[過去ログ] 【四代目山口組】山一抗争part59【一和会】 (1002レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
6: 2024/10/20(日)12:00 ID:0(6/991) AAS
1984年6月、山口組四代目跡目問題で山本広擁立に関わった側が、竹中正久四代目継承を機に山口組を脱退。山本広を会長として一和会を結成。
代紋は鎖に二つ組み巴とし、鎖の数は22で当初一和会に参画予定であった山口組の直参組長の人数であるといわれている。
分裂当初は7000人の勢力があり、6000人の山口組より数の上で優勢だったが、山口組側の切り崩しによって次第に劣勢に立たされていった。
竹中正久四代目の攻撃を前に一和会は徐々に弱体化したが、密かに竹中正久暗殺を計画。
同年9月には暗殺部隊を結成し、竹中正久行きつけのマンションに部屋を借りるなど周到な準備を行った。
1985年1月26日、一和会常任理事・悟道連合会会長・石川裕雄が指揮し、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美、田辺豊記、立花和夫により、収監前の竹中正久を襲撃した。
神戸の山口組新本部の上棟式後、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で竹中正久を銃撃。
四代目山口組組長・竹中正久、山口組若頭・豪友会会長の中山勝正、警護役の南組組長・南力が銃撃され、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
これで山口組からの激しい報復を招くことになる。山口組と一和会の抗争(山一抗争)の長期化で勢力は激減した。
1988年5月、一和会副会長兼理事長・加茂田重政が引退、加茂田組を解散した。
省4
1-
あと 996 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.329s