神武東征=コリアン・コンクエスト (263レス)
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: 2023/06/23(金)01:11
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246: [sage] 2023/06/23(金) 01:11:06.07 ID:0sGCXaMe 昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。発掘に携わった山崎純男は、これを「縄文水田」と、断言した(森岡秀人・中園聡・設楽博己『先史日本を復元する4 稲作伝来』岩波書店)。 水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。 水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。水田のあとには、人の足跡が残されていて、福岡県警の鑑識も協力し、身長164センチという、当時にしては高身長だったこともわかった。縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら、新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる。 ちなみに、遺跡のある「板付」は、福岡空港のすぐ脇で、かつてこの空港は板付空港とも呼ばれていた。それはともかく、夜臼式土器は、刻目をもつ突帯文土器で、縄文土器の伝統を継承していた。 興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付Ⅰ式土器が発見されていたこと、その後北部九州では、夜臼式土器と板付Ⅰ式土器がともに出土する例が多かったが、板付Ⅰ式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。 考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付Ⅰ式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。 一方、昭和54年(1979)に、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で夜臼式土器よりも古い、山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだ(ちなみに、その後、この水田が夜臼・板付Ⅰ式まで時代が下ると、報告は変更されるのだが)。また、弥生時代前期と見なされていた石器が、出土していた。 昭和55年(1980)には、曲田遺跡(福岡県糸島郡二丈町)の住居跡から、夜臼式土器よりも古い突帯文土器(曲り田式)と共に、大陸系の磨製石器だけではなく、なんと鉄器まで埋まっていたのだ。 縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。 北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。 この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1605966986/246
昭和年から翌年に板付遺跡福岡県福岡市の調査が行われ弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から水田遺構と木製の鍬石製の穂積具石包丁炭化したコメジャポニカがみつかった明らかに縄文人が水田稲作をやっているというそれまでの常識では考えられない事態にみな戸惑ったのである発掘に携わった山崎純男はこれを縄文水田と断言した森岡秀人中園聡設楽博己先史日本を復元する 稲作伝来岩波書店 水田遺構は幹線水路井堰出水路排水路畦畔などしっかりとしたものだった 水田から水が流れ落ち下の段の水田に水を供給するシステムまですでに登場していたのだ水田のあとには人の足跡が残されていて福岡県警の鑑識も協力し身長センチという当時にしては高身長だったこともわかった縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる ちなみに遺跡のある板付は福岡空港のすぐ脇でかつてこの空港は板付空港とも呼ばれていたそれはともかく夜臼式土器は刻目をもつ突帯文土器で縄文土器の伝統を継承していた 興味深いのは戦後すぐ板付遺跡で板付式土器が発見されていたことその後北部九州では夜臼式土器と板付式土器がともに出土する例が多かったが板付式土器は遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ遠賀川式土器といえば弥生前期を代表する土器である 考古学者はこう判断した夜臼式土器は縄文時代の終わりに板付式土器は弥生時代の始まりに作られたというのだつまり板付遺跡は縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか 一方昭和年に菜畑遺跡佐賀県唐津市で夜臼式土器よりも古い山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだちなみにその後この水田が夜臼板付式まで時代が下ると報告は変更されるのだがまた弥生時代前期と見なされていた石器が出土していた 昭和年には曲田遺跡福岡県糸島郡二丈町の住居跡から夜臼式土器よりも古い突帯文土器曲り田式と共に大陸系の磨製石器だけではなくなんと鉄器まで埋まっていたのだ 縄文晩期から弥生時代中期にかけて日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた山市の東三洞貝塚から九州の縄文土器が大量に発見されてもいる 北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは弥生時代前期後半ごろだしかもその規模はわずかで先住の民の集落の片隅に渡来系の人びとが肩を寄せ合って暮らしていたイメージだそしてその後集落の人びとと融合し同化していったのである この結果縄文時代晩期末と弥生時代前期が交錯してくることがわかってきたのだ縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ次第に朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた
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