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あとはよろしく (380レス)
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121: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/12(水) 09:24:55.19 ID:zxbLDsqp+ 中立のリアル・・・・・・・33 オーストリアはイギリス、オランダ、プロイセンなどと共に、対フランス同盟を結成 していた時代だった。、有利な戦いを進める事が出来て。結局、スペイン王位は、ルイ 14世の孫フェリペ5世が継承することで、戦争は終着をみたが、此の時、スペインと フランスが敗けて、1714年のラシュタット条約では、スペイン領であった南ネーデルラ ント(旧オランダ)、ミラノ、サルデーニャなどを獲得して実利を得て、大国としての 地歩を固めるのである。このスペイン継承戦争でのハプスブルク家同士の身内の闘いは 、その後に身内の結束は無く、同じ様な身内が戦う事を示唆していた。更にこの条約に イギリスが全く関わっていなかったのだ。この戦争ではフランスとスペインが実質的に 敗れたので、それまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント・ミラノ ・ナポリ王国・サルデーニャをオーストリア=ハプスブルク家に譲り、これによって、 18世紀中頃のオーストリアは大国になり、一方で、ハンガリーやチェコ、ポーランド などにも領土を有し、ヨーロッパ大陸の東西にまたがる帝国の地位を得た。がしかし、 同時に、その領域内には多数の民族を抱える多民族国家となったため、その統治に苦悩 する。一方でルイ14世は、新大陸アメリカの独立に手伝いに及んだ。又、彼は熱心な カトリック信者であった事で、王権神授説に立って一国家一宗教の原則を実現しようと 、1685年にナントの王令を廃止した。これはフランスにおける新教徒=プロテスタント (事実上カルヴァン派)の信仰を認めていた王令を廃止し、再び認めないとする厳しい 宗教統制であった。教科書は出てこないがナントと言う都市は、実は18世紀フランス 大西洋岸の最大の貿易港として栄えたが。その最大の商品は黒人奴隷だった。つまり、 日本の江戸時代に、フランスは、早々と多人種国家として、成立していたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/121
162: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/17(月) 09:39:22.19 ID:mP4xFF9rs 中立のリアル・・・・・・・74 その後ローマ帝国に敗けて、ローマが滅ぶ迄、地中海においてはガレー船が商船とし て多用された。ガレーとは船を意味する。一応帆はつけているが、常時使用はしない物 で固定された小さい物で、基本櫂(かい)つまりオールの漕ぎ手が2〜40人ぐらいに 載せて航海していたのである。1538年、オスマン帝国のスレイマン1世の時代になって も、このガレー船の戦闘時代だった。フン族達は騎馬隊で蹴散らしても、船による遠征 までに至らなかったのである。ところが、中央アジアの覇者となるオスマン帝国でも、 新たな潮流には負けたのである。。ガレー船は中世に入ってからも地中海の東方貿易で 盛んに用いられたが、櫂を上下に配置する大型ガレー船は次第に少なくなった。中東で は、人口の増加に森林の伐採が進み、大型船が造れなくなっていたのだ。14世紀頃か らは、船幅が広く安定したガレー船が作られるようになり、15世紀には特にヴェネツ ィアでガレー商船が盛んに作られた。その漕ぎ手は古代ギリシア以来、自由人であった が、労賃が高くついたので、中世末期からは戦争捕虜や囚人が漕ぎ手として使役される 。しかし、15世紀後半、大航海時代になると、ポルトガル・スペインでカラベル船と いわれる帆船が用いられるようになった。これはユグノーによる水車を利用した、綿糸 や布の技術が出来て、大型帆船にも使える布、即ち強風に敗けない布とロープが出来た 事が大きい。ポルトガルやイスパニアで、大型の帆船の、カラック船やガレオン船易が 出現し、遠洋航海術が発達して行くと、大砲や銃火器もフランスで発展を遂げた。そこ で、ガレー船オスマン軍は敗けて、16世紀をピークとして、ガレー船も17世紀以降 は少なくなる。1571年のオスマン帝国海軍とヴェネツィア・スペインなどの連合海軍が 戦ったレパントの海戦では、ガレー船が実戦で重要な働きをした最もよく知られた海戦 であったが、ここで連合軍が勝ったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/162
224: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/27(木) 04:44:49.19 ID:ObO3VDO9a 中立のリアル・・・・・・・135 中世時代の「黄金時代」にあっても、オランダの貿易額の、2/3はバルト海貿易で、 あったし、残り1/3の半分も、地中海貿易の中あった。つまり、オランダの富の源泉は 、ヨーロッパ域内での貿易であり、同時代でも、既に指摘されていたが、海外植民地は 、維持費がかさむだけで大した利益をもたらしていない。のが実情であった中で、多く は手放す中にあった。それは、度重なる英蘭戦争で北アメリカの植民地を奪われ、さら に、南アフリカの植民地も、超大国に成長したイギリス帝国に敗れて失うなど、列強と してのオランダの、国際的地位は既に凋落していた。これはフランスと敵対し銃砲火器 の最新鋭武器を、手に入れられず、生活用品や高級宝飾品と貨幣の流通益に特化しての 交易で、この時期では、長崎出島での日本との、ほぼ独占貿易権が東アジアでの唯一の 牙城としてあった。が、続くナポレオン戦争での敗戦により海外覇権はほぼ消滅する。 つまり、このザビエルより早く、ほぼ80年前から、臼杵の豊前の大友公や、大宰府大内 氏、或いは博多商人や薩摩商人と、接触していたのである。実は香辛料と共に貴重品と された物がある。ありふれた甘味料となっているが、砂糖がヨーロッパで普及したのは 16世紀以降の事である。砂糖が普及する前の甘味料としては蜂蜜などが用いられて、 甘味料も貴重品だった。砂糖はサトウキビ(甘蔗)という植物が原料で、原産地は、か つてはインドとされ、現在もインドネシアのどこかであった。とされている。このサト ウキビの栽培と、製糖の技術はイスラーム世界で始まった。11〜13世紀にはエジプト産 の砂糖が、カイロのカーリミー商人の手によって輸出入された。つまり「砂糖は、コー ランとともに。」とか「砂糖は、コーフィと共に」と言われる所以だ。西方に伝わり、 砂糖がシュガー(sugar) は、アラビア語の sukkar 、砂糖菓子の candy は粗糖の意味 する貴重な媚薬のqand の地名が語源であるという。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/224
359: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/06(金) 02:02:18.19 ID:4iHAi7xtu 中立のリアル・・・・・・・253 ナンパやデートの途中で手っ取り早く 物陰や畑の草むらの中で行為に及ぶ男女は、 比較的海外では多かったかも知れない。日本では男色家も多く、男でも女でも、男同士 ・女同士の乳繰り合い。と言うのがあってもおかしくなく、見かけ上は、武家の社会と 云われても、商人と農家と言う層もあった。結構、規律の厳しいような格好だが、中に は、目当てや恋仲が、その格式を超えて燃え上がる事もあったろうし、それなりの宿も 乱立して民家もあった事から、着衣でのスピーディーな行為がほとんどなかった時代で あったと推測する。そうしたお屋敷にも、納屋や離れはあった筈で、もし、誰かに見つ かっても、着物で隠してしまえばいいぐらいの事で、性交に寛容だった筈だし、問題は 相手側の殺傷や刃傷に及ばない合意こそが大事で、いつどこから詰め腹で、お咎め受け るか判らぬ様では、用を足しは出来ないはずであった。更に、疫病や流行り病は風土病 と共にかなり多くあって、そもそもそうした死を予想できる世情で、これが当たり前の 文化なので、そこまで恥ずかしくはなかった。つまりは、問題はそうした風紀よりは、 家柄や格式或いは伝統や宗教的性の儀礼の方であって、中には、禁断の恋仲で心中騒動 でも起れば、恐らくは取締りの上で、一家総離散か、蟄居謹慎、一族路頭に迷う。と言 った処理が「御上」や「藩の規則」で親・兄弟まで影響の及ぶものだったのである。た だ、江戸期も中期過ぎると、多くの事が変ってきて、路上の蕎麦屋や囲炉裏酒やおでん や飲み屋が繁盛すると言う通貨経済が出来上がると、置き屋と呼ばれた 芸妓部屋も、 女郎屋も整備されて、吉原に集められて、新集落となっりして、遊女屋も繁盛した。つ まり食い詰め浪人や農家も商家も、一般的な賃金制度で、食い物や寝る所も出来たのだ から、焼け出された人も、追い出された人も、それなりに、社会生活が送れる様になり 、貸衣裳も貸布団、さらには年間リースの家具屋もでき、米の流通も完成していく。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/359
371: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:07:09.19 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・245 盆踊り雑魚寝堂の、フリー性交は、大昔からあった日本人の、風習である。海外での 女性蔑視や選民思想と違い、日本人は神話での、八百神(やおろずのかみ)が力合わせ て、たった一人の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と言う塞ぎ込む女神を、 助けようと集まり、色んなお祭り騒ぎを起こす。相撲を取り、踊りをし、酒を振る舞い 太鼓を叩いて歌を歌う。それは、チョウチンアンコウが小魚を集める光の様にうるさく しつこく、辛抱して、連日連夜行って、やっとそっと見てみようと言う引きこもり女神 が覗いて来るのを待って、天手力雄神(あまのたじからおう)の力で、岩戸の扉を開け たままにさせ、采女(うねめ)達によって引きずり出されて、神々の頂点になるのであ る。この神話に添って、日本人は「和を以て貴しとなす」とするのが天皇であり、人は 助け合って、一人の落ちこぼれもなく活きる生活者にする。と言う思想が、ほぼ完成し 伝統的祭りが綿々と受け継がれて来た。盆踊りも乱交パーティもその意味で、参加要件 は、参加したい意志のみで分かれるもので、何ら差別しない。既婚者も参加でき、人妻 も含めた女性も、積極的に参加している。江戸時代には、日本人の性文化は、比較的に おおらかであり、井原西鶴が、好色物語を書き、春画や遊廓など性産業も隆盛を極めた 。俳人の小林一茶は、日記に、毎日何回性交をしたかを記している。が、一茶は晩年に なっても 毎日のようにセックスをしていたことが分かっている。こうした事実から、 日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だとも言われる。驚くべき事に 例えば性の緻密画、つまり性交画は、公に発行され、春画として浮世絵の一種として、 公然と扱われた。笑い絵や枕絵、秘画、ワ印とされ冊子状のものは笑本、艶本、好色本 、枕草紙とも言った。それほど露骨な描写でない絵は危絵(あぶなえ)とも呼ばれたが 土佐派や狩野派などの芸術的浮世絵師も、実はこうした春画の時期を得て、版元の後見 を得ていたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/371
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