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361: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/06(金) 11:20:50.96 ID:4iHAi7xtu 中立のリアル・・・・・・・255 また大見世と呼ばれる規模が大きく格式の高い店で遊びたいと思ったら、男性は引手 茶屋を通して、茶屋の2階で宴を開き、その後に遊女屋へと移動して遊女と床に入る。 という手順が必要だった。 しかし、隆盛をきわめた吉原も、明治維新とともに状況は 新しく奴隷に近くなった。吉原は、徳川幕府のときと同様に遊女と遊ぶ代金である揚代 の一部を新政府に上納することで、営業は認められ、一方で、遊廓の遊女たちは奴隷と 同じに変った。しかしこれは奴隷だという諸外国からの批判が高まって、明治新政府は 、1872年(明治5)10月に「芸娼妓解放令」を発布する。文明開化である。けれども、 遊女屋は貸座敷と名前を変えて存続し、娼妓、つまり遊女たちは、場所を借りて自らの 意思で営業している。という体裁を取ることで生き延びる、その為置き屋が置かれて、 その実態は、より高尚な知識や芸のある娼婦が求められた。吉原の女達は貧しい農村や 、没落した商家などから、身売りされて来た者がほとんどだった。しかし、日本に欧米 のキリスト教的な倫理観が入ってくると、遊女達は差別の対象となる。1900年(明治33 )に、「娼妓取締規則」が制定され、遊女の自由廃業が、可能となったが、一方では、 身売りされる女性は無くならず、吉原も存続し続ける。つまり稼ぐ先が無かったのだ。 更に当時生糸工場や綿糸工業が興るが、そこの従業員工は更に過酷な世界であった。と されている。ところが、関東大震災と、太平洋戦争で更に変り廃止の方向性になった。 しかし、すぐに東京都と警視庁から、吉原再建の命令が下る。1945年(昭和20)8月に 、焼け跡のビルを改修して営業を再開した。間もなく終戦を迎えると、今度は日本政府 が進駐軍向けの RAA(Recreation and Amusement Association 特殊慰安施設協会)を 東京の大森海岸など全国に設けるが、その第一号も出来た。1946年(昭和21)は、兵士 達の間で性病が蔓延したこともあってGHQに従って公娼は廃止されることになった。 平等を叫ぶGHQも、娼婦の命や生活より、兵士の健康が大事だったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/361
362: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/06(金) 11:21:40.35 ID:4iHAi7xtu 中立のリアル・・・・・・・256 、、RAAの閉鎖後。吉原は翌年に「特殊飲食店街」と名称を変えて、借金の証文を、 破棄させられ遊女たちは、借金に縛られているのではなく、飲食店で働きなが自由恋愛 で性行為をしている。という建前が強く取られた。1956年(昭和31)5月「売春防止法 」が成立する。2年の猶予をもって吉原の、特殊飲食店も営業を終了した。代わりに、 吉原にはトルコ風呂が増えていく。トルコ風呂とは、当時は男性客に対して、女性が垢 すりを行う個室つき浴場としていたが、やがて性的サービスも行われるようになって、 いったのである。現在でもソープランドなど名を変え品を変え、夜の性風俗は続くが、 吉原は、町名も変更され、住所としての「吉原」は存在しなくなった。こうして形を変 えながらも400年近く続く色街は、いまなお多くの 女性が働き男たちの、欲望を満たし 続けて生き残る道を模索するのだった。遊郭吉原への幕府が出した移転条件は、遊郭の 敷地の5割り増しと、言う破格の税収入であった。更に昼夜営業の許可である。元吉原 は昼営業のみであったからだ。湯女風呂 200軒余りの、取り潰しの確約と、遊郭移転料 の1万500両・1万9千両(諸説有り)の諸費の出費である。大門(おおもん)は、毎朝未明 に開けられ、夜四ツ(10時)に閉められた(引け四ツ)に見張り番が交代で2人の奉行 と2人の岡っ引きが立った。それ以後はくぐり戸から出入りした。実際は九ツ(12時) に四ツの拍子木を打ち二時間ごまかしたといわれる。幅八尺(2.4m)黒塗り冠木門を設 置していた。衣紋坂(えもんざか)は吉原に入る客が、オメカシする。この辺りで衣紋 を整えたところで名が付いた。衣紋坂下りて左り前に、編み笠茶屋がある。遊客に顔を 隠しの編笠を貸した茶屋だとされる。宝暦以降は名前だけで編笠を貸すこともなくなっ た。高札場には・吉原以外の私娼の禁令や・乗物と武器の禁止の立て札が置かれた。時 には、吉原で行われた私刑の桶伏せ(おけぶせ)」も立たされた。揚げ代を払えない客 に窓穴の付いた風呂桶をかぶせて、路傍にて裸体のさらし者にしたのである。江戸前期 に「付き馬」といって不払いの、遊興費を客の自宅まで受け取りに 付いて行く稼業( 遊女屋とは別の独立した営業)のものを雇ったのだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/362
363: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/06(金) 11:22:16.49 ID:4iHAi7xtu 中立のリアル・・・・・・・257 江戸の時間は一定ではない。現況の日の出日の入りを基準にした四ツ時の閉門である 。つまり、夜明けを明け六つ、日の入りを暮れ六つとした。九つ時で12時間としたの で、12時間を18分割して半時(はんとき)としていた。つまり45分ぐらいで半時 1時間半で、一時(いっとき)ぐらいである。この不定時法とは日本のみでの時の観念 であった。「明け六つ」が日の出のおよそ四半刻前(約三十分)、「暮れ六つ」が日没 のおよそ四半刻後(約三十分)と定めて、昼を六等分し、夜も又六等分した時間の、数 え方である。単純に西洋の12時間制からは6等分なので「いっとき」とは2時間を示 す事になるが、実質の朝夕というのは夏至(げし)と冬至(とうじ)では随分違った。 夏至・冬至は、季節をそれぞれ24つに分けた「二十四節気(にじゅうしせっき)」と、 呼ばれる幕府公認の暦で決めていた。夏至・冬至・春分・秋分のこの4つの季節のこと を「二至二分(にしにぶん)」と呼んで特別な基準日であった。夏至と冬至の日照時間 の差は5時間近くあって、「いっとき=2時間」とは簡単に言えない。夏には3時間も 長く、冬に2時間も短い昼があるので、その分長い、更に九州薩摩と北海道松前藩、と 言った場所によっても緯度の影響が1時間ほど出たのだ。こうして日本では様々な地域 の夏至と冬至の日照時間を見てもわかる通り、場所によって夏至と冬至の日照時間は、 異なっていたのだ。ですから、一刻の長さも昼と夜、夏と冬という季節では随分差が出 るのは、至極当たり前のことでした。しかし、江戸時代の人々は、生活、生業の殆どが 、太陽が昇ると共に始まるのですから、「不定時法」が、当時の一日の時間の数え方と しては、理にかなっていた。と言える。そして、江戸の人々が「時間」を 知るには、 江戸城での登城時に打たれる太鼓を基準に打たれた「時の鐘」、最初に三打ちした後に 其の刻の数だけ鐘を打つ鐘で時刻を確認していたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/363
364: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/06(金) 11:22:45.31 ID:4iHAi7xtu 中立のリアル・・・・・・・258 夏至と冬至は、毎年昼日(ひにち)が、異なります。2024年の夏至と冬至が何時なの か、それぞれの複雑な計算が必要だが、江戸期は日の出と日の入りを視覚的に見て、影 を利用して鐘をついていたので現実には単純であった。西に位置するにつれ、日の出の 時間、日の入り時間が遅くなっていく。ですが、東京と大阪で比べると、夏至でも冬至 でも日照時間にさほど変わりがない。大阪の夏至の、日の出4:45 日の入り19:15 冬至 日の出7:01 日の入り16:51、つまり、夏に5時頃の日の出が、冬は7時であるし、夜も 夏場7時ぐらいが冬には5時には夜が訪れたのである。さらに福岡は、札幌と比べると 、夏至の日の出時間は約1時間も違いますが、日の入り時間はさほど変わりがありませ ん。よって、福岡の夏至の日照時間は、札幌よりも短いのである。さまざまな地域の、 夏至と冬至の日照時間を見てもわかるとおり、場所によって夏至と冬至の日照時間は、 異なり、時間も江戸時間と藩の時間があった。それもふまえ、全国の平均的な日照時間 は、夏至で14時間50分程度、冬至9時間45分程度を6等分した時間割が一刻や一時だっ たのである。夏至と冬至の日照時間の差は5時間程度もあるのです。夏至は日が長く、 冬至は日が短い日です。日の長さを生かして、夏至には夕涼みを、冬至には床にはいっ た。つまり、夏場の夜は、7時にやっと夜が訪れる。昼間が長い事は、夜は短いと言う 事で、ほぼ10時には門は閉まったのである。夜のこの頃には、街そのものの門が閉ま り出入りが止められる。それ以降は、どこかに泊まる事しか出来ない出島のような仕組 みだった。これは夜陰に紛れて 遊女が逃げる事を止める為で、門には番所がついて、 夜の監視員が幕府から出向していた。又、花魁や太夫などになると、一般では当然指名 できず、いくら大金を積んでも、何度も足を運んだ馴染みの大商人や、大名のみの酒の 相手で大金がないとと口すらきいてもらえなかった。とされた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/364
365: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:00:10.54 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・239 江戸時代は、今よりもずっと、性に関してオープンな時代であって初体験の年齢が、 10代前半なんて珍しくもなく、「結婚するまで純潔を守って当然」なんていう、お堅い 貞操観念が定着し始めたのは、日本が西洋諸国の文化やキリスト教の教えを積極的に取 り込み出す明治以降の戦後期だ。つまりわりと最近の話である。近年に、性の低年齢化 が嘆かれるようになりましたが、言ってしまえば今に始まったことではない。といった ところである。勿論、良いとこの、お嬢様など 家柄次第という事情もあったようでは あるが、高齢出産が、母体や身体に悪い事が、経験値から知っていたし、一般庶民では 性に関して奔放、貞操を守ることへの意識は、慣習や空気からも薄かった。といわれて いる。まず江戸期に、「処女であること」は全く不利しかなかった。今は、女性の、「 処女であること」がステータスで貞操観念が強くあるが、江戸期は、むしろ沢山の異性 と関係を以て人生を知る。と言う事が哲学的に奨められ、男を熟知している事も大事だ 。という文化・風潮があった。更に、付き合いのデートとセックスはほぼイコールだっ た。女性が男性の声かけ、性行為が簡単に了承され、粗雑な男性は噂され遠ざけられた 。当時の女性たちは、現代女性より、ずっと逞しく、積極的で健康的で、最初から選り 好みして、デートも性交渉も、基本的に主導権を握っていた。と言うのが女性側にあっ た。まあ「弱き助け、強きをくじく」とか「判官びいき」の典型であろう。気に入った 男性を、追いかけまわしてでも、押し倒して事を成す。と言う事も当然あったし、女性 が拒否すれば、男性側はおとなしく諦めなくては ならないし、慣習の夜這いも、いつ でも盗賊として殺される危機はあって、よく調べ、中にはちゃんと親にも告げて夜這い に及ぶことも多かった。まあ、刀をもつ侍もウロウロしてる事情で、みんなが大人びた 節度のある住民でいたから、無事に生きれる。と言う生活である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/365
366: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:00:38.16 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・240 ちなみにこうした性事情は、江戸時代になって 急に始まったことではなくて、戦国 時代前から、ずっと日本に存在していて、男同士や女同士すらも、性交の対象者である 考え方が、存在していたのである。それはそれで、日本では大事な事で、災害の多い、 島嶼国に日本的人種が滅びずに、ここまで多い地震や台風などにめげずに、国が創れ、 続いて来た。と言うのもそのせいであろう。人の磨倶合い=性交は、712年の古事記や 720年日本書紀 などにも日本の起源として書かれている。日本神話では、最初は天と地 しか存在しなかった。混乱と空白が、混ざって不明瞭な形作っていた世界。つまり混沌 とした中で空は晴れて、天界に3人の創造神(三柱神)が現れた。天が空間から作られ たように、惑星や銀河も形作られた。とする地は、既に何千もの神を生み出しこの世に 暮らしていた。とされる。此の時の三柱神は、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナ ミ)の2人の神を、地上に送る事に決めてこの2人の神をその上に降りたたせた。その 後に、他の神や日本を島々を創った。とされる。イザナミは、我が子火の神を生む時に 、死んでしまい、イザナミの体は、魂と共に下界へと運ばれた。イザナギは、イザナミ を慕い、死の世界へと訪れる。が、そこで、イザナミの腐敗した身体を見てしまうので ある。イザナギは気分を害し、下界の鬼やイザナミから追われながら、そこを逃げ去り 「汚れ」を除去するために、体を水に入り清めるのだった。いわゆる禊(みそぎ)の行 (ぎょう)である。その間に、イザナギの左目から天照大御神(アマテラス)、右目から 月夜見尊(ツキヨミ)、鼻から素戔嗚尊(スサノオ)が誕生した。とされる。このいわゆる 太陽神であるアマテラスは、月の神のツキヨミと共に、その後天界の王に任命される。 そのうちに、嵐の神であるスサノオが、アマテラスを訪れるが、スサノオは酒を飲み過 ぎて、田んぼや柵を壊して、糞便(ふんべん)をアマテラスの織物部屋に投げ入れる。 などして悪行を行っているのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/366
367: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:04:07.21 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・241 アマテラスは、恐怖と悲しみのあまり洞窟に逃げ隠れるが、それが、世界から光が奪 われ、多数の神々が集まり、アマテラスを外に出そうと、宝石を渡したり、踊りを見せ たり、自身の美しさを見ることができる鏡を作ったりした。アマテラスは、宝石と鏡を 、取りに出た瞬間、他の神々はアマテラスが 洞窟に戻らないように 綱を張り手力神 が石の扉を取り上げた。その後スサノオは罰として、髪を切り、ヒゲとツメを抜かれる 。髭剃りとは宗派団体の破門であり「詰腹=切腹」を意味した。また、スサノオは姉の アマテラスに剣を渡して下野した。「剣の移譲」すなわち権力移譲である。アマテラス は瓊瓊杵尊(ニニギ)を産み、ニニギは、日本に送られて統治する。この、瓊瓊杵尊(に にぎのみこと)が治めた土地が、ニホンと言う事になる。つまり、ニニギの本領と言う 意味になる。こうなると、これらを指令した高天原(たかまがはら)は国外にある事に なる。ニニギは、アマテラスの祈りと、ニニギ自身の権限を証明するための「剣、鏡、 玉、」と言った三種の神器が与えられて、王位又は皇位を持って治世を行った。ニニギ の子の 一人である、神武天皇は、アマテラスの子孫が、天の下にあるもの全てを統治 すべきと主張した。神武は、三種の神器を持ち 皇位継承者として、朝廷の篤臣として 東に進撃する。神武はその後、日本の国をベースとして、全体を制圧し紀元前660年2月 11日に、日本の最初に、天皇と言う席についた。この初代天皇からの血統が、今の天皇 家まで続いているとされている。この神武天皇の存在については、歴史的に照明されて いない。この明確とは言い切れないものの歴史的に存在したとされる。その後文書等で 証明されている最初の天皇は、これから10代目の崇神(すじん)天皇である。日本の歴史 書では15代目の応神天皇(346〜395)が大和王朝の創始者であるとされるが、これだけ、 伝承され神社もあり、風習や習慣ついていて、なぜ天照大御神を否定できようか。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/367
368: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:05:14.28 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・242 この哀れな黄泉(ヨミ)の国の死者のムクロの様になったイザナミが、ヤツデやクモ の手と共に追いかけられ、イザナギはこの黄泉の国を逃げて、黄泉比良坂(よもつひら さか)で、葡萄を投げて蔓が伸び、竹を投げては筍が出来 桃の木があらば桃を投げつ け、ほうほうの呈で逃げおおせて、言い合いをする。イザナギはすかさず 夫婦離縁の 呪文とされる「事戸(ことど)」を発すると、それに激怒したイザナミは「あなたが、 そのような事をするのであれば、あなたの国の人々を1日1000人絞め殺してやる!」と 、恐ろしい言葉をイザナギに投げつけ、言葉を受けたイザナギは「それならば私は1日 1500の産屋(うぶや:あかちゃん)を建てる!」と応戦した。・・・と言うのが日本の 神話のあらましなのだが、此処に中立のリアルがある。つまり一つはスサノオノミコト の間違いである。姉と弟の関係の、ちゃんと土地も下界と上界(恐らくは平野と山)に 分れて、山の平和な村を出て、帰ってくる。が、思い違いで敵対し、その時でも同じよ うにスサノウは「村人を毎年百人殺してくれよう。」と言えば、アマテラスオオミカミ は、「それなら私は二百人も三百人も産んで育てる。」と言い返すのであるが、日本の 土地に於いて、死んでいく勇士や偉人が居るなら、その倍も三倍も産み育てる。という は、自然界の掟にみえる。我々は百獣の王のライオンは、絶対的勇猛な王様に見える。 が、実際にはこうした、ピラミッドの頂点にいる捕食者と言うは、ピラミッド下の底辺 や、従者、ライオンで言えば喰われても良い沢山の集団の個があって成り立っている。 自然淘汰で言えば、一番の絶滅危惧種なのである。仏教説話に於いて、ジャータカに出 てくる飢えたバラモンを救う為に、自ら火に飛び込んだ月の兎や、飢えた虎を救う為に 自らの肉体を捧げた捨身飼虎といった話が出て来る。尊い仏師の為と兎が自らの命を差 し出す話で、これを捨身と言う。としている。思えば日本人が起こした太平洋戦争は、 ほぼ、戦争前からこの「捨身」であり、米国に「解って欲しい我々は『捨身』なんだ。 と、訴えている闘いだったのである。これを判るか判らないかに、大きな違いがある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/368
369: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:05:43.93 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・243 つまり、幸か不幸か日本は、毎年台風が来て 火山の上に地震も起こり災害が多く、 協力し生きる糧を失えば、直ぐにでも廃村になる集落の国であった。こんな国で子供を 産めよ増やせよと言えば、当然夜の生活に自由度を高くするしかない。盆踊りは盆時期 に、子孫一同を集めて、先祖を共同供養する神聖な踊り行事である。とされる。ルーツ は、鎌倉時代に一遍という僧が広めた「踊り念仏」だとも、いわれているが、実は相当 古いもので、古墳時代からあったようだ。踊り念仏では、念仏で救済される喜びを踊り で表現したもの。といい、激しく踊り狂うと言う江戸期の遊びの文化も挿入されている ため、僧や尼の衣服が肌けるシーンも珍しく無かった。一遍はこの踊り念仏を全国各地 で披露し、最終的に日本全国でブームを巻き起こした。とされている。朝から集まって その日の食事を作って氷の室堂に入れ、朝10時頃から踊り出し、夜通しの次の日の1 時の深夜や夜明け頃までも休みなしに踊り続ける、と言った過酷な物であった。とも、 言われる。疲れた者はそれぞれに散っていくが、踊り続けれる若者は、未婚男女を「お 御堂」と呼ばれる場所で、寝る事が出来た。この1箇所(寺の堂)に集めて一夜を共に 出来る通りを御堂筋とされ、茶屋なども置かれて現代の風習に繋がっている。この御堂 は、かなりに体臭で臭く、ここで過ごさせる風習が「雑魚寝堂(ざこねどう)」として 、江戸期に大流行した。この「雑魚寝堂」は、本来、大晦日の晩に行われるものでした が、次第に「盆踊り」と結びつき、同時に開催されるようになった。当時の盆踊りは、 未婚男女の出会いの場として人気を博し、このお御堂を子宝堂とも称した。既婚者の、 一時的な肉体関係でも、未婚の初夜でも、不倫を築ける場としても提供されており、盆 期間に限って男女の出会いの場として、不倫も浮気も容認された。一部の夫婦はパート ナーを交換して性行為をするスワッピングも大いに楽しんだ。とされた。こうした風習 は全国の農山村にまで広まっていた。そして性への大らかさは世界一となっていた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/369
370: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:06:40.33 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・244 盆踊りは、女性の参加できる裸祭りの形態で、古来より続く日本文化であった。冬や 秋の裸祭りの、最初に位置された祭りで、その後に体力のいる豊穣の実りから、春の御 田植え祭が続くので、ある意味婚姻の品定め、田舎の嫁選びの祭りでもあったのである 。現在では踊りのみの伝統となって、「阿波踊り(徳島)や「郡上踊り(岐阜)」など 、地方の地域性に合わせて進化したものあり、例年賑わいをみせている。明治の旅行記 には、日本は奇妙な国として紹介される。日本の温泉や公衆浴場は江戸時代まで基本的 には、混浴であったからだ。1853年に来日したペリーなどは、この日本人の習慣に驚き 、自国に提出した報告書に以下のように記した。「人々は皆非常に礼儀正しく控えめで ある民族である。しかし、驚くべき習慣を持っている。ある公衆浴場での光景なのだが 、男女が無分別に入り乱れて、互いに気にしないでいる。」(後略)と浴場性交をも、 感激している。また、ペリーはほかにも、当時の氾濫していた猥褻本に対して、「人が 汚らわしく堕落したことを示す恥ずべき烙印である」と記した。「性に関してシャイな 日本人像」はそこにはなく、決して古来からのものではなかった。「万葉集」や「源氏 物語」に書かれているように、奈良時代や平安時代の、貴族の恋愛や性行動からは、か なり奔放であった伝統文化だったのだ。また、日本には太古の昔より、混浴文化があり 、鎌倉時代の温泉には、温泉客相手に性的サービスも行う「湯女」もいた。当時の湯屋 は、基本的にサウナで冷水の風呂であった。日の落ちた公衆浴場は「性の社交場」でも あって、日本は「夜這い」の文化もあり、女性の方から、男性にいつでも来てねと誘い をかける「妻問い」という文化であったので、この湯屋で身体を綺麗にして、女性宅や 遊女屋に出入りし、飯や酒を飲むと言う事が日常だったようだ。この夜這い文化の発祥 は、奈良時代以降「歌垣」という一堂に集った男女が、歌を詠みあった後に、気に入っ たペアでフリーセックスを行う催しが全国的に盛んであった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/370
371: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:07:09.19 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・245 盆踊り雑魚寝堂の、フリー性交は、大昔からあった日本人の、風習である。海外での 女性蔑視や選民思想と違い、日本人は神話での、八百神(やおろずのかみ)が力合わせ て、たった一人の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と言う塞ぎ込む女神を、 助けようと集まり、色んなお祭り騒ぎを起こす。相撲を取り、踊りをし、酒を振る舞い 太鼓を叩いて歌を歌う。それは、チョウチンアンコウが小魚を集める光の様にうるさく しつこく、辛抱して、連日連夜行って、やっとそっと見てみようと言う引きこもり女神 が覗いて来るのを待って、天手力雄神(あまのたじからおう)の力で、岩戸の扉を開け たままにさせ、采女(うねめ)達によって引きずり出されて、神々の頂点になるのであ る。この神話に添って、日本人は「和を以て貴しとなす」とするのが天皇であり、人は 助け合って、一人の落ちこぼれもなく活きる生活者にする。と言う思想が、ほぼ完成し 伝統的祭りが綿々と受け継がれて来た。盆踊りも乱交パーティもその意味で、参加要件 は、参加したい意志のみで分かれるもので、何ら差別しない。既婚者も参加でき、人妻 も含めた女性も、積極的に参加している。江戸時代には、日本人の性文化は、比較的に おおらかであり、井原西鶴が、好色物語を書き、春画や遊廓など性産業も隆盛を極めた 。俳人の小林一茶は、日記に、毎日何回性交をしたかを記している。が、一茶は晩年に なっても 毎日のようにセックスをしていたことが分かっている。こうした事実から、 日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だとも言われる。驚くべき事に 例えば性の緻密画、つまり性交画は、公に発行され、春画として浮世絵の一種として、 公然と扱われた。笑い絵や枕絵、秘画、ワ印とされ冊子状のものは笑本、艶本、好色本 、枕草紙とも言った。それほど露骨な描写でない絵は危絵(あぶなえ)とも呼ばれたが 土佐派や狩野派などの芸術的浮世絵師も、実はこうした春画の時期を得て、版元の後見 を得ていたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/371
372: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/09(月) 12:20:02.93 ID:PR9x226dt 中立のリアル・・・・・・・246 江戸以前の性事情での、夫婦生活では「見られても、聞こえても 気にしない!」と いう鉄則があって、実に豪貴なものであった。一般庶民が暮らした住まいは長屋が多く 、長屋の壁は、薄くて声も姿も容易に認められた。従ってセックスの際の声や音が筒抜 けだった。とされる。勿論、そうなればプライバシーなどと言う物は無い。性生活にも 大変か。と思いきや隣や外に、声が漏れてしまったり誰かに覗かれても、別に平気な事 が夫婦であり証だった。江戸期に四六時中性交をやれる体力は、昼の仕事や食の細さで 殆ど無かったのであろう。特に結婚してそれなりの年月が経った夫婦には、よくみられ た倦怠期もあった。若い新婚夫婦だと、さすがに他人の目は少し恥ずかしかっただろう が、隣からの声に触発されて、老夫婦も我慢できずに始めてしまうのは、良い事だった 。江戸時代の性事情の夫婦生活は、妻や夫の浮気は当たり前に行われていた。一応江戸 時代でも「不倫は死刑、不倫された側は、配偶者や不倫相手を殺めても不問。」という 、相当厳しい法(不義密通)である。が、にもかかわらず、不倫自体が当たり前のよう に行われていたのは、不義密通を処罰して、火でもつけられては大火になり、街が立ち 行かない。と言う恐怖があった。庶民は夜回りもして、夜店は厳しく指導あいた。女性 も男性も性欲を貯めずに暮らして、楽しく生きる術に長け、女性が案外気楽に暮らして いた。その頃、女性の働き口はほとんどなく、今でいう専業主婦であり、男の働く姿も 、殆ど半裸での力仕事だった。乳飲み子に、堂々と所構わず飲み放題に乳を出したし、 女でも夏場、半裸で過ごしていた。今ほど家事も忙しくはなく、旦那の留守中にその辺 を歩いている男を引っ張り込み、若い男をナンパしたり、なんていうこともよくある事 かも知れない。だが、参勤交代の武士で、快く双方が快諾しての単身赴任であった事が 前提で、旦那の方は分かっていて好きで結婚した妻が、咎めれたら、生きていけない中 であり、家族・家督・家系は、潰される事も多々あって噂も絶え間なく流れた。従って 知らないふりで、夫婦生活を続けるパターンが多くあり、大体混浴での女の前で 竿の 長さ比べ、貝の品評会、など催していたのだから。とても変った世界といえる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/372
373: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 18:07:57.89 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・247 しかし、日本でキリスト教が解禁になる明治以降から西洋道徳となった。明治新政府 はもとより人々も又、風土的、或いは慣習的に敵視して切支丹である。明治になっても 、日本はキリスト教は厳しく禁止した。明治政府は、切支丹を敵視し、そう考えていた 。開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師も、続々と入国した。 徳川政府は勿論、それを倒した薩長の維新政府も「切支丹は御制禁」であった。しかし 、徳川政府が倒れ、明治になりキリスト教は、大きな国際的圧力として、自由信仰を求 められた。よく明治は自由信仰の印象を持たれる方も多い。がそんなことは一切ない。 見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しく禁じられていた。柳川城炎上の理由 切支丹成敗にある。多くの大学の建立は、この柳川城炎上に起因して宣教師会の運動が 幕を開けた事で変った。熊本から流行って北海道にキリスト教宣教師達の活動は降り立 つ。ほぼ、教育と地場産業活性の活動であった。西南戦争で、西郷隆盛が代表の様に、 言われるが、実は大きく違っていて、仏教弾圧打破のキリスト教勢力と、神仏烏合によ る攘夷派の神道連合の闘いであったのだ。この中に大陸浪人帰化朝鮮人、帰化支那人の 姿もある。長崎派と言う旧外国派と横浜倶楽部とシンジケート戦争を起こしていた。隠 れて見えないが、そもそも日本も藩の抑えも城内藩士が無職となり、俸禄も無くなって 大陸からの進出も多かったのだ。ただ中国からの進出とは言え、殆どが欧米人であり、 その召使いなどであった。徳川幕府は黒船交渉において、それまで何もなかった寒村で あった場所でに、居留を認めた。東京の築地にも、居留地エリアを作り、大阪、神戸、 函館、長崎に限定して住まわせた。ここに、長崎出島のの帰化人達の優位性も冒され、 いわゆる福建省や上海人が押し寄せたのだった。旧北京の皇帝下の商人達との闘いが、 日本で勃発した。入り組んだこの最初の外国諜報者は、御庭番衆との闘いが当然あった 。そして西郷隆盛は、これに巻き込まれた。と言う見方も出来る。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/373
374: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 18:08:23.87 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・248 キリスト教は江戸幕府として、無理やり開国させられる中で、日本の旧来のその政策 が守られれば、徳川政府としては何とか日本文化の一線を守れる。日本を護れるはずだ 。と踏んだ。開国しても日本人を、伴天連教の切支丹信徒にしない、そこが大事な方向 性だったのである。既に、日本は人別帳で、市役所の戸籍の様な仕組みは、神社仏閣で 行っていたし、藩主制も、そうした個人特定や戸籍や人口調査は、完全に整っていた。 問題は海外、特に米英の銃砲や大砲や、黒船の鉄船団の技術と兵器で、闘って敗ける。 と言う現実だけだった。徳川政府は、そこで苦肉の策でそういう居留地の方針を捕る。 つまり、日本は西洋のゲットーを真似て出島を作り、中国は日本の出島を真似て租界を 造った。そうして別世界を創ると、そこで諍いが起こった。つまり中国人と支那人とは 違っていたのである。江戸の徳川幕府では、関東の横浜に 大きな居留地を作った事で 従来の長崎居留民の、例えばトーマス・グラバーなどは、本社ジャーディン・マセソン 商会が横浜に出て来て、著しい不当な不利益を買うのであった。マテソン商会は末孫結 社として第二次世界大戦まで兵器・鉄・石油の主要な融通金融の保険会社の機能を持っ た。逆にかの保険が無いと兵器は買えなかった。明治初期に、フィリピンに日本の中古 銃器が現地人に贈られようとしたが、香港を出て2隻は沈められてしまったのであった 。1923年(大正12年)にやっと、陸軍学校ロシア語教授樋口艶之助が北上梅石というペン ネームで『猶太禍』(内外書房)を刊行して、同書の内容紹介を行い知られる様になり 、ヒットすると直ぐに、『マッソン結社の陰謀』は「中学教育の資料として適当なもの と認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された。樋口の翻訳を 読みキリスト教伝道者酒井勝軍が1924年(大正13年)に『猶太人の世界征略運動』『猶太 民族の大陰謀』『世界の正体と猶太人』など3冊を連続発表した、いわゆるシオン賢者 の議定書といわれるものの原本である。これは、シベリア出兵の帰還兵の持ち帰った本 を元にしていた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/374
375: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 18:08:47.52 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・249 江戸幕府は、坂本龍馬や伊藤博文の、江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館の、 焼打ちされた事件を受けて、横浜にそうした居留民地をつくったのだが、そこに移転を 決めた。これは、英国公使オールコックが、他の公使とともに幕府に公使館建物の建設 を依頼し、建設費の10分の1の 年賃貸料で借りることで合意にこぎつけ。オールコック が簡単なスケッチ図を提供し、それをもとに幕府作事方が文久2年春に建設を開始して 。12月には建物はほぼ完成し、翌年にイギリス公使館として用いられることになってい た頃の話で、文久2年12月12日(1863年1月31日)に、攘夷断行を幕府に促す勅使一行が 江戸滞在中の11月31日、高杉ら10余人は、横浜襲撃を計画した。が、一度は長州藩主の 毛利定広に説き伏せられて中止したものの、その後に、御楯組を組織し勅使らが、江戸 を離れた隙に実行したものだった。隊長に高杉晋作。副将を久坂玄瑞、火付け役井上馨 、伊藤博文、寺島忠三郎と言う錚々たるメンバーであった。ここでの、幕府は国内日本 人に向けては、切支丹は禁制という施策をして、何も変わらせない為のエリア別け施策 を置いた事での原則が、英国公使オールコックの強い交渉で守れなくなっていた一因に 全く悩んだのである。まあ、日本における最初の租界地的施策だったのだろう。しかし ここで問題になったのは、宗教観の違いで、特に、性についての違いであった。娼婦は 性交をじらすののが商売であり、妾や正妻は殿方にいつでも相手するのが勤め。として いたが、西洋は逆だったのである。また、混浴や集団性交、或いは夫婦交換など、独占 欲に飢えた西洋思想の、修道士会や、修道院や僧院のような、禁欲の性生活が一般常識 として入って来たし、それを海外からの、淋病・梅毒・疫病が同時輸入されて、大きな 社会問題化し後押しして、雑魚寝堂などの禁令ともなり西洋道徳となっていった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/375
376: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 18:09:16.15 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・250 その後、異人のキリスト教徒が沢山やって来て、自分達だけの為に教会を建てて、自分 達だけで、その宗教を祀っているのは構わない。としたまま、江戸期が終焉を遂げた。 これは明治新政府にも受け継がれ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう取り決めて 、事を図っている。キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定は続き、日本人と自由 に接触しないように計らったのである。1955年に、保守合同時の日本民主党側(岸家や 鳩山家)などの財閥がでたのは、そうした中で、友愛党ロータリクラブ運営、あるいは 硫化ゴムやゴム園運営、などで頭角を現した財閥だったが、これらの多くは明治後期。 もっと言えば、海外での農園主に日本人が台頭して、大正デモクラシーが活発になって からの事だ。昔青島幸男と言う議員は「選挙にも行かないでがたがた抜かすんじゃねぇ この野郎!!青島だぁ文句あるか!?」の極めて挑発的なフレーズを掲げて議員になったが 、佐藤栄作に対して、「もし理想的な政治資金規正法がつくられまして、これが厳密に 運用されたら、自民党政府の存立はあり得ないでしょう。そのことは誰もが知っており ます。だから、これは政治資金規正法の改正というのはできないと思います。(中略) 資本主義国家なんですから、企業からお金を集めそれを政治資金にするというのは、私 は明らかにすれば、それでいいと思うのです。できないならできない。と明確におっし ゃったほうが、一層はっきりする。その代わり、政府は、スポンサード・ガバメントで あり、総理は財界のちょうちん持ちで男メカケである。のが判明しましょう。」と述べ ている。つまり、公然と「男妾」と言う職業も昭和までは、存在していたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/376
377: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 22:49:16.46 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・251 逆に、江戸時代の性事情・夫婦生活は、家系存続が大事であった。扶持米や暖簾や、 様々な恩典がある以上、家系子供が居ない事の方で家系断絶での俸禄米や、扶持米が家 柄に来てる以上家系が次いで行くのが大事で、子供の出産は大事な事だったのである。 従って、家訓的に、姑は男子の精力の付く料理を指導して、最低でも週に3回ぐらいは 夜の務めをする様に、常々家訓としていた。と思われる。とは言うものの、女性に対し 体力が必要で、使用人も数人はいて躾が必要だった。今のように根を詰めた作業を開放 し、娯楽がないので、夜は暗くなると どうしても夜歩きする旦那を浮気させまいと、 そういう楽しみ方の基本があって、特に用向きがないと危険な外遊びは、家訓で御法度 に近かった。と言うのが現実だった。そこで、息子に店や家を預けた後の隠居暮らしや 妾住まいが当時は多かった。書物を夜読むなんて言う武士や町人はよっぽどの、高貴な 家庭か、寺でしかなかった。当時は行灯に魚油か椿油程度の生産で、かなり高価だった からだ。蝋燭も高かったので、殆どが蒔きで焚く竈や囲炉裏の明かりに頼っていたのだ 。当時の性生活で重要視されたのは、妻との回数と夜遊びの仕方だった。春画などで、 一晩に何度もこなす男女の様子が描かれているが。当時の男性がそんな絶倫だった。と いう訳ではない。と言うより、逆に精力が無かったのが普通だった。強い男性が珍しく 食事は2食、力仕事も、剣術でも、連絡だけでも歩くしかない、かなりにハードな生活 だった。生きる事が大事な世界で、そんな男性がの性事情は、夫婦生活や、性生活には 、今の様な避妊がなかった。もちろん江戸時代に、避妊具が全くなかった訳ではないが 、コンドームのようなものは一応ありましたが、舶来品で高価・しかも装着感が悪いと いった事情で基本的に性生活において避妊はしてない。何かしらの薬も体調が狂うから ほとんど普及しなかった。当時の避妊は、遊郭などでも、洗浄などの現代では効果がな い方法が一般的であり、遊郭の出産は御法度であるので、努めて遊びで、多くが、性交 を回避したのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/377
378: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 22:59:52.43 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・252 江戸時代のセックスワーカーは多く、性事情・夫婦生活は、パートナーの交換も、楽 しみの一つとして行われていた。現代での「スワッピング」である、江戸時代に、既に 存在した男色間でも、武将同士が太刀持ちを貸し借りは契約違反とされた。平和時の、 江戸期で、二組の夫婦がお互いのパートナーを交換し、行為に耽って楽むのも契約で、 現代と同じに経験したことがある人は少ない。ただ当時、さほど驚くことのない大ぴら な性生活で、元々、平安朝時代から歌垣など、乱交パーティーに近いものは、風習とし てが行われていた。集団お見合いも、同じ歌垣で、短歌で双方の、相性が合うと基本的 に声掛けし、婚姻前の夜這いの同意が成される時代だった。江戸の性文化は、古い日本 文化の夜這い文化で、この「同意」が要だった。平安から近代まで長く続いた代表的な 慣習で、これは双方の合意を以て、行われ女性主導の世界だった。女性側が「今夜行く 」ということを事前に知らされて垣根や家の戸の南京錠が開けられ、家人同意の夜這い となった。夜這いというとなんとなく無理やりなイメージがありますが、決してそうで はなかった。なので当然、女性には拒否権もあった。今と同じように、女性の意思を、 無視して強引に迫る。というと訴えられ、罰せられたり、家の中で悲鳴でも上げる物な ら、殺される運命にある。ほうほうの呈で逃げても、集落内で村八分にあったりした。 周りにいる他の人間が目を光らせて、ろくでもない男から女性を守ってくれていたのだ 。これが武家社会のみならず、宮内でも農家でも準じた習慣が多かったのだ。こうして きちんとした夜這いのシステムで合意されると、男性の元へ今度は花嫁修行に行く事に なり、男性への性指南や、未婚率の低下に役立つ習わしもあった。やっと結婚と披露宴 が行われると、芽出度く家族の一員となって、家禄や俸給の中に入る。従って小さな、 集団のこの祝宴での宴会は、正に裸の繋がりがあったのである。セックスワーカーは、 元々娼婦なのであるが、花形の花魁にでもなった者は芸者とは言え、琴に三味線、踊り に御花の華道に茶道にと、せわしく習い事を修了し。中には名取りや師匠級で、多くの 習い子を擁して生活するものもいた様だ。つまり、性交の指導員ってのも それなりの 名誉や地位のある職業だった訳である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/378
379: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 23:03:17.20 ID:5PTaqyBAo 中立のリアル・・・・・・・253 村や集落には、そうしたセックスワーカーがいて、美貌はないにしろ、ちゃんと若い 男に優しい手解きを説明や解説する。そこで年上の女性に手ほどきを受けつつ、自信を つけ、好きな女性との交際や行為に備えたりした。と言われ、夜這いの前の歌垣の主催 者っていうのも商売で、大きな集団見合いの、今の出会い系SNSの、云わば世話づき のエロ好きおばさんや坊主や神主が世話していた。名門の家系を絶やさず相談に乗った 集団社会の村を存続させて、生活基盤を確保していたのである。こうした、江戸時代の 性文化の恋愛や性事情に関して、家系や血縁制度からも、幕府や藩からも色々なマニュ アルや規制を出していた。そして、春画を 嫁入り前の娘に持たせたり見せたりして、 性教育に利用していた話もある。恋愛マニュアルや、セックスのマニュアル本も、沢山 だされ出版されて貸本の一番の売り上げとなっている。ナンパの仕方からセックス形態 まで、様々な指導書を、皆こぞってそれを参考にして、婚姻に向かっていたのである。 中には男色家や女中付きの指導書もあり、つまり今でいうホモやレズのレッスン書も、 同じ様にあった。そこには江戸時代の性文化そのものが華やかに広がっていて、経験の 豊富な、その道のプロの男性や女性がモテた世界だったということになる。当時は、男 を熟知している女性がモテて、女を熟知した男がSMの教えも取ったらしい。男性の、 理想のタイプとして、「おおらかで、一緒に性行為を楽しめる女性」がよく挙げられ、 求められた。従って、殿方の欲望に待たせはしない。旦那の欲情をじらした遊女屋女郎 とは違う。と言う誇りと信念があって、常に浴衣着の下に下着は、明治時代でも和服で は履かなかった。従ってそうした風潮の中で、高層デパート火災では、梯子すら降りれ ずに、大変な参事になったと、昭和の伝説になっている。他にも「誘いを無下に断らな い女性」なども、定番の答えで、男性にとって都合のいいように思えますが、女性の貞 操観念は、旦那に絶対服従主義だったのである。時代劇のように、か弱い女性ばかりで 冒す事は死を意味し述べた通りに、色恋沙汰は、尤も危険のあるデートとセックスであ ったのだ。男女ともにイコール人生という、性事情の時代である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/379
380: 過去ログ ★ [] [過去ログ] ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/380
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