邪馬台国、狗奴国、大和朝廷 [転載禁止]©2ch.net (285レス)
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250: 出土地不明 [] 2024/07/03(水) 01:56:37.02 ID:30XimgwO 裴が隋皇帝の親書を奉呈したのは推古朝廷だから、その都が飛鳥にあり、また河内には難波の宮もあったのだから、そこに行ったのは事実だろう。 そして、問題なのは、裴も隋皇帝も、その推古朝廷が3世紀の倭王卑弥呼の王統を引き継ぐ王権だと思い込んでいたこと。 その思い込みに沿って隋書は書かれているから、隋書を読む者は皆、卑弥呼の都の邪馬台国は大和だったと信じ込んでしまうわけ。 しかし、魏略を読めばすぐ分かるが、その冒頭で、倭国の東の海を千余里行けばまた別の国があり、この国の住人も倭人と同種である、と書いてある。 この時代の1里は中国では約400mだが、1000里である400kmを地図上で求めれば、瀬戸内海の行橋から河内・奈良あたりまでがちょうどその距離になる。 つまり、大和は北部九州の倭国とは別の国だと、魏略が倭伝の冒頭で書いていることになる。 ちなみに、この倭国を河内・大和に当てはめて、その千里東の別の国は今の千葉県あたりにあるとすることも可能だが、そうすると、大和の倭王武が宋皇帝に奏上した文ではアルプスから東は毛人の国だと書いてあるので千葉あたりのその国の種族は倭人とは異種族と認識されていたことからして、魏略が言う「同じ倭種」だとする認識に当てはまらないことになる。 魏略の倭国を河内・大和に当てはめることは、無理ということ。 このことは、魏氏倭人伝でも同じで、倭国の東千里にあるのは同じ倭種の国であるとしており、この地理観は邪馬台国=大和には当てはまらないわけだ。 どうあがいても、邪馬台国大和説は、無理。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1418106594/250
251: 出土地不明 [] 2024/07/03(水) 14:42:55.44 ID:30XimgwO いずれにしても、邪馬台国は北部九州にあり、具体的には八女・山門がその邪馬台国に当たる地方であることは動かない。 そして、邪馬台国の北部に避難して急死した卑弥呼の墓は、祇園山古墳の土台部分の円墳。 祇園山古墳の裾あたりで出土した甕棺の制作年代は、それが西新式であることから卑弥呼の時代とすることができるので、祇園山が卑弥呼の墓であることの可能性は非常に高いと言える。 なお、この祇園山は削られた山塊であることが分かっているが、その底部の東西幅は山門の権現塚古墳のそれと一致する。 山門の権現塚古墳は卑弥呼の寿陵として造営された古墳と考えることができるが、菊池の勢力に攻め込まれて卑弥呼が邪馬台国北部へ避難して急死したことから卑弥呼をそこに葬ることができなかった古墳だ。 新たに山を削って造られた祇園山古墳の規模が、権現塚古墳と同じであるのはそのためである。 邪馬台国は八女・山門地方であり、卑弥呼の墓は祇園山古墳の土台部分であるのは、ほぼ間違いない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1418106594/251
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