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中世ジャップランド (34レス)
中世ジャップランド http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/
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1: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:51:04.91 ID:5PTaqyBAo 中世ジャップランドって 江戸時代 Or 戦国時代 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/1
2: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:52:28.29 ID:5PTaqyBAo 船奉行をしていた小西行長は切支丹武将であった。彼の築いた宇土城は、中世宇土城 とされ、その中心になのが「千畳敷」と呼ばれる丘である。発掘でおびただしい数の柱 の痕跡が、重なりあって残っていた。このことは、建物が何回も建てかえられたことを 示している。つまりこの千畳敷は、古墳時代前期(4世紀頃)頃から、既に 防御機能を持 った砦であり、首長の居館としても利用されていたのだ。5世紀頃には古墳が造られた 形跡も出たここで、中世宇土城の築城はなされた。1048年(治承3年)城主だった宇土氏 は、その後名和氏などに度々代わっても居城とした。最終的には、1588年(天正16年)に 、宇土17.5万石の大名として入国した小西行長が、西岡台の東に隣接する通称「城山」 に新城(近世宇土城)を建設した時点で、長い間の続いた城としての役目を終え庭になっ た。現在、国の史跡に指定され、歴史公園としての整備が進められている。中世宇土城 の東隣(城山)に出来たこの新城は、本丸・二の丸・三の丸という三つの郭を外堀と内堀 で取り囲む重厚な構成にし、特に本丸は三層の天守閣があったと伝えられ、堅い防御が なされていた。こうして、近世宇土城は小西行長によって築かれ始めたが、1600年に、 小西が没し、小西領も併合して肥後の領主となった加藤清正により大改修がなされた。 現在、僅かに残っている石垣は、清正によって改修された時期のものと思われている。 小西が築き、加藤の大改修によって完成したと思われる宇土城ですが、清正の死後には 一国一城制度で、廃城となった。熊本城にある三層の「小天守」の建築にあたっては、 宇土城天守閣を移設したという説があります。また、1637年にキリシタンと農民による 「天草島原の乱」が起こると、廃城となって放置されていた宇土城は再度、破壊された 。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/2
3: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:53:53.25 ID:5PTaqyBAo この時、城の名残すら留めないように徹底的に破壊された理由は、もともと小西行長 の城下であったために、キリシタンが多く、島原半島の原城のように「一揆が起こった 場合の拠点」になった為だ。この頃、メキシコなどのスペイン植民地では、1503年から 人口減少による鉱山の鉱山夫の不足に悩み、エンコミエンダ制と言う募集鉱夫によって 現地のインディオを、労働力とすることが行われていた。これは入植者に対し、現地人 をキリスト教化し代償として現地人に労役に従事させる制度であって、事実上の強制的 労働が可能な制度である。そこでは宣教師ラス=カサスのように、非人道的にインディ オ人口の減少を更ににつなげた。エンコミエンダ制で認められた入植者エンコンメンデ ロが私腹を肥やし、王室の統制に服さないでいたからだ。本国のスペイン王室は、制度 を廃止し、農園や鉱山の直接管理することを目指していたが、ここで有力なポトシ銀山 が稼動し急速に増産が望まれると、インディオの1割に限っての、銀山労働を認めた。 しかし、現実は労働力の不足を補うため、1549〜50年にかけてポトシは銀ブームにわき 、総督ラ=ガスカはエンコンメンデロに対し各国から海を越えて奴隷を集め、鉱山夫を 集めた。制度は死文となり、実際には約5000人のインディオが(家族を併せ2万5千人 )がポトシに送り込まれた。全てが強制労働ではないが、ほとんどはケンコンメンデロ に恣意的に使役された。この銀は太平洋航路で、中国で多く使われ、中国の高給茶葉が 買われ、その茶葉が英国の植民地のインドや米国に行き、英国の台所事情が苦しんで、 スペインに大きな富をもたらして行く。中国では、宣教師がもたらす交易事情で物価は 上がり続け、又、日本に銅を売っていた関係で、税は銀貨による収納としていた。悪貨 で粗雑なメキシコ銀貨だったが、本国スペインより価値があったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/3
4: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:54:38.66 ID:5PTaqyBAo 、尾張藩の廻船「督乗丸」の漂流について述べられたが、実は、かなり江戸時代には、 多くの千石船が漂流している。理由は幾つかある。一つは、鎖国政策によって遠海航海 できる様な大型船の、建造が禁止されたからだ。沿岸航路の船、小型船しか、建造され なかったために、嵐に会うと簡単に難破、漂流したのである。二つ目は江戸期は、庶民 生活では平安な鎖国時代だったが、自然界では、丁度運悪く、地震や火山活動、天候の 変化のあって、地球活動期とされる最も地震があり作物不作の時代だった。従って享保 の津波や天保の飢饉など、各地に起ったのである。三つ目に、漂流の原因に、千石船の 構造自体に、大きな欠陥があった事だ。日本にアスファルト、瀝青などは、取れてはい たが、出回っていない。少量が摺り版の絵の具に利用されるぐらいで、高額であり知名 度もなく、船に使われる事はなかった。従って甲板や側板が水密性がないままであった 。そのため船は浮くのがやっとであり、大波を被ると船内が水浸しとなり簡単に水船に なった。更に、二つは船底に隔壁がなく、竜骨も貧弱だったことだ。隔壁がなく浸水の 水は、船内を自由に移動した。そのため、安定性に欠けて、沈没しだすと、より可能性 を高めた。三つ目は船の、楫(しゅう)が固定されていないため、楫が簡単に破損した 。楫(しゅう)とは、舟の櫂(かぢ)とあるが、櫂(かじ)は、オールとして長く大きい物 で、「六上にをむる以(ゆゑん)なり」といわれ。長くしなるようなものを櫂、短くて、 しならない数しげく動かして榜(こ)ぐものを楫(しゅう)という。特に日本の場合は、 数人が座って並んで櫂(かい)を漕ぐ式の船は鹿児島や長崎・沖縄でしか発達してない 。逆に立って櫓と言われる「ぺら」を掻いて前に進む式の、云わば、突然の武士との、 戦いにも使える様な強い削り丸太を、推進用の櫓にしていたのである。日本が海という ものに乗り出した時、海流に乗って行く中で舵取るのみで、推進器はまだ無く、人力で 櫂(かい)と櫓(ろ)という2種類の細長い道具で、小さな帆を使って空を見ながら航海を していたのであって、海よりは川面の方が多かった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/4
5: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:56:46.12 ID:5PTaqyBAo そのため、多くの船が難破し、海難事故が発生した。江戸時代のおもな漂流は下記の とおり。(資料 「日本漂流記」 川合彦充著) @ 尾張国知多郡大野村(愛知県常滑市大野)の権田孫左衛門船(15人乗り 沖船頭 次郎兵衛)寛文8年(1669年) 11月5日、三河渥美半島大山沖で漂流。12月6日パタ ン島に漂着。3人死亡。内1人は現地 残り、11人が手作りの船で清国を経由、 寛文10年6月24日に長崎に帰還。 A 阿波国海部郡浅川浦(徳島県海部郡海南町浅川浦)の勘右衛門船(7人乗り 船頭 勘右衛門)寛文9年(1669年)12月6日、志摩半島安乗沖で漂流。1670 年2月20日小笠原諸島 母島に漂着。船頭勘右衛門死亡。6人は小船で八丈島を 経由して、1670年5月7日伊豆半島洲崎に帰還。 B 伊勢国松坂(三重県松坂市)の七郎兵衛船(15人乗り 船頭 七郎兵衛) 寛文 12年(1672年)12月24日遠州灘で漂流。1673年7月5日エトロフ島 に漂着。全員がクナシリ島、十勝、松前経由して、9月8日江戸に帰還。 C 伊勢国度会郡神社村(三重県伊勢市神社)の太兵衛船(12人乗り 直船頭太兵衛 )貞亨元年(1684年)12月26日、三河渥美半島大山沖で漂流。1685年 2月5日マカオ島近くの小島に漂着。1685年6月2日サン・パウロ号にて長崎 に帰還。 D 伊勢国白子村(三重県鈴鹿市白子)の彦兵衛船 神昌丸(17人乗り 沖船頭大黒 屋光太夫)天明2年(1782年)12月13日、駿河沖で漂流。1783年7月 20日、アリューシャン列島アムトチカ島に漂着。ロシア、イルクーツクに到着も 、13名が死亡、庄蔵、新蔵が残留する。光太夫、磯吉2名は根室経由で、179 3年9月15日江戸に帰還。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/5
6: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/10(火) 10:57:10.45 ID:5PTaqyBAo E 尾張国知多郡小野浦(愛知県知多郡美浜町小野浦)の樋口源六船、宝順丸(14人 乗り)天保3年(1832年)10月11日、遠州灘で漂流。11人が漂流中に、 死亡。岩吉、久吉、音吉3人が1833年末、北アメリカのワシントン植民地フラ ッタリ岬付近に漂着。ハワイ、ロンドンを経由してマカオにて肥後船の漂流者圧蔵 ら4人と合流。アメリカ商船 モリソン号で送還されたが、東京湾で砲撃を受け、 帰国を断念。7人はマカオ、香港、上海に居住して異国で通訳をしながら一生を送 った。 F 三州高浜(愛知県碧海郡高浜町)の栄三郎船 竹久丸(15人乗り 直船頭栄三郎 )嘉永3年(1850年)1月8日青ヶ島に漂着。4月16日八丈島に到着。漂流 船の母港は江戸から西の太平洋沿岸の地域が多い。紀州伊勢、尾張知多地域は船乗 りの最大の供給地であり、江戸と大坂を結ぶ重要ルートである南海路の菱垣廻船が 多く行き来していたためである。遭難すると一気に黒潮に乗り、日本から離れてし まうためである。 日本人漂流記研究の基礎を築いた川合彦充氏によると、江戸時代の漂流民の漂着先は 下記の通りである。八丈島199件、青ケ島12件、鳥島11件、小笠原諸島2件、南 太平洋のパラオ諸島7件、琉球5件、朝鮮33件、中国44件、台湾6件、バタン諸島 4件、フィリピン13件、香港1件、マカオ2件、ミンダナオ島1件、ベトナム3件、 沿海州5件、樺太1件、千島列島4件、カムチャッカ半島4件、アリューシャン列島4 件、アラスカ1件、カナダ1件、北アメリカ5件、ハワイ諸島1件、最も遠いのは、南 アメリカペルー1件となっている。当時の千石船は、本土沿岸部の輸送が、中心である 。遠距離輸送を想定していなかった。そのため、帆も一枚帆がほとんどで沿岸沿いから 離れることは少なく運行してた。遭難の時期は冬の12月から2月に集中していた。冬の 時期は本土の山を越えた北西の風が吹き、太平洋に流されやすいからである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1725933064/6
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