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119: 06/12(水)02:11 ID:xGGOIpCDF(14/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・31

 しかし、カールの時代は、まさに大航海時代にあたり、この大航海時代の知見は富者
を蔓延らせ、農民の抵抗運動と宗教戦争が起こった時代だった。カールは、ドイツ王・
神聖ローマ帝国皇帝を出すハプスブルク家の出身ではあったが、昔からのハプスブルク
家の、全ヨーロッパに巡らした婚姻政策が続き、純粋なドイツ人とは言えなくなってい
た。父(フィリップ)の両親つまり祖父と祖母は、祖父マクシミリアンでドイツ人(そ
の母はポルトガル王女)、祖母マリアもブルゴーニュ公国の王女でフランス人。また母
のファナ(狂女ファナ)は父フェルナンド(アラゴン王)、母イザベラ(カスティリャ
女王)で両方ともスペイン人。だから3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は
8分の1しか流れていないと言うスペイン血脈であった。生まれた場所は父の領地の里
ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュのフランス語文化圏で、スペイン
に初めて行ったのはスペイン王となった16歳の時だったが、フランスの中でスペイン
語は当然方言の様に使われていた。その後、ドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝となるが、
彼は、フランス語とスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかった。という
。このカールが、カルロス1世と名乗り、スペインの方に居住したのは当然だっただろ
う。そして、引退にあたり、ネーデルラント、スペイン(南イタリア含む)を、子供の
フェリペ2世に与え、神聖ローマ帝国は、弟のフェルディナントに譲った。これによっ
て、ハプスブルク家は、スペイン=ハプスブルク家と、オーストリア=ハプスブルク家
に分裂することとなった。つまり、第一次大戦のサラエボ事件は、縁戚の又従弟の子供
の暗殺であったのだ。オーストリア=ハプスブルク家が、その支配領域を中部ヨーロッ
パに広げることとなった時点では、ハンガリーの大部分はオスマン帝国の支配下にあっ
た。
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