邪馬台国、狗奴国、大和朝廷 [転載禁止]©2ch.net (282レス)
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1(2): 2014/12/09(火)15:29 ID:mvieXRh/(1/2) AAS
邪馬台国は九州北部にあって卑弥呼が治めていた。南の方から襲撃してくる集団があり、熊のような風貌から熊襲と言われた。彼らが出てくる所だから熊本。
これに対応する為に周りの国と同盟を組み、襲ってきたらみんなで応戦する、今で言う集団的自衛権。
それでも熊襲らの襲撃が治まらない。実はここが狗奴国と言われてるヒミココという男が治めてた国。
263(1): 08/01(木)15:19 ID:Hwg289w7(1) AAS
まあ、重要なのは、当時の列島最大の纏向型前方後円墳が立て続けに造営された3世紀前半の大和磯城の政体の機構がいかなるものであったのか考えることだね。
倭人伝に記される邪馬台国という完成形の政体をこの大和磯城の政体に当てはめてこの時代の歴史を考えると、大きな誤解に陥ってしまうように思う。
3世紀前半に大和に突如として大きな政体が形成された理由を考える上で、「邪馬台国」は躓きの石となっているように見える。
日本書紀が記しているこの時代についての研究者の「誤読」は、「邪馬台国」という眼鏡を掛けて見ることから生まれている部分が大きいと思うね。
264(2): 08/09(金)02:23 ID:HlP7Cw6u(1) AAS
まあ、ホケノ山古墳は、大和で最初の鉄器副葬古墳であることは間違いない。
ということは、それまでは、大和には鉄器はもたらされていなかったということになる。
ホケノ山古墳の被葬者は、副葬された鉄器をどこで手当てしたのだろうか、ということやね。
265(1): 08/15(木)15:26 ID:LaaYPkYp(1) AAS
>>263
いたく同意。
奈良盆地に邪馬台国があったと執拗に考える研究者は、研究費捻出という下心があるからとも思える
266: 09/06(金)00:24 ID:Yf1BbYmU(1/2) AAS
邪馬台国大和説の根拠が、まったくはっきりしない。
思い込みに過ぎんということやね。
267: 09/06(金)23:50 ID:Yf1BbYmU(2/2) AAS
しかし、最近はさすがに、大和邪馬台国説を言う研究者は少し抜けてる人という感じがするようになったね。
268(1): 09/07(土)06:27 ID:Ohdx6WrC(1) AAS
>>264
今のところ淡路島を想定するしかないのでは
弥生時代から鉄工房があったのが確認されたので
副葬されるようなものは他所から来た可能性も高いわけですが
269(1): 09/07(土)15:21 ID:MRFGgJQf(1) AAS
淡路の鉄器工房跡は舟木、五斗長垣内ともに弥生後期の工房で、弥生終末期には稼働していなかったから、ホケノ山古墳の副葬鉄器の入手先としては考えにくいけどね。
この弥生終末期の末頃の九州の博多で河内の土器が出土しているので、博多から鉄器が大和にもたらされていたと考えるのがよいと思うわ。
270: 09/08(日)11:48 ID:erotQjpC(1/2) AAS
ていうか逆に九州説の人はどうやって日本の統一政権が日本列島の西の果ての九州にあったと思ってるの?中国からわざわざ調査に来て九州だけ来て、本州中心部や関東の事を書かずに帰ったの思うのか?
271: 09/08(日)11:48 ID:erotQjpC(2/2) AAS
九州から東日本を統治できるわけがねーだろ
272: 09/09(月)09:26 ID:gdSobv5w(1) AAS
大和はホント不思議な地域で
弥生時代にしてもオオヤマト古墳時代にしても
鉄の匂いが余りしない地域
弥生時代は淡路が東瀬戸内海を封鎖して独占してたと思う
それが漢の武帝の朝鮮征服以降は徐々に供給が止まった
その後大和への供給は復活したけど瀬戸内海経由じゃなくて
日本海経由になった可能性が高い
雄略が吉備を屈服させてまた瀬戸内海経由になったのではないか
金属は重いから船運が一般的なのに
高句麗は馬で運んだ!ととわざわざ漢書に書いてある
省2
273: 09/09(月)20:45 ID:GNgDzF0W(1) AAS
その大和の西隣の大阪では、少ないながらも鉄器が出土している。
丹後や但馬からのルートでもたらされたようだ。
鉄器がみられないのは、近江、大和、尾張の三角地帯。
なんかしら、意図的な鉄器封鎖がなされていたのではないかと思うわ。
274: 09/09(月)21:41 ID:lY5ulzlB(1) AAS
古墳時代に大和朝廷の招きで大勢の三韓人が畿内や滋賀に住み着いている
275(1): 09/10(火)16:08 ID:pjK58Ydt(1) AAS
近江の場合、弥生後期には、レンガや大壁建物が見られる。
早い時期から大陸系の渡来があったようだ。
宗像あたりから山陽道を通って山城、近江へとつながる幹線があったフシがある。
大和の唐古・鍵遺跡では弥生中期末から後期初頭にかけて青銅器鋳造工房があらわれ、近江では後期の下鈎遺跡で青銅器鋳造工房が現れる。
これらの青銅器鋳造工房の出現と大陸系の渡来者の存在は関連があるのではないか。
また、近江の場合は、三上山の天之御影神が火の神に同定されるのも、こうした青銅器鋳造炉が現れたことと軌を一にすると思われる。
276(1): 09/10(火)17:54 ID:BCQ91zde(1) AAS
滋賀は栗東で弥生前期から集落から鉄が出てる
古墳とかじゃなくて
栗東のある琵琶湖南端東岸は農地として非常に良いところ
野洲川の扇状地で灌漑がしやすい
北部東岸の米原と長浜、中区西岸の高島も農地によい
米原(坂田)と高島は後の継体天皇の本拠地
坂田は美濃尾張への入口(関ヶ原経由)
長浜は日本海敦賀美浜への峠道、美濃尾張にも行ける
高島は日本海小浜と若狭への峠道があったと思われる
277(2): 09/11(水)13:49 ID:ABCH896w(1) AAS
これじゃないのか。
外部リンク:www.shiga-bunkazai.jp
弥生前期の栗東で鉄が出るというのは、にわかに信じがたいが。
278: 09/12(木)16:47 ID:i31vV9ad(1) AAS
>>276
確かに、滋賀県では、弥生前期に服部遺跡の水田が開かれる。
これは、奈良県御所市の中西遺跡の水田がひらかれるまで列島随一の規模の水田だったらしい。
野洲川流域は、水田の稲作が極めて活発だったようだ。
また、琵琶湖東岸の集落では、弥生中期に勾玉が造られていた。
後期に入ると、この勾玉造りは山陰の鉄器を用いた定形型の勾玉にシェアを奪われて衰退するが、それまでは勾玉造りの拠点であった。
つまり、近江や大和、尾張に鉄器が入らなかったことと、山陰での鉄器を使った勾玉造りの活況とは、軌を一にしたことなのではないかというわけ。
封鎖されていたと考えるゆえんやな。
279: 09/16(月)03:38 ID:YNWW1N3d(1) AAS
弥生時代の三種の神器は総て福岡、佐賀、壱岐のお墓の副葬品として出土しているので
一番多く出土した伊都国から大和朝廷は始まったと考えるのが正解
280: 09/16(月)06:03 ID:c8btzTll(1/2) AAS
>>277
書き間違えました
古墳時代前期です
281: 09/16(月)06:18 ID:96jbm584(1) AAS
製鉄技術と継体政権の関係は
>古代王権と近江の鉄-継体朝から仲麻呂政権まで
が面白い
継体在位中の近江での製鉄(鉄の生産)遺跡は見つかってないらしいが
282: 09/16(月)06:30 ID:c8btzTll(2/2) AAS
時代が早い時期だけ簡単に要約
朝鮮半島では一世紀の製鉄が確認されてる
日本は吉備の千引カナクロ谷製鉄遺跡や西祖山方前遺跡が最古
製鉄炉の型が安定しておらず試行錯誤の時代
6世紀中頃から8世紀までこの地の製鉄は続く
今の所朝鮮半島の技術がそのまま移転したのではなくて
断片的な情報や技術から独自の製鉄炉を模索した可能性が高い
近江は継体天皇没後と思われるものしかまだ見つかってない
欽明天皇が蘇我稲目を派遣して吉備に白猪屯倉を作る(AC555製鉄を管理か)
その後西日本で一気に製鉄が始まる
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