[過去ログ] ソ連の対独戦勝は米英のレンドリースと戦略爆撃のお陰? (969レス)
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420: だつお ◆t0moyVbEXw 2015/07/04(土)10:09 ID:NtjcV6hX(1/5) AAS
>>419
>ソ連軍は歩兵戦力が枯渇するから無理
歩兵戦力が枯渇していたのは、ソ連ではなくてドイツ。
>>2
>第709師団の平均年齢36歳。対するアメリカの歩兵は平均年齢25歳
「米国が中立を維持していれば、ヨーロッパ戦線がはるかに長引き英国とソ連にさらなる
被害をもたらしただろう。両国が何とか自力でナチスを破っていれば、ソ連軍はドーバー
海峡に到達して西ヨーロッパを支配し、東ヨーロッパとロシアと中国の経済を共産主義体制
で硬直化させたように、西ヨーロッパを経済的に不毛の地に変えていたであろう。」
>実はこのルート、米英からソ連に渡った補給物資の半分以上が使ったとも言われているそうだ。
省8
421: だつお ◆t0moyVbEXw 2015/07/04(土)10:37 ID:NtjcV6hX(2/5) AAS
>>419
>ソ連軍は歩兵戦力が枯渇するから無理
ノルマンディ上陸作戦が無ければ、ヨーロッパの戦争はあと一年くらいは先延ばしになり、
かつ赤軍はあと500万くらい死んで、西ドイツもオーストリアもソ連圏に入っただろう。
1946年3月にソ連邦元帥ゲオルギー・ジューコフはソ連地上軍の司令官となったが、
7月にはイワン・コーネフに変えられ、この状態が1950年まで続き、その後ソ連地上軍
司令官の地位は5年間にわたって廃止された。この組織の断絶は「おそらく朝鮮戦争に
何らかの関連があったのではないか」とされている[3]。1945年から1948年にかけて、
動員解除によってソ連軍は1130万人から280万人に減らされ[4]、1946年には33に増加していた
軍管区が21に減らされた[5]。また、地上軍は982万2000人から244万4000人に人員を減らした[2]。
省4
423: だつお ◆t0moyVbEXw 2015/07/04(土)15:42 ID:NtjcV6hX(3/5) AAS
>>422
>ソ連の歩兵師団は44年時点で定数の2割程度に激減してたから
東部では中央軍団の破局的消滅はほとんど完全だった。一九四四年七月六日の正午の会議で、
総統は北方軍団に撤退を命じることで、そこから四個師団引き出せるとのモーデルの見解を再び拒否し、
救えると思うのは幻想にすぎない、どういうことが起るかといえば、軍団は要塞化陣地と重砲と装備を
失うということだといった。ホイジンガーの方を向いてヒトラーは、この災厄でこれまで中央軍団にどれだけ
損害があったか、静かに訊ね、「一二から一五師団が包囲されていますが、全般的損害は二八個師団
に上るでしょう」と告げられた。
なんと二八個師団である。六月二二日以降わずか二週間で、ヒトラーは三五万の訓練済みのドイツ兵
をロシア側に奪われたのだった。
省1
424: だつお ◆t0moyVbEXw 2015/07/04(土)18:47 ID:NtjcV6hX(4/5) AAS
ドイツ打倒優先で対日戦はオマケだって?
ああ。そういうことなら日本としては中国のチンピラゴロツキ討伐に専念できるなwww
上記の?介石の講話は、ドイツの地位の上昇に基づいて、対独関係の改善と強化を主
張した一方で、全般においては、英米仏らに対する既定の路線の維持を再確認し、かつ
それを対独関係の前提としたのであった。こうした?介石の指示により、7 月 6 日、5
期 7 中全会は「国際情勢激変下の外交方針」として、
?日本のみを敵とし、日本以外のすべての国に対しては友好の増進と対立の減少を
根本とする。太平洋と密接な関係にある国と連合し、九カ国条約を擁護し、太平洋の情勢を安定化させる。
?欧州戦争に中立する米ソに対しては一貫した方針に基づき相互協力の強化に努力する。
?英仏に対しては固有の関係の維持に尽力する。
省7
425: だつお ◆t0moyVbEXw 2015/07/04(土)20:56 ID:NtjcV6hX(5/5) AAS
民族浄化は、闘争心に最もよく現れるが、世界の他の部分と同じようにヨーロッパで
も見られる。(ヒトラーの考えでは)ドイツ/アーリア人種の特性はボルシェビズムや民
主主義を通じたユダヤ人の侵入によって脅かされており、同様に人種的脅威にさらされ
ているイギリスとは協力できたし、そうすべきだった。ヒトラーは戦争中も依然として
イギリスに感服しており、連合王国がインドを含む世界的帝国を支配下に収めることを
可能にした人種的中核を賛美していた。そのため、特に日印関係については、「白人」つ
まりコーカサス人種であるイギリス人の支配への賛美と、「有色人種」日本との同盟の間
で振り子のように振れていた。1942 年 2 月のシンガポール陥落の後の個人的発言の記録
によれば、日本の支配を目にするよりも、戦時の敵国であるイギリスに 20 個師団を送る
方がどちらかというと好ましかったろうと述べており、これがヒトラーの態度をよく表
省5
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