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227: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 19:15:48.93 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・134 このバイキングが「お宝」として扱ったもの。この「商品」が「貨幣」になった時、 ギルドを構成する商人達がまた、成立し成功した。と言える理由だった。つまりギルド では、個々には、質素倹約、欲の抑制の 集団生活重視の全体主義や権威主義の世界で あった。こうした世界は、国家や集団に対して、異を唱える勢力が、大きな力を持って しまうと、国民に、共通の価値観や世界観・イデオロギーを共有させることができず、 権力を独占できなくなる。それに対して、略奪や闘争社会であったバイキング世界は、 そもそもが「力の支配」で強い者が勝つ、勝つ者に付いて行く。そうした集団生活で、 今で言えば刑務所の中の様な、派閥と仲間の世界だった。従って贈物をすることで、戦 の時に加勢してくれる多くの友人を得る。褒美を出して、従えさせる。そうした行為が 日常だったのである。権力を独占した支配者によって、個人が抑圧される点は共通して いるが、此の支配者は生活には立ち入らない。更に、自分が全能でないので、行動やら 襲撃等には、自由に意見し、情報を多く必要とし、共通認識での海を渡った行為をして いたとされる。更に森や自然を愛して、宗教生活は過酷な物だった。ヴァイキングと言 えば、角を持った兜に屈強な体、海をわたる商船を略奪して酒と肉を食らう。そんな、 略奪者のイメージが強い。だが実際は、高度な航海技術を持つ交易商人であり、未知の 土地へと渡る開拓者でもあった。また農業や牧畜、漁業なども盛んであり、決して野蛮 なだけの略奪者ではなかったのだ。ヴァイキングの生活では、神々への信仰と非常に深 く結びつき、ほかの宗教の「司祭」は存在せず、日々の祭祀は地域の代表者や家長が執 り行う。また、各家庭には信じる神がまつられ、ことある毎に祈りを捧げた。北欧神話 を信仰した、ゲルマン系のデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドの4 ヶ国に強く残る。つまり家長制度の延長で、集団を離れる事も自由にあったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/227
228: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 19:16:28.20 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・135 中世時代の「黄金時代」にあっても、オランダの貿易額の、2/3はバルト海貿易で、 あったし、残り1/3の半分も、地中海貿易の中あった。つまり、オランダの富の源泉は 、ヨーロッパ域内での貿易であり、同時代でも、既に指摘されていたが、海外植民地は 、維持費がかさむだけで大した利益をもたらしていない。のが実情であった中で、多く は手放す中にあった。それは、度重なる英蘭戦争で北アメリカの植民地を奪われ、さら に、南アフリカの植民地も、超大国に成長したイギリス帝国に敗れて失うなど、列強と してのオランダの、国際的地位は既に凋落していた。これはフランスと敵対し銃砲火器 の最新鋭武器を、手に入れられず、生活用品や高級宝飾品と貨幣の流通益に特化しての 交易で、この時期では、長崎出島での日本との、ほぼ独占貿易権が東アジアでの唯一の 牙城としてあった。が、続くナポレオン戦争での敗戦により海外覇権はほぼ消滅する。 つまり、このザビエルより早く、ほぼ80年前から、臼杵の豊前の大友公や、大宰府大内 氏、或いは博多商人や薩摩商人と、接触していたのである。実は香辛料と共に貴重品と された物がある。ありふれた甘味料となっているが、砂糖がヨーロッパで普及したのは 16世紀以降の事である。砂糖が普及する前の甘味料としては蜂蜜などが用いられて、 甘味料も貴重品だった。砂糖はサトウキビ(甘蔗)という植物が原料で、原産地は、か つてはインドとされ、現在もインドネシアのどこかであった。とされている。このサト ウキビの栽培と、製糖の技術はイスラーム世界で始まった。11〜13世紀にはエジプト産 の砂糖が、カイロのカーリミー商人の手によって輸出入された。つまり「砂糖は、コー ランとともに。」とか「砂糖は、コーフィと共に」と言われる所以だ。西方に伝わり、 砂糖がシュガー(sugar) は、アラビア語の sukkar 、砂糖菓子の candy は粗糖の意味 する貴重な媚薬のqand の地名が語源であるという。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/228
229: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 19:16:49.64 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・136 砂糖は、初めは調味料として大量に使われたのではなく、媚薬として用いられていた 。そこでオランダ貿易はインド・パキスタンのサトウキビを、密かにブラジルやアメリ カ西海岸で栽培したのである。こうして砂糖の輸入と香辛料の輸入は、オランダ貿易の 柱になった。しかし、そこにオランダ侵略戦争が起こったフ。ランス王ルイ14世の、対 オランダ侵略戦争(1672〜1678年)は。コルベールの対オランダ高関税政策と、ルイ14 世の大陸制圧政策推進の結果起こった戦争であった。実はイギリスには、プロテスタン トとカトリックの内紛が、まだ落ち着いていなく、イギリスのカトリックはフランスと 共に復興と支援の国家間の密約を持っていた。此処にイギリス商人の香辛料と砂糖の、 独占商売に嫉妬の目が注がれて、勢い海戦を起している。海外の商館や貿易港が襲われ て、勢いこの勢力争いは、フランスと密約したイギリスの、第三次イギリス・オランダ 戦争の形で、開始された。ついでルイ14世が大軍を率いてオランダに侵入。危機に直面 したオランダ民衆は、洪水作戦を展開、更にウィット政権を打倒しオラニエ家のウィレ ム(後のイギリス王ウィリアム3世)を共和国総督に迎えて、徹底抗戦を続けていく。 オランダの、蘇生(そせい)を機に、スペイン、ドイツ皇帝や諸侯がオランダを支持して 、1674年イギリスも、単独講和し、孤立したルイ14世はオランダから撤兵し、戦いは、 ハプスブルク勢力との長期戦にすり変わり、結局、78年8月、ナイメーヘンの講和(対 ドイツ講和は79年2月)をもって終わったのである。1600年頃までは、北部7州の、ネ ーデルラント連邦共和国は、共和国連邦として実質的に、独立を果たしていた。しかし 、共和国が成立していても、スペインとの戦争は、終わらなかった。この技術の発展が 導いた、思わぬ方向の偏屈なグローバル化には、人類は大きく苦労していた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/229
230: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 19:17:13.31 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・137 ネーデルラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を 設立して、アジアの進出を頑なに、守ろうとした。ポルトガルの、1580年からスペイン と、同君連合となって、オランダ・ポルトガル戦争(1602年〜1663年)が、起った。が そもそも、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称 で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在 していた多民族国家であって、国家連合であった。9世紀〜10世紀に成立して、1806年 まで存続し最初はまとまった統一国家であった。14世紀から国家としての機能を徐々に 停止し、カトリック支配が崩され、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには、 国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられて行く。さらに1648年のヴェストファ ーレン条約により、神聖ローマ帝国は名目だけとなり、帝国内の 300以上の王国・公国 ・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は、事実上の独立を獲得 し、ドイツ人の国家連合としての性格となって行く。ネーデルラントは継承戦争での、 ハプスブルク家の内紛の為、この対立にフランス王ルイ14世は、スペイン領のネーデル ラントに侵攻していく。オランダがイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結し、 フランスに圧力をかけ、領有に失敗する。この頃には、米国も独立戦争の機運があって アメリカ大陸内で、英国・仏国・スペインその他が争っていたのだ。16世紀から続く、 ナポレオン以降の独裁王国と、民権議会政治の、確執は止まらないまま、17世紀に継承 戦争に至って、フランス王国とオランダ(ネーデルラント連邦共和国)・ハプスブルク 帝国・スペインとの4ヶ国の巴の戦争で、初めはフランス・イングランドVsオランダの 、戦いだった。途中からイングランドが中立し、神聖ローマ帝国諸侯と、スペインが、 オランダと同盟を結んで参戦、フランスもスウェーデンを戦争に引き入れ規模が拡大し ていく。何故このオランダの地を欲したのか。それは貿易で大航海時代以前にすでに、 潤っていたからだった。これが、他の国には許せなかったらしい。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/230
231: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:31:28.55 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・138 バルト海では、非常に古くから、活発に交易がおこなわれていた。中世初期には商業 そのものが衰退していった中で、バルト海で 6〜10世紀にかけて、貿易を担っていのが ゲルマン民族の一派フリース人とされる。彼らは都市生活を知らなかった。ハンザとは 大きく異なるが、平和的・恒久的な貿易を基本として海商の生活をして、ワインや木材 、穀物、織物などを扱うなど、ハンザ商人の先駆者としての商売を行っていた。しかし 、第二次民族大移動の時代に入ると、ヴァイキングから攻撃を受けるようになって、消 えて行く。ヨーロッパが中世に差し掛かる頃に、商業の復活や、都市の発達が見られ、 人口が増大し、新たな土地を求め、港が整備され、造船業が他国より早く、その技術が 水車や風車を作った。こうして協力する組合体が、商業を中心にまとまって行く。これ がハンザ同盟であった。「ハンザ同盟」に相当する訳語は日本語以外でも用いられるが ハンザが組合や同盟を意味し、原語に直訳すると二重表現となる。中世ヨーロッパで、 この都市間同盟は、重要な役割を果たす。周辺の領主に対抗するため、独立意識の高い 諸都市は、連合して皇帝や国王に対抗した。逆に支配側も都市連合を意識しての権力を 行使しなければ立ちいかない。これは世界史上、ヨーロッパでしか生じていない現象と 言われている。こうして、最盛期には 100以上の都市が、加盟し都市同盟の中でも規模 と存続期間において群を抜いており、また特殊な存在であるされる。このハンザ同盟の 中核が北ドイツの都市で、神聖ローマ帝国の中で、皇帝に直接忠誠を誓う帝国自由都市 だった。つまり十字軍を興した都市群だった。相互に独立性と平等性を保つ、緩やかな 繋がりの同盟で、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した 。しかし、恒久的な中央機構は存在せず、同盟の決定には拘束力もなかった、実際は、 それぞれの都市の利害が優先され、同盟の慣習法は、海事法や過去の法理からの行動で あったと言われている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/231
232: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:32:00.55 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・139 このハンザ同盟に似たものが、フィレンツェのギルドである。約1150年の書物には、 布商人の組合であると記載されている。1193年になると7つのギルドが形成され、それ ぞれのギルドからギルドの全ての仕事を管理するメンバーが選出され、それらのメンバ ーによる協議会(consoli)が発足し業界を仕切ったす。ギルドは、一般にはヨーロッパ 中世の、商人・手工業者の協同組合とされている。ところがギルドには、2種類あって 、商人ギルドと職人ギルドがあり、職人ギルドのの起源は古く、紀元前3世紀のローマ と、中国の漢にまで、さかのぼることができると言われる。ローマの手工業組合 (コレ ギウム) が、中世初期になると、その多くがキリスト教団体に姿を変えて、教会建設に 雇われて、石工とガラス職人のものを除いて、組合は消滅したので、ビザンティン帝国 に、生き残ったコレギウムが、首都の社会秩序を維持する上で、おおいに存在感を発揮 し、教会の威信で秩序を作った。西暦900年頃に 書かれた、有名な『エパルキコン・ビ ブリオン』を読めば、コレギウムは、複雑な組織構造をもち、ビザンティウムの商工業 全体を、厳しく管理していたことがわかる。品質、数量、価格を管理したギルドの概念 は、10世紀にイタリアに伝わり、その後11世紀にヨーロッパ全土に広まった。と言う。 当初のギルドは宝飾品に対しての真贋の鑑定であった。即ち、都市化したフェレンツェ に、金・銀・ダイヤに、贋物を創る移民が押し寄せたからだ。その為教会も国王も防衛 に努め、組合でのこの犯罪阻止を図ったのだ。その防止法は3つ、一つは親方ー弟子の 登録制でその会員を全て登録させた。二つ目は、この弟子達の移動を管理する為、給与 の一定化、つまり年功序列を決めて賃金を固定した。これで引き抜きも、飛込みも、青 田刈りも無くした。そしてこれは全て、三つ目の大きな組織や外の都市からの介入阻止 にあった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/232
233: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:32:28.57 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・140 中世のギルドは、通常、市や町の運営組織が発行した勅許状や特許状にもとづいて、 設立されている。その都市における商品やサービスの生産、取引を独占し、販売許可の 権限を持った。領主はギルドからの、収入の十分の一を得ることができ、一方ギルドは 商品の基準や、価格を、自由に定めることが出来た為、双方に利のある仕組みだった。 つまり、組合費や会員費が、そのまま一部税金となり、更に組合は総量規制と、品質の 判定を行い、粗悪品の流入を防いだのである。(消費者は不満だったかもしれないが) 12世紀後半の記録によれば、ロンドンとパリは、それぞれ 100以上のギルドに勅許状を 交付していた。力をつけたギルドが行政機関の役割を果たしていた都市もあった。ドイ ツ、スイス、オランダに残るギルド集会記録からわかっている。しかし腐敗と産業革命 による技術革新により、やがてギルドはその歴史に幕を下ろす。このギルドの都市産業 の護る為の、移民の職業や輸入品排除の職人の集まりが、国の集まりになった形なのが ハンザ同盟であった。凡そ考え方は同じで、今の平和をどう守るかであった。オランダ では特に、風車技術で土地が出来ると、農業の出来る土地になり移民がやって来たのだ 。、農民たちがエルベ川以東の土地に移住し、更に開拓を更に進めていった(東方植民 )。こうしてその地域には、キリスト教を受け入れていたドイツ人から見ては、異教徒 である民が集まった。スラヴ系住民が居住して、言語や生活習慣が異なり、幾つか紛争 も起こり、土地を得るために武力による制圧も行われた。それでも東方植民の成果は、 大きく、ヨーロッパ世界の拡大と 共に貿易圏も拡大していった。それと同時に都市も 次々と建設され、多くの都市がハンザ同盟に加わることとなっていった。ここにロシア 皇帝の投資もあった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/233
234: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:38:56.93 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・141 ハンザ同盟の中で、布地商組合は、アムステルダムの商業活動で重要な役割を果たし た。カロッタ (頭頂部のみを覆う丸く平たい帽子) によって示される執事を除く男性達 は、織物業者が布地商組合員たちに、売却するため提供した布の質を調査するために、 選ばれた人物である。実は大航海時代をもたらした帆船の、強い帆の布地を仕切って、 その販売に、彼ら布地の見本調査官達の権威があった。一年間の役職期間は、聖金曜日 に始まり、一週間に3回布地見本の調査をすることになっていた。画材の題名の一部と なっているオランダ語の「staal」は 『サンプル」を意味し、調査された布のサンプル の事だ。調査官達は、調査の結果を、記録するためにペンチを使って、自分達のアムス テルダムの町 (表側) と組合 (裏側) の印章を鉛の小片に刻み込む。 布の品質には4つ の等級があり、一番質の高い布には4つの印章を刻み込み、一番質の低い布には1つの 印章を刻み込んだ。この時代に、香辛料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えた。この ため貿易の富が、アムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えること となる。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれた頃である。この頃まで、まだ オランダがあったのだ。オランダの工業力は、イギリスと熾烈な競争を展開していた。 完全な加工貿易国として、原料が自給できない欠点を補って余りあるオールマイティー な、独自の技術力をもっていた。船舶・風車が特に有名であるが、ユグノー資本を集中 投下し、マニュファクチュアには、他の国にはおよびもつかない水準の域であったのだ 。それは農工一体の、染色業だった。オランダの土壌は耕作に不向きであった。ので麻 ・ホップ・果実などが栽培された。園芸作物としてチューリップが育てられ、後にチュ ーリップ・バブルを引き起こすまでにもてはやされた。他にも鮮やかな色のついた夥し い作物が育てられた。16〜17世紀、オランダの染料は国際的地位を得ていた。つまり、 麻布地やインディゴ染料での帆の材料が揃い、更にその古布も炭鉱労働者に人気だった http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/234
235: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:45:14.36 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・142 オランダは1581年に、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)は独立を宣言したが、 それに対して、スペインはそれを認めず、1585年にオランダとの貿易を全面禁止して、 オランダ船の、拿捕命令を出す。その為、オランダ商人はリスボンやアントウェルペン には、入港できなくなった。しかし、欧州大陸は、アジア産の香辛料を手に入れなけれ ば、肉が食えない。これを確保しなければならないオランダは、商人を匿った。ここで ポルトガルが押さえているているインド航路やスペインが押さえている大西洋航路を避 ける航路、北回りつまり北極海を抜ける航路を探索するが、失敗に終わった。1594年に 、アムステルダムに設立された「遠国会社」は国策ながらも民間会社でロシア皇帝の、 支援を受けて発足し、喜望峰周りで、アジアに向かう船団を編成して、4隻の船が密か に出航した。1594年の事だ。ポルトガル船の目を盗みながら1596年ジャワ島のバンテン に到達し香辛料の持ち帰りに成功した。それに刺激されて、次々と会社が設立されて、 競合するように密貿易の商人が出て来た。1600年にイギリス東インド会社が設立され、 国王の独占を認められた特許会社が発足し、新たな脅威となりと、オランダも貿易会社 の一本化が迫られ、ホラント州法律顧問オルデンバルネフェルトは、単一の会社への、 統合開始。各州の連合体であったオランダでは、統一会社の設立に反対も強かったが、 ようやく1602年に「オランダ連合東インド会社」が設立された。航海には設立前と同じ く、1航海ごとに出資者をつのる方式のイギリスに対して、恒常的な株式会社とした。 それはオランダ東インド会社が10倍の資本金で始まったからだ。さらに株主の資本に 、無限責任を切り有限責任に移行させた。出資者は間接的にではなく、直接的に会社に 出資し、株式が発行され、譲渡が自由になり、現在の株式と同様な金融性格を持った。 その理由は既に、各都市で競うように航海していたからだ。アムステルダム、ホールン 、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ゼーラントの6支社が、既に本社機能を 持ち構成された。この適度な競争と適度な組合は、バイキング様式の議会調整であり、 民主主義や共和制や自由主義資本主義と言った物を産んだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/235
236: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 21:52:04.93 ID:8b3X4D8B0 中立のリアル・・・・・・・143 つまり、寄り合い所帯の「連合」東インド会社であった。アムステルダム支社が出資 額が最も大きかったので、事実上統率し、従来の本社の役割を果たした。十七人会とい うの取締役が牛耳って、他の、大口出資者76名が重役となり、その中から、選ばれた 17人の役員が取締役会を構成して、実際の連合会社全体の経営方針を決定した。十七 人会に、東インドにおける条約締結、戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造などの権限 が与えられ、貿易の主導権を持った。こうして他の国と違い、総督ではなく連邦議会に 特許状が出されていたのだ。当初は21年間の期限付き特許状であったが、その後も、 更新された。その平和な継続性から法皇からの、喜望峰からマゼラン海峡までの、専任 の貿易独占権が認められたのであった。インド洋から太平洋にいたり、インドや、東南 アジア・東アジアを含む、広汎な範囲での貿易の独占権と、総督を任命したり、要塞を 設けて兵士を駐屯させての運用を行った。敵対する国・勢力と戦争をする主権的権限が 与えられた神権行使の民間会社となり、東インド地域を一個の独立した、国家のような 存在として、すべてがオランダ東インド会社の物。との占有権が認められていたのであ る。 東インド会社は、1609年に東インド総督を設け、東アジア貿易全体を指揮・管理 することになり。1619年、総督クーンはジャワ島西部のバンテン王国内の港町ジャカル タ(日本ではジャガタラといった)に拠点を置いて、イギリス人を追い払ってバタヴィ アと命名した。バタヴィアとは、ローマ時代のオランダで勇猛として知られていた勇者 バタウィー人の名に由来した。クーンは東インド総督として辣腕を振るい、1621年には モルッカ諸島の南のバンダ島を占領し、島民を大虐殺して 島の特産の香辛料である、 ナツメグ(丁子)とメース(肉ズク)の生産販売権を獲得した。そしてその開拓先を、 中国や、日本に向かうのであるが、夢の国理想郷の日本は遠かった。世界に稀な台風の 覆う国で、アメリカ東海岸同様、嵐が診切れない波があった。近年でもタンカー割れた り、海洋火口の地震波が、突然襲ったり、地磁気が変化する海だったのだ。いわゆる、 日本人の言う神風の吹く海で恐れられた、今でも琉球航路は台湾海峡を行く。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/236
237: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 17:28:54.65 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・144 バルト海が古くからあると言えども、地中海や黒海航路はもっと古く、バチカン航路 として、フェレンツ商人ジョバンニ=ディ=メディチは、手形金融業を営んで、バチカ ンの寄付代理業、すなわち海運税と言う寄付の代理窓口を営んで、最後は銀行設立まで 行っている。交易路はシルクロードの守り神として、マルコポーロ時代からあったのだ 。オランダのカルカッタ貿易についてお話ししましょう。17世紀にヨーロッパ諸国が、 アジアへ進出し、植民地支配を行った時期です。具体的には、オランダは東インド会社 を設立し、アジア貿易を本格化させました。彼らはマドラス、ボンベイ、カルカッタを 拠点に通商活動を展開し、三角貿易の成立にも影響を与えました。三角貿易は、アメリ カ大陸からヨーロッパへの砂糖輸出と並行して、アメリカ大陸、消費地ヨーロッパ、ア フリカ大陸の間で、様々な商品が交易される仕組みをして、三角貿易をやってました。 具体的には、アメリカ大陸からはタバコ、綿花、砂糖が輸出され、ヨーロッパからは、 工業製品が、アフリカからは黒人奴隷が輸出された。オランダは三角貿易において重要 な役割を果たしている。最初のヨーロッパの経済覇権国として台頭したからだ。彼らは 西インド会社を設立し、ニューネーデルランド植民地(後の、ニューアムステルダム、 現在のニューヨーク)を、建設しました。また、東方でも香辛料や綿布を輸入し、この 頃の世界経済を牛耳った。しかし、百年もすれば、情勢も変わる。日本の戦国時代には 覇者だった貿易も江戸期中期には、イギリスの軍艦に追われて、急速にしぼんでいく。 日本の出島でも、軍艦フェートン号侵入事件。というものが起こっている。そして一方 で、イギリスも三角貿易に参入して商売仇となるのである。東インド会社を設立して、 インドで貿易で、その戦いは熾烈だった。紀元前時代から、インド洋とその周囲の紅海 、ペルシア湾、アラビア海、ベンガル湾およびマラッカ海峡を通して、南シナ海との入 り口で、結びついた海域では、勿論ベンガル商人の真珠商の人達だった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/237
238: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 17:29:22.62 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・145 西方の地中海で、ローマ帝国が登場し、新たに広域交易圏の和平が成立したことの、 拡大交易の影響を受け、紀元前後から、エジプトを離れても活発な交易が行われる様に なって、さらに東方の漢帝国の経済圏とも、ベルベル人のラクダの商隊を通じて、結び つくようになって、海の道または「海のシルクロード」とも言われる東西の交易ルート との重要な舞台と変貌する。紀元1世紀前後から盛んとなった、インド洋での、東西を 結ぶ海上交易圏は、実はナバテア人の持った、大船建造技術、もっと言えば、金具と、 瀝青の商売の成功にあった。西方のローマ文明圏と、東方の漢文化圏を結びつけていう 、いわゆる「海の道のシルクロード」の役割やルートも、まだまだ紅海やナイル川運行 に頼っていた。大きな戦争があるまで、この川の上流を求めて探検に行くほど、熱を入 れたが、結局は、エルドラードつまり黄金郷は見つからなかった。元々紀元1世紀頃、 ローマ帝国の勢力が、西アジアにおよんできたことにより、イランのパルティア王国、 北西インドのクシャーナ朝、インド中央のサータヴァーハナ朝、南インドのチョーラ朝 やパーンディヤ朝、スリランカのシンハラ王国などとの、交易が盛んに行われるように なって行った。ギリシア人商人やペルシャ商人が活動していた地域に、イスラム教が、 基準になり7世紀にはイスラーム商人、15世紀には中国商人、15世紀末にはポルト ガルなどヨーロッパ商人の活動の場となる。ローマ人は胡椒・香料・真珠・綿布・宝石 などを買い、金貨で支払っていたのである。現在、インドの各地からローマ時代の金貨 などが、多数出土する。このことから、その交易が盛んであったことがわかる。これら の東西交易の舞台となったのは、陸路のみではなく、ナイル海運の技法を取り入れ、ア ラビア海でも、このナイルの季節風貿易を、海に利用し完成させた事にあった。メディ チ銀行の最大の顧客はローマ教皇庁である。教皇庁が顧客での金銀の買い付けや海洋の 通行権の受付で半分を占めた。その銀行業の利益も毛織物業に投資して、その名声でフ ィレンツェ市政の関与や、芸術を保護するパトロンとしても活躍して大航海時代に突入 していた。この事に、ロシア正教会代表のロシア皇帝の投資も噛んでいたのだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/238
239: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 17:29:46.17 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・146 紀元1世紀ごろからアラビア海とその周辺にインド洋交易圏が成立した。最初に活躍 した、ギリシア人商人は莫大な利益が転がりこみ、ローマを繁栄させた。『エリュトゥ ラー海案内記』は、この頃のエジプトを拠点に活躍したギリシア人の船乗りが、インド との貿易の経験をまとめた紅海・アラビア海・インド洋の航海案内記を表して、人々の 関心を呼び起こした。その後、物売りに南インドの諸王朝も更に物品の流通を奨励し、 ベンガル湾を横断してマラッカから南シナ海へのルートを開拓していく。東南アジア・ 中国との交易を、次第に活発に行うようになった。8世紀頃の、強大なペルシャ帝国の 、この勢力が、インダス川流域まで影響が及んだ時、ペルシア湾に面したバスラを拠点 とした、ムスリム商人が勢力を持った。アラビア海に進出してきて、彼らは、アフリカ 東海岸までも進出してイスラーム化を拡大させると共に、その地の黒人を捕らえて囚人 とし、奴隷としてイスラーム圏に売りさばく黒人奴隷貿易を展開したのである。さらに 彼らの活動形態は、遠く唐まで及んでおり、東は中国に、大食(タージー)と言われて 、広州などの港に定住したものになった。西はアフリカの後に奴隷海岸とされるガーナ の世界まで届く。10世紀後半からファーティマ朝の建設したエジプトカイロが、紅海 の鼻先のスエズと共に、黄金都市とされた。この新たな交易拠点は、カーリミー商人と いわれるムスリム商人のメッカとなり、ダウ船という三角帆の船を操ってインド洋交易 圏で、大活躍する。インド洋交易圏に面したアフリカ東海岸では、土着の言語である、 バントゥー諸語にアラビア語やペルシア語の語彙が多数影響を与え、スワヒリ語という 独自の言語と文化圏が形成されキルワを中心に繁栄した。ベルベルの民のラクダ商隊は その土地の有力者との交渉し、物売りするか、仕入れ商人に卸すかを判断する。それは この商隊の荷物を護って貰う為でもあったし、寝泊まりや水・食糧の補充も欠かせなっ たからだ。しかし、紛争や戦争では、町そのものが消滅する事もあった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/239
240: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 17:30:15.59 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・147 この10〜15世紀に、次々とカーリミー商人を凌駕し席巻するのがユダヤ商人だっ た。ユダヤは、かつては色んな宗教に妥協した小さな 地域宗教だった。しかし、商売 と生活を結び付けたイスラム教から、その信徒のムスリムと言う修行者を育てる事に、 感銘して、カスピ海周辺にハザール帝国を作った。ハザールは、7世紀から10世紀に かけて、カスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族、およびその国家。 としている。しかしその実態は少し違う。支配者層はテュルク系民族と推測されていた が、ウラルから下った民である。ハザールは6世紀の東ローマ史料で、サビルやサベイ ロイと呼ばれた。『戦史』の著者プロコピオスによれば、「サビルはフンの一族であり 、カフカスあたりに居住し、多数の首長のもとに 適当に分かれている」と説明する。 しかし、このサビルとハザールがまったく同一の民族か否かは、いまでも確定できない 。アラブの歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』の中で、ハザールを、テュルク系の サビルとした。また、サビルの名が6世紀末からほとんど現れなくなる。実は、中央ア ジアでの交易はツングースの森の側が多かった。日本で調べられたツングース系文化は 、ある婚姻習俗を中心にて満族,シボ族,ホジェン族,エベンキ族,オロチョン族など 5つの分類民族がある。ロシアでのツングース系民族は、他に北海族、蝦夷族、アイヌ 8つあって、そのうち,ホジェン族,エベンキ族などは、中・ロ両国をまたいで存在し ている民族である。満族はツングース系民族の中で最も大陸中央に属し、いわゆる馬賊 の中心にあり、ツングース系民族の中で最も古い民族の一つであり,ツングース系文化 も主に満族に継承されているようである。いわばこの縦に動く交易路の中心にいる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/240
241: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 20:18:52.04 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・148 ツングースの名は、欧州の呼び名で、ツンドラのグース、つまり森の野鳥の雁などの 住む森と言う意味である。ツンドラ地帯は、日本では、凍原(とうげん)、寒地荒原( かんちこうげん)などに訳される。所謂、永久凍土地帯を示すものだ。北極海の傍で、 寒帯でも唯一人間が居住できてた地域で、トナカイの遊牧でチェコト族などが、狩猟・ 海洋漁業・鉱業が営まれていた。自然の地理学や地政学上、ツンドラは、低温で植物の 生長可能期間が、最も短いために、草木の樹木が生長できない地域である。ツンドラと いう言葉は、木のない平原を意味するサーミ語に由来する。サーミ―族こそツンドラの 中で生きて来た人達で、南極ツンドラ、北極ツンドラ、高山ツンドラの3種類があり、 いずれにおいても主たる植生は草本類、蘚類、地衣類である。この中でも、遊牧民生活 として、トナカイの飼養で生きて来たと言える。彼らの生き方は、新石器時代のツング ース系民族としての慣習も残っていて、北半球の厳寒地域での生活様式は次第に、他の 部族にも伝承されて行った。トナカイを飼養し、主な食糧としていた。ツンドラで生息 する数少ない家畜化動物であり、ほかの動物とは違って性格がおとなしく,飼育しやす い特徴がある。トナカイは衣食の材料のほか交通手段としても使われていた。トナカイ のソリは、サンタクロースで有名である。ミルクはチーズに加工され,皮は寒さを防ぐ 衣服として使われた。所謂防寒具としての毛皮である。またトナカイは宗教上、神霊と 人との間の媒介者と考えられており、現在にいたるまでツングース系民族の物質文化と 精神文化の重要な位置を占めている。トナカイの飼養が、後に馬を飼養する放牧とに変 わった。これがツングース系民族である満族の興りであろう。騎射狩猟文化につながり 満族の人たちは、特に戦馬を飼い慣らすことを重んじる様にして生きる様になった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/241
242: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 20:19:13.54 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・149 すでに述べたように,ツングース系民族は、歴史的には古い諸族だと思われるが、主 に中国の北方地域とロシアのシベリア地域に分布して、国の形成にまで至っていない。 その地域環境の影響を受けての、独特な自然と融合した、物質文化と精神文化を形成し ているのは、モンゴル人生活でもわかる。ツングース系民族の居住地域は森林,川・海 などの沿岸地域や平原であった。森林は禽獣など、川や海には魚類などの自然資源が、 自由に獲れた。平原では農耕の自然環境を提供していた。ツングース系民族を生業形態 を4種類のタイプに分類してよく論じられ、これらの社会は、近年まで、密接に関わり あいがあっても、非常に干渉しない仲であった。第一形態の川・海での漁労,第二形態 の原始森林での狩猟生活。第三は、ツンドラの森林生活でのトナカイの飼養という牧畜 遊牧。第四は平原地域の農耕。と言う事にある。第一の漁撈は、シベリアの新石器時代 の末期に、既に開始された伝統的慣習生活の様式である。それはオビ川や黒龍江沿岸な どの諸民族の主な生業形態になている。漁労に依存できたのは,早くから川などの、水 資源に恵まれていることで、定住できたからあろう。魚網や鋤やす、矢や釣り針などの 、漁具を開発して魚を獲り、魚肉を主要な食糧とする事が出来るぐらいの寒さで、魚を 様々な製品に加工した。魚を陰干したり塩漬けにしたりした後に、食用に貯蔵できた。 また、サメ皮を使って石や鉄を研ぎ、道具として服と靴を製作する「サメ皮文化」など もできた特徴を持ち、ツングース系民族である満族にも習慣や文化は伝承された。東北 の長白山岳地帯の松花江,トマン川,鴨緑江,及び黒龍江,牡丹江,ウスリー川などは 水利の資源が豊富で、満族は一年中,川での幸が満喫できた生活になった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/242
243: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 20:19:35.94 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・150 この、ウラルや天山などの山岳地帯の漁撈の歴史は長い。7万年前から4万年前まで、 松花江畔は旧石器時代の末期から人類が生活していた足跡があり、楡樹(ゆうじゅ)県 周家明月鎮の石門山の「安図人」の洞穴の遺物より、この時期の人びとはすでに石板・ 野獣の骨を使っての、簡易な道具を作り,その道具を使って魚など動物を獲っていた。 永吉県の星星哨(地名)と扶余県の監視塔で出土した新石器時代の遺物からも骨製釣り 針と網などが発見されている。長白山岳地帯の各河川の沿岸に居住していた満族の祖先 は粛慎時代から漁撈を行っていた。寧安県の東康遺跡と林口県の三道通遺跡の出土遺物 の中から釣り針,銛などの漁撈道具が出土している。第二の原始林での狩猟とは人間が 自然界の動物に依存して生きてゆくことである。アジア大陸の東北部の満族などのツン グース系民族は、古くから現在に至るまでこの狩猟に従事し、恐らく鳥と同じに動いて いた。日本人は農耕民族で風を呼んで月と共に暮らして来たが、狩猟民族は鳥を見て花 の香りで季節と共に動いて暮らした。粛慎は3000年前に「白山黒水」(中国の長白山と 黒竜江のこと)の間で狩猟をし、特徴のある狩猟文化を築いた。食用と衣服になる動物 を獲っているが、オオジカ・野鹿・鳥類が主な獲物であった。狩猟道具は矢に罠(地矢 )及び、その他の捕獣用器具で、捕獣用器具の様々な種類を持った。たとえば捕獣夾や 捕獣套・捕獣柵であり、大型の動物から鶏など小型の動物まで、足で踏んだら閉じ込め られたり、毒矢が飛んだりする道具である。ツングース系民族の祖先は、騎射狩猟が主 な生業であり、女真族の騎射狩猟のやり方を継承して発展させた。女真族は中国や日本 で蝦夷族と言われた集団で、集団狩猟である巻き狩りの癖がある。巻き狩りというのは 取り囲んで獣を捕らえる方法で、「大きな捕物」と「小さな捕物」があり「小さな捕物 」というのは、春・夏・秋に個人で捕らえる方法で、「大きな捕物」というのは冬至の 後に集団で捕らえる方法と言う。博多通りもんの源語である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/243
244: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/30(日) 20:19:59.81 ID:F0Y3MoAkg 中立のリアル・・・・・・・151 第三のツンドラのトナカイの飼養は、新石器時代のツングース系民族は北半球の厳寒 地域で生活し、トナカイを飼養し主な食糧としていた様だが、冬には、アザラシや北極 熊なども獲り、凍った川を道にして、ソリを引き往来し、トナカイを飼った。ツンドラ で生息する動物で、ほかの動物とは違って性格がおとなしく飼育しやすい特徴がある。 トナカイの食はコケであり、栄養が少なく始終食べ歩きして体力を保持し、魚の様に、 群から離れない。トナカイは衣食の材料のほか交通手段としても使われ、トナカイの、 ミルクはチーズに加工され、皮は寒さを防ぐ衣服として使われていた。また、トナカイ は人と神霊の間の媒介者と考えられ、現在にいたるまでツングース系民族の物質文化と 精神文化の護り神で、クリスマスは重要な北方民の季節によるラマダンの始まりの儀式 だった。トナカイの飼養は、後に馬を飼養する事に変わり、ツングース系民族は満族の 騎射狩猟文化に代わった。満族の人たちは特に戦馬を飼い慣らすことをしフン族として 欧州に嫌われた。馬を崇拝し、祭る文化は一番優良な品種を選んで子孫を増やした。こ のフン族と言わる所以は、彼らの燃料が、牛馬の糞で火をおこし、食事をするからであ る。この糞が乾燥するステップ気候以外では真似出来ない生活である。彼らはそれでも 水を求めて湿地帯にやって来る。第四の平原地域の、農耕民は、否応なしにこれらを、 出迎える事になる。農耕はツングース系民族の中でもっとも新しい生業形態で先の徒満 族、サーミ語の北海族、や日本の蝦夷族、アイヌ族と違いエベンキ族、オロチョン族に 近い。シボ族・ホジェン族は、まだ不明ながらも農耕族ではなかった様だ。ロシアでの 8つにツングース系民族では、狩猟と採集に依存していたが、近年ではアイヌも養殖し 河で、貝を育て、鮭やマスの気候による河昇りを待ったと言う研究もある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/244
245: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/01(月) 15:53:59.70 ID:xhiP4xucm 中立のリアル・・・・・・・152 日本の古墳時代の頃から、狩猟と採集のほかに農耕を始めて、女真族時代が出来て、 生産力がいっそう高くなった。人口増加と食糧の増加に従い、彼らは豚を飼育していた 。前に言ったように、農耕は家畜との共生で始まった。ツングース系民族の主な、生業 形態となった家畜は、農耕での貯蔵・保管の出来ない、余剰食糧、つまり残飯は一つの 保存食糧だったのだ。しかし、土地が必要だったで、女真人は山と平原に居住するよう になった。とされる。狩猟と農耕と採集の三種の生業を組み合わせて行って、物品にも 余裕が出来、そのうち女真人は主に農耕に依存していくが、交易のパザールの、本来は 農耕馬や牛や羊の売り買いが、豚や豚肉、布や皮や毛皮や金までも 市場の商品となっ た徒満族の祖先である粛慎は秦の時代に農耕を行っていた記録がある。農具は鋤と斧を 利用し,主に大豆,米などの農作物を生産していた。農耕は狩猟の補充形式として存在 したのである。フン族と診られたサビル部族連合は、カフカスからやって来た女真族で 北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。ハザール王国は9世紀初頭に、世界史上類を見 ない「改宗ユダヤ教国家」となったが、これは豚の養豚が成功しての事だった。ここで 国民の大部分がユダヤ教徒になった。9世紀に起こった事は、キエフを中心にした現在 のロシアのルーツとされる「キエフ大公国」が成立した事だ。その担い手は東スラブ人 であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。「ロシア」の名はこれに、 由来している。ローのルス人である。ベラのルーシの対抗語である http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/245
246: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/01(月) 15:54:25.36 ID:xhiP4xucm 中立のリアル・・・・・・・153 ハザール・カガン国は、ハのザイル、つまり尊大なザイル人である。7世紀の中頃、 西突厥の衰退と共に、ハザールはその後継国家ハザール・カガン国を形成した。日本語 的には、財要る。座に居る。会員制市場人、つまりこれが、ハザールや、市場可汗人の 国を形成していたのだ。ハザール人の歴史は、とても不思議である。特に ハザールの 寡頭制が、バビロニアの錬金術展開に変形したものとして、世界最大の組織犯罪シンジ ケート団のハザールマフィア(KM)を作った、中国の龍頭と蛇頭の闘いは熾烈だった。 白龍党と黒龍党、蛇頭集団の名は、印度カースト制の成立と共にあった。ここでザイル とは、バアル神の信仰信者の意味である。バール信仰が古くからの、カナン地域を中心 に各所で崇められたと言われる。「嵐と慈雨」の神である。その語源はセム語で「主」 、または「主人」「地主」を意味する。バールは覆う物と言う意味で、バビロニア式の 発音のベール、そして鳴り響く意味で、ベルとも表記された。ウガリット神話で最高神 イルの息子と呼ばれ、ダゴンの子バアルとも呼ばれている。勝利の女神、アナトの兄で 夫。聖書はアスタルトを妻とした。と記述する。彫像などは、棍棒と槍(稲妻の象徴) とを握る戦士の姿で表され、乾燥し実りの大地に、農耕の人々から豊穣神として崇めら れていた。日本でバールと言えば金槌や釘抜きになるので、鉄の精錬民族かもしれない 。イルはセム語でエールと発音する。つまり頂上神や天使のミカエルのエルなのだ。親 のダゴンは海の豊穣神だが嵐の神でもありいわゆる海神だが、聖書ではペリシテ人に、 悪魔で信仰するな。と説く神だ。古代オリエント世界で、一般的に嵐の神や戦さの勝利 神とみなされたバアルは、神々の席上、奴隷の身分と宣言され、太陽神の助言を持って 、冥界の門番となったとされる。神の席上から退席させられるも、神の王座に着いた。 閻魔大王の地位だ。人身供犠を求め偶像神として、否定的に描かれ、アブラハムの宗教 で「異教の男神」一般を広く指す普通名詞として「バアル」の名が使われて 聖書が、 如何にこのバビロン宗教を物真似して来たかが、ここに解る。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/246
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