消えゆく「死者との交信」 青森のイタコを訪ねて [無断転載禁止]©bbspink.com [905356877] (11レス)
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10: 2023/06/17(土)22:47 ID:1WZCg5Ey0(1) AAS
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特集/スピリチュアリティと平和
戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観
南山宗教文化研究所所員??大谷?栄一
…そして、国立戒壇についてですが、戦後に創価学会二代会長の戸田城聖が「国
立戒壇による王仏冥合の実現をめざす」と言って折伏大行進をしたわけです。
この「国立戒壇」という言葉自体、田中智学が作った言葉です。さらに政治に
進出するというスタイルは国柱会のスタイルにならっているわけです。智学自
身が立憲養正会という政党を設立し、1924 年(大正 13 年)に衆議院議員選挙に立候補しています。
しかし、落選をして、その後、智学自身は政治進出を諦めて会を次男の田中澤二に譲ります。立憲養正会を引き継いだ澤二が、右翼的な革新運動を行っています。この団体は 1942 年(昭和 17 年)に政府によって結社不許可処分を受け、解散に追い込まれています。
このように、智学自らも政治に関わっていることから、田中智学の日蓮主義運動は、まさに戦後の創価学会のさきがけとして位置づけることができるのではないかと思います。
ここで、今日のテーマである日蓮主義の戦争観に注目し、戦争に関連づけて
言うと、田中智学や本多日生自身の主張、また、二人に影響を受けた日蓮教団
や日蓮主義者たちの主張は、特に 1900 年代初頭の日露戦争以降における日本
国家の対外侵略の動向と平行して、それとかなりリンクして段々と広がってい
くということになります。
そして、日本が関わった戦争を正戦として積極的に正当化をし、その戦争との関わりの中で公的な役割を果たしていくという特徴があります。日蓮主義と戦争との関わりで一番顕著な例が、石原莞爾です。
満州事変の主導者とされております石原も国柱会の熱心な会員でした(ただし、後には独自の信仰を打ち立てています)。石原は、日蓮主義の理念に基いてアジアとの関わりを実践していきます…
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