するも今度は反転し1812年、ロシア遠征に向かう事にな る。イギリスが援軍を派遣し、フランス軍と戦い、ロシアが、専制主義の下で領土拡大 主義に走り、不凍港求め南下政策を開始していた。この間、スペインは独自のカディス 憲法を制定。ナポレオンがロシアで敗北した為に、スペインに来たフランス軍も、劣勢 となり、1814年に撤退していく。斜陽化し、共和制を認めないスペインで、独立を回復 する。ウィーン体制の下でのスペイン=ブルボン朝が復位し、カディス憲法は否定され ここで再び王朝政権となったのだった。ここで王は、更に絶対政権を強化して行くのだ 。スペイン継承戦争の当時には、ヨーロッパは既に北方戦争(1700〜1721年)ロシアと スウェーデンが戦い、これらは、絶対主義と共和制の主権国家間の争いで、イギリス・ フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアという五大国体制が、成立していく過程 だった。中でも共和制主力のイギリスは、やがてイギリス第一帝国時代に覇権政策を推 し進めた。スペイン継承戦争の講和条約、ユトレヒト条約で、フランスとスペインが、 永遠に合同しない事を条件にフェリペ5世のスペイン王位継承を承認され、ここで世界 の趨勢の均衡が図られた。王位継承問題に伴う主権国家の領土争いは、この、スペイン 継承でオーストリア=ハプスブルク家対フランスのブルボン朝の対立と植民地を巡った イギリスとフランスの対立が軸が、表向きは解消した事になった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/124
125: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 11:16:19.01 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・37 16〜17世紀のヨーロッパ戦争は、個々には、宗教的対立でカトリック対プロテスタン トという対立が軸となっても、基本的な性格は、王位継承権による領土問題だったのだ 。ここで問題は、プロテスタント国であるプロイセン公国は、このときカトリック国で あった事だ。オーストリアを支援し、その功績で、神聖ローマ皇帝からプロイセン王国 となることを認められていた。しかし、その支援したオーストリアの皇太子次期王様が 暗殺されたのである。ドイツが狂う事は当然だった。プロイセン公国からドイツ連邦に なって、これからと言う時だったからだ。これまで、米国が台頭する前は、戦争という のは、この宗教対立を解消したフランス+スペイン連合に対して、イギリス・オランダ ・オーストリアの同盟という、ヨーロッパを二分する陣営で戦われていた。が、同時に フランスとイギリスはアメリカ新大陸の植民地での争いから、アン女王戦争を戦ってい た。これは1815年まで続く 第2次英仏百年戦争ともいわれる英仏植民地戦争の一環で もあった。ところが、この植民地問題に異変が起こった。ドイツとアメリカの、台頭で ある。植民地獲得戦争に出遅れたこの二つの国は大西洋で争っていた。モロッコ戦争で ある。日本から遠く離れたアフリカの西北端と言うこともあって、日本人になじみが薄 いが、実は、「ヨーロッパから見て最も近いアフリカ」という位置にあって、欧州大陸 のイベリア半島支配に、最も近く有史以前から、異国交流の玄関口でモロッコがサハラ までの支配権を持って、レコンテスタや十字軍の遠征、ルネッサンス・モダニズム建築 と、西洋の文化風習に及ばず、物流・人流、文化に技術、宗教に思想、全ての入り口に あった。フランスは1830年以来、隣接するアルジェリアを、植民地支配していたので、 モロッコにも重大な関心を寄せていた。普仏戦争に敗れて国際的地位が低下すると突然 と、海洋覇権の渦にはいった。フランスの植民地帝国の形成を図り、サハラから東岸の ジブチに向かうアフリカ横断政策を採る。そのアフリカ政策は1898年のファショダ事件 でイギリス帝国主義との対決の危機を迎え、両国は見事な帝国主義的妥協を図ったのだ 。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/125
126: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 11:18:09.43 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・38 即ち、地中海防衛のフランス海軍の優位性や独占権を認め、大西洋航海の英国の覇権 主義や海賊行為を認める。といった協定である。しかし、納まらない国がスペインであ り、ドイツだった。モロッコ分割に、遅れて手を出し、新たな植民地帝国を目指した。 と言うドイツのヴィルヘルム2世は、フランスの同盟国ロシアが、日露戦争で苦戦して いる形勢を見て、ヴィルヘルム2世は1905年3月31日、自らモロッコのタンジールに 上陸してスルタンと会見し、フランスのモロッコ支配を牽制し排除を願い出た。第1次 モロッコ事件(タンジール事件)である。これは「モロッコ問題」という、国際紛争と なり、翌1906年にアルヘシラス会議が開催され、モロッコ国王も参加した上で、列強は 機会均等・門戸開放と共に、モロッコの主権尊重を取り決めた。がこれは、実質的に、 既存のフランスとスペインの警察権などの権益を認め、既存優遇策となり、ドイツ孤立 に向かう。しかし、アルヘシラス会議の結果に不満な、ドイツのヴィルヘルム2世は、 モロッコにおいて反仏民族運動を展開させ扇動する目的で、再度の挑戦を試みている。 1911年7月1日に軍艦一隻を、アガディールに派遣。それが第2次モロッコ事件(アガ ディール事件)であった。この挑発を受けたフランスで、国論が沸騰し、独仏戦争開始 の声も上がり、直前までいったが、年末に妥協が成立、フランスは、コンゴの一部を、 ドイツに譲ることで、モロッコ支配を認めさせる。という手を打った。これまた、地元 の意志は関係ない、大国の帝国主義的な取引によって事態を収束させた物だったのだ。 フランスのポワンカレ内閣は1912年にスルタンとの間でフェス条約を締結し、モロッコ 保護国化を実現。これによってモロッコは主権を喪失、国土は大半を占める「フランス 領モロッコ」と、北モロッコの一部(リーフ地方)と西サハラの「スペイン領モロッコ 」に分割された。しかし直ちにフランスのモロッコ保護国化に対し、モロッコ民衆抵抗 運動が始まった。フランスはそれを鎮圧するため総督を任命し、リオテ総督は典型的な 保護国統治を行った。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/126
127: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 11:31:46.03 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・39 第一次大戦は、このドイツの孤立から始まっている。気が付けば、ドイツは孤立して 頼る国は、隣国オーストりアしかなく、欧州の食糧庫の、東欧も取られそうになった。 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争は じわじわと始まった。帝国主義国家の大国の、ドイツ・オーストリアが中心の同盟国と イギリス・フランス・ロシアを中心とした、条約提携国、即ち協商国の二陣営に分かれ 、ヨーロッパを主戦場として戦う事になった。これは、ひとえに、敵国だったロシアや イギリスと、フランスが相互防衛協定即ち、戦う時には味方する。と言う条約による物 であった。根本的な要因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こっ た帝国主義戦争であったが、主因としてはバルカン問題における オーストリアとセル ビアの対立に、それぞれ背後についているドイツとロシアが応援する形での食糧の小麦 の獲得戦争であり、列強の帝国主義でアジア・アフリカ植民地所有に、反対の住民が加 わり情勢が複雑に関係した。更に投資され、近代化の資金で大きく借金していた、オス マン帝国は、仏英を敵に回してドイツ側についたので、領内のアラブ人勢力をイギリス が支援し、アラブ人対ペルシャとなり、西アジアに戦争は飛び火拡大し、東アジアでは 日英同盟を口実とした日本が、中国・ドイツの中独・中露の中共合作に挑む。太平洋上 のドイツ権益を攻撃した。この第一次世界大戦中に孤立した国はドイツだけではなかっ た。多くの小さかった国は、今だ独立国として多民族国家状態にあり、さっさと中立を 決めて黙認した。既に世界的に民族移動が容易で、多民族化して、国内争乱が起きる事 が悩みの種だったからだ。米国もそうした国の一つで、最終的には欧州戦線に参戦した が、当初はモンロー主義を言い、傍観者であった。そして、もう一つ大きな国が傍観者 たるを決めた国があった。それが中立を宣言したスペインである。そして我々が、知る べきは、米が通貨とした江戸時代と同じに、欧州では小麦が通貨となっていた事だ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/127
128: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 11:41:43.32 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・40 第一次世界大戦中のスペインは、往時に植民地主義の開拓者で、国内には民族統一の 意志は既になく、国内が参戦し割れる事を恐れて、中立政策をとりました。スペインは 1914年〜1918年までの、大戦を通じて中立を保ち、国内の経済的困難にも関わらずに、 「1915年までにヨーロッパで最も重要な中立国の一つ」とみなされていた。また、スペ インでは、共和制が宣言され、国王アルフォンソ13世に退位を迫られた時期もあり、既 に共和制の議会派と、伝統的国王に頂点をもつ王党派が、四つ組みになって、対抗し、 分裂していたのだ。スペインの歴史には、先史時代から古代、中世、近世、近代そして 現代に至るまで、さまざまな要所々々の時期に顔を表す大国である。ローマ帝国支配、 ウマイヤ朝の到来、レコンキスタ、フランコ体制など、興味深い出来事の数多くの先鞭 をつけた国だった。そこで、当時の欧州の「悪いものは、何でもスペインから」という 風潮もあり、そうした先入観も手伝ったのだろうが、現実的に、米国の参戦意志での、 兵站や兵員移動の寄港地になった事や、諜報のスパイ要員の天国になったりして、色ん な意味で、ここを通って、戦地に赴いたと言う一大中継地の基地だった。その中でも、 いち早く、疫病もこの地を通って運ばれたようだ。世界中が「スペイン風邪」と呼ぶ様 になった。国際的パンデミックである。当のスペインでは、病原菌は戦乱の地であり、 死体が散乱するフランスから、ピレネー山脈を越えてやってきたに違いない。とも考え られていた。しかし、近年の調査で、戦争の情報を流通する将校たちは、既にアメリカ から、欧州戦線視察に来た一団に、このスペイン風邪は遷っていた。今日の コロナの ウイルスらしい。と言われる。この戦争で戦死兵1千万人民間人六百五十万人。推定で はあるが、合わせても1千六百万人である。ところが戦争の最終局面の1918〜1920年に かけての、世界中での死者数は、これをはるかに上回る3000万〜5000万人以上に及ぶ。 つまり3倍の死者が推定され、これが、「スペイン風邪」の流行の猛威の正体だった。 つまり戦争以上に人を殺した疫病蔓延だったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/128
129: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 11:42:56.91 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・41 最初のスペイン風邪のウイルスの発生は1918年3月の米カンザス州だと考えられてい る。米国では1917年4月の参戦以来、徴兵制が敷かれ、全米中の田舎からの若者たちが 、訓練所に集められ鍛えられた。しかし、全米に数多く作られた訓練所の宿舎は、急ご しらえの上に、詰め込みで、ウイルスが伝染する環境としては、かなり、適していた。 こうして、ウイルスを持った若者までもがやって来て、訓練を終了した順にヨーロッパ の戦線へと、船に乗船し派遣されていった。3月の時点では、すでに25万人の米兵が、 欧州に渡り、本国では138万人が、渡航のために待機していた。が此の時、ウィルソ ン大統領の理想である「自由と平和」を希求するはずの戦士達に、異変が起る。皮肉に も病気の運び屋となっていた上に、船内がこの病気の培養所と化して、船旅にでたので あった。始発の米派遣兵200万人の内の、79万人が 上陸したフランスの受け入れ口の、 ブレストの港町から次第にウイルスは拡散していったモノと思われる。1918年4月には 、フランス北部にいた英軍に、そして独軍の最終防衛ラインである「ヒンデンブルク線 」の塹壕(ざんごう)に、本来なら、物理的に隔てられていたはずの独軍にも、風て運ば れたのか、何故か感染が蔓延したのである。さらに1918年5月の、新任の米兵が配置に 落ち着く頃になると、英軍の南部に布陣していた仏軍にまで、その病気は到達していた 。独軍では当初、英軍と対峙(たいじ)した ベルギーのフランダース地方で発症してた ために、「フランダース熱」と呼ばれた。が、すぐに西部戦線の、全域の独軍兵士が、 感染したのである。そして、その間にも、米国兵は途切れることなく、次々に派兵され 、ウイルスとともに続々と上陸し、西部戦線に到着して、戦地に派兵・投入されていっ た のである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/129
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