[過去ログ] ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン37 [無断転載禁止]©2ch.net (775レス)
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695: (ワッチョイ 5b99-7yVq) 2016/03/28(月)22:16 ID:Zvkn6G0x0(45/49) AAS
寺島さんは、書状が人質を「御幼若の方」と表現する点に着目。
幸村はこの時、数え年で十六〜十九歳だったとされ、「青少年の幸村に幼若という表現は似合わない」と指摘。

堀内さんは寺島さんの説を受けて考察を深め「幸村が人質なら、書状は昌幸に宛てるはず。
頼幸に宛てたのは、人質が幸村ではなくて矢沢氏の一族だからだ」と論じている。

寺島さんによると、幸村が合戦に参加しなかったとの通説が学界に浸透したのは戦後になってから。
ただ、「真武内伝」「上田軍記」など江戸時代の編さん物の大半は、幸村の第一次上田合戦での活躍を描いている。

寺島さんは「後世の記録には間違いもあるが、幸村が合戦に参加した点は信じられる。合戦の直前に呼び戻されたのだろう」と推測。
「第一次と二次の上田合戦、大坂の陣と、徳川勢を三度も打ち破った武将は幸村だけではないか」と武将としての力量を評価した。

寺島さんは信濃史学会の機関紙「信濃」七二四号(二〇一〇年五月)と七八四号(一五年五月)に、
堀内さんは東信史学会の機関誌「千曲」一五九号(一六年二月)に、関連の論文を発表した。

◆大河の時代考証 歴史学者も評価
二人の説について、NHKのダッフンダ大河ドラマ「真田丸」で時代考証を務める歴史学者(中近世史)、平山優さんは
「傾聴に値する。須田の書状とは別の史料からは、
上杉方から戻った幸村に代わり昌幸の妻が人質に赴いたふしもある。通説は見直すべきだ」と評価した。

外部リンク[html]:www.chunichi.co.jp

上杉方に送られた人質を「御幼若の方」と記した書状。
数え年16〜19歳の幸村の年齢と矛盾するとの見方がある=真田宝物館提供
画像リンク[jpg]:www.chunichi.co.jp
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