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188: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:15:58.75 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・100 しかし、オランダの東インド会社は1605年に設立されたが、その5年前にオランダ人 の日本来航が始まっている。日本には、慶長5(1600) 年4月の豊後臼杵湾に漂着した 『リーフデ』号に始る。としている。これはどういう事か。その後1602年オランダ本国 で,東洋貿易諸社の合併により、オランダ東インド会社が設立されての、東洋貿易が、 バタビヤ (ジャカルタ) 東インド政庁を中心とし、各地に商館を設置して進められた。 つまり日本への貿易寄港は、既に戦国時代にあったのであり、それは、イギリス。イス パニア、オランダも既に就航していたのであった。マゼランは、ヨーロッパから東洋の 香料諸島(モルッカ諸島)への、西回りでの渡航ルート発見を目指し、スペインの国王 の意向で、世界一周した船団のポルトガル船長であった。1519年スペイン王からの信任 を得て、スペイン船5隻の艦隊を率い、スペイン・セビリアを出発したマゼランは、南 アメリカ大陸南端の、マゼラン海峡を発見して、太平洋に到達して、世界を驚かした。 マゼラン自身は、途中の1521年に、フィリピンでの部族との戦闘で戦死したが、残され た艦隊が、1522年に史上初めての世界一周を達成していた。ここが大事で、この1500年 代に、既にスペインは海洋航路進出を試みて、海洋大国であったのだ。オランダは建国 以前神聖ローマ帝国に次いで、実はスペインの領土となっていたが、毛織物産業が発展 しており、貿易も盛んであった。それらの商船を、海賊や私略船団が、襲うこともしば しばであり、商人は、自衛のために武装を行った。この武装商船がオランダ海軍の起源 といわれている。ここでスペイン船の世界一周に、多くの誤解がある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/188
189: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:18:52.33 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・101 アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体 に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、信教の自由を求めていた 、ヨーロッパからのアフリカに入植した人々が、合流して形成された欧州系民族集団を 、アフリカーナと呼んだ。現在でも、南アフリカ共和国やナミビアに多く住んでいる。 この地の言語が、オランダ語を基礎にして現地の言語等を融合して形成されたゲルマン 系言語であるアフリカーンス語を母語としてる。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた 「ブール」とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みでは ボーア人とも呼ばれる。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属した、オランダ改革派 教会であった。この事からも、既に15世紀ぐらいから入植し、17世紀半ばの1652年に、 オランダ人ヤン・ファン・リーベックらが、オランダ領東インドや日本への補給港建設 の為に、アフリカ南部沿岸部への入植が到達した。ケープタウンを建設、オランダ東イ ンド会社(VOC)によってケープ植民地が成立。彼らがアフリカーナーの源流となった。 ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルは1679年にステレンボッシュ市を築き 、後のアフリカーナーの内陸部進出の拠点となったが、この時のオランダ入植者の集団 は、カトリックが主流のフランス王国で公民扱いされていなかった、新教徒のユグノー 達だった。と言える。こうなると、他のヨーロッパ諸国からのプロテスタント移民も、 次々に合流する形で、流入し後に民族集団としてアフリカーナー(ブール人)と呼ばれ ることになる人々の前身が形成された。恐らくは海流の関係で、新潟に北朝鮮の木造の 小舟が漂着するように、水・食糧・案内役がいれば、比較的簡単に陸伝いに到着したの であろう。と思う。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/189
190: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:19:18.71 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・102 そもそも、16世紀後半スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは 、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。15世紀には、 このネーデルラント(現在のベネルクス)地域は、ブルゴーニュ公国の一部となって、 ブルゴーニュ領ネーデルラントであったが、この頃のネーデルラントは、毛織物生産に よって、他の地域より、優れて経済的先進地であった。ヘント(ガン)、アントウェル ペン(アントワープ)など、富裕な都市を生みだしている事からも、先進都市群だった 。しかし、1477年に守護していたブルゴーニュの、シャルル豪胆公が戦死、一人娘の、 マリー女公は、後に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント地域 はハプスブルク家の所領となって黄金期を迎えていた。神聖ローマ皇帝カール5世は、 ネーデルラント17州、すべての主権者として専制政治を行いだし、カール5世退位後に ハプスブルク領が、息子の兄弟に分けられ、オーストリア系とスペイン系に分かれた。 此の時、ネーデルラントがスペインの支配下に入ったのが不幸の始まりである。1556年 、カール5世は、息子のフェリペ2世にスペイン王位を譲位し戴冠させたが、カール5 世の治世は、その確固たる政策にも関わらず、ネーデルラントの社会変革や宗教改革の 影響を受けるのである。カール5世は、前述の様にネーデルラントで生まれ育っていた 。つまり、フラマン語、フランス語、スペイン語を流暢に話して、ドイツ語も少し話す ことができた。しかし息子のフェリペ2世は、スペインで育ち、フラマン語もフランス 語も話すことができなかった上にフランス風の、アントワープ風習や商人気質などは、 知らずに育った。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/190
191: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:20:51.50 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・103 フェリペ2世の治世下では、カルヴァン主義と増税の拡大、中央集権の強化こそが、 政治力であり王権だった。よって商人に「緊張状態」が強まっていった。更にフェリペ 2世の妥協しない姿勢によって、この状は独立戦争へと向かった。そして起ったのが、 80年戦争であった。当時、東南アジアの香辛料取引で、強い勢力を有していたポルト ガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じ た香辛料入手も、困難になっていた。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓 し、スペインと併合されていたポルトガルなどに、対抗する必要があった。1595年から 1597年まで、オランダは航海を通じてジャワ島のバンテンとの往復に成功を収めていた 。いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させて、航海していた。しかし、複数 の商社が、東南アジア進出を図ったために、現地(東南アジア)での香辛料購入価格が 高騰した上、本国(オランダ)での、商社同士が価格競争を行い、売却価格は下落する 一方で利益が取れない中にあった、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で、不安が残され さらに、1600年にイギリス東インド会社が設立されたことは、この懸念を深めさせた。 こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、諸外国の動きに対抗する 為に複数の商社をまとめて連合東インド会社を設立したのであった。この会社は、6つ の支社カーメル(kamer)から構成されており、それぞれ アムステルダム、ホールン、 エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれた商社の合併体で、 設立されたのである。正式は連合東インド会社:Verenigde OostIndische Compagnie、 略称VOC)は、1602年 3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる 。つまり、連合であって、この中には、既にインドや中国に出ていた船もあったのだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/191
192: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:33:35.94 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・104 しかし、会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地 の経営権など、喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義 の先駆けとなった。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約 650万ギルダー、重役会は17人会と呼ばれたビックギルドの集まりだった。これに 同国 の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけと なるオランダ商館は、ジャワや平戸などにも置かれた。18世紀末の1799年12月31日に、 オランダ政府により解散させられた。1598年、ロッテルダムの東方貿易会社から 東洋 貿易振興のため派遣された 船団のオランダ船の1隻が、冬の嵐に遭難した。300ton 。 マゼラン海峡を経て、スペイン・英国船を避けて、ようやく太平洋横断し東シナ海には いるかのところで、遭難し慶長5年(1600)豊後臼杵湾の佐志生 (さしう) に漂着する 。生存者は、船長クワケルナック、航海長 W.アダムズ (イギリス人) 、船員ヤン・ヨ ーステンら 24人である。この報を聞いた 徳川家康はアダムズを、大坂に招いて 来航 の事情をきき、世界の情勢などを尋ねるのであった。同船は関東へ回航中、暴風雨に、 あって大破し、浦賀で破棄された。船尾にあった、エラスムスの像が今日まで伝わって いる。又東京八重洲口の地名は、徳川氏が与えたヤン・ヨーステンの領地だった名の名 残りである。同船の漂着はオランダ・イギリスの、対日貿易開始のきっかけとなった。 つまり、このヤンの船団は、既にマゼラン海峡を知っていて、先導する親船がいた。そ して、ペルーの南アフリカ側からの赤道波の返し海流に乗って、やって来たものの台風 に出会った訳で、既にフィリッピンの呂宋海路は、出来上がっていたもの、と思われる 。又、ザビエルの船で、水先案内とした日本人アンジロウがいた。本来安次郎と書いた のか、手紙にはアンジロウとかアンヘロウと書いている。又薩摩文書や商人からはヤジ ロウと書かれた様だ。ともあれ、彼が、スペイン語も堪能にして、ザビエルを連れて来 ている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/192
193: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:36:26.59 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・105 「もし私が彼とともに日本へ往ったら、日本人は、果たして信者になるであろうか。 どうかを尋ねてみた。・・・ヤジロウの言葉によると、日本人は、理性のみに導かれる 国民だという。」と答えている。つまりスペイン語に堪能であって世界の流通があった 。ファーティマ朝のカリフ、ムスタンスィル(1036年〜1094年)の治世中の1064年に、 商人の到着が、遅延してカーリムが途絶えたとある。カイロで発見されたユダヤ人達の 記録の、カイロ・ゲニザ文書によれば、初期の「カーリム」という用語は「ナーホダ( ナーフーザ:船舶経営者)、もしくは、ナイルの船主や輸送船団、あるいはその集団」 を意味する特殊名称として用いられていた。カーリムという用語自体の語源については 、定説はなく、(1) 中央アフリカのチャド湖北岸の地域名カーニムから来たとする説、 (2) アムハラ語のクアラリーマの、「カーリミーによってエチオピアに輸入された香料 」の意)の語源から。(3) 「偉大な」という意味で、末端の小規模な小売人、に対して 大規模な卸売り商人(カーリー)を、区別する用語として用いたとする説、(4) タミル 語のカールヤムの「商売、事務」の意や、琥珀(Karim)と関連付けられるの説。と色々 あるが、兎も角はカイロに集まったエジプトの商人の大商隊を持つユダヤ商人を「カー リ―、」とか「カーリム」と呼んで、1064年に既に、細々とした商隊で、カイロが貿易 から見放されていく中にあった。即ち、華僑や印僑と共に、猶太僑のカーリムは世界を 股に、1064年に船団を持っていたのである。つまり大航海時代の1600年代の五百年も前 の話である。ゴレ島と言う島がある。アフリカセネガル共和国の首都ダカールの沖合い 約3kmに浮かぶ小さな島だ。。島は東西300メートル、南北900メートル、面積28ha 。1815年に、統治国になったフランスが、廃止するまで、奴隷貿易の一大拠点として、 栄えた、かつての奴隷収容所が島内に残っている。ここは、セネガルでは最古のイスラ ム教のモスクも残っている。ところが、1444年に、ポルトガル人が到達した。とされ、 既に此の時は、奴隷商売がなされ、イスラム文化のモスクがあった。とされている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/193
194: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/06/20(木) 22:37:33.55 ID:wLLAr6WAH 中立のリアル・・・・・・・106 では、誰が奴隷貿易をして、イスラムを礼拝していたのか。と言う事になる。少なく とも、1400年代の、ポルトガルは敬虔な、カチカチのカトリック教徒であったはずだ。 カーリムはエジプト専門の貿易商人で、ユダヤ教であった。従って、このモスクを建て たのは、商人か、奴隷か、は、別にしてイスラム教徒であり、ムスリムであったに違い ない。即ち敬虔なイスラム教信者である。このモスクが、奴隷たちの暴動を止める事に 役立っただろうが、とても彼らキリスタンが指導してモスクを建てる筈はない、わざわ ざ暴動になるようなリスクを冒して建てる理由がないからだ。ここに、レコンキスタの 意味がある。つまり我々の言う大航海時代はキリスト教国の大航海時代であって、遥か 前に、ムスリム達イスラム教の大航海時代が起こっていたのである。ウマイヤ朝での、 イスラム教、アラブ人の王朝で、正統カリフ時代(632〜661年)時代にはカリフが選出 されていた。つまり選挙こそなかったが、各地域のカリフから、カリフの中のカリフを 選出していた。だが、そうして平和裏にダマスカスから大きくなったこのウマイヤ朝の 王すらも、スンナ派の聖書正統派と、血統主義正統派のシーア派は、対立した。こうし て分裂の時代となり、その隙をついて、レコンキスタの闘いが行われたのである。この 1444年に、ポルトガル人が到達したゴレ島。その翌年1445年、ディニス・ディアスが、 ヴェルデ岬へ到達。その後1488年に、息子バルトロメウ・ディアスが、嵐の岬(喜望峰 )へ到達する。バルトロメウ・ディアスが嵐の岬(喜望峰)に到達した10年後の1498年 には、ヴァスコ・ダ・ガマが、カリカットへ到達。こうしてポルトガルは、世界地図に 新しいエリアを付け加えながら、香辛料の潤沢なアジアへと貿易経路をつないでいった http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/194
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