[過去ログ] 【エセ癌患者の】小島一志 動画収益267円【作り話】 (1002レス)
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694: 2021/11/26(金)17:38 ID:OWlubeaw0(1/6) AAS
小島一志先生名言集
「僕が三島由紀夫先生にお会いしたのは9歳の時でした。僕の父は政商、いわゆるフィクサーをしておりましたが文壇やジャーナリズムの世界にも人脈があったのでその関係でお会いできたのです。
当時の僕は父の跡を継ぐのか、それとも筆一本で生きていくのか、どうすれば良いのか迷いながらそれでも必死に机に向かい文章を書き続けていました。
今思うと恥ずかしさで顔から火が出るような思いになりますが、僕は三島先生とお会いした場でその自分の拙い文章を差し出し、感想を頂きたいと懇願するという無礼極まりない事をしたのです。
このような場合多くの作家は適当に読み流して社交辞令を言っておしまいにするでしょう。ですが三島先生は違いました。
何度も何度も僕の稚拙な文章を読み返した上で、『良い文章だがインプットの対象が日本文学に偏りすぎている。海外にも素晴らしい作家はいる。そちらも読んで自分の文章の幅を広げなさい』と仰ってくれました。
それからと言うもの、僕はロシア文学、英米文学、ラテンアメリカ文学等を貪るように読むようになりました。
そして一年後に偶々三島先生にお会いした時、再度文章を見て頂いた所、先生は優しく笑い『僕が処女作の花ざかりの森を書いたのは16歳の時だった。でも一志君には抜かれちゃうかもな』と行ってくださり、愛用されていた万年筆をくださいました。
三島先生が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で決起を促し、自決をされたのはその三週間後でした。今にして思えば三島先生は僕と会うのが最後である事を考え、形見としてはなむけの言葉と万年筆を下さったのだと思います。
毎年、十一月のこの時期になるとたった2回お会いしただけなのに僕の人生に多大な影響を与え、導いて下さった三島先生の事を思い返し、ただ、感謝をするのです。」
697: 2021/11/26(金)17:58 ID:OWlubeaw0(2/6) AAS
小島一志先生名言集
「子供の頃から、そして今に至るまで三島由紀夫先生の作品は何回も読み返していますが、個人的には最も三島文学の素晴らしさが現れているのは『沈める滝』までであると考えています。
ご存知の通り、三島先生は16歳という若さであの大傑作『花ざかりの森』を書かれました。そして三島先生はご自身に対して非常に厳しい方であった為に、『自分は作家として成長できているのだろうか?単なる自己模倣を繰り返しているだけなのではないか?』という思いに常に苦しめられていたはずです。
それ故に、意図して自分の文章や文学のスタイルを変えて行く事になり、その最初の作品が『金閣寺』となります。『金閣寺』が日本文学の歴史に残る傑作であることは僕も承知しています。
ですがここには『花ざかりの森』にあった本来の瑞々しい三島文学の感性はなく、どこまでも感性によらない思考による意図的な作為とそれに対する苦悩があります。
もしここで『金閣寺』に対して批判をする評論家がいれば状況は違ったでしょう。しかしそのような事はなく『金閣寺』は三島文学の最高傑作として位置付けられてしまった…
この事が天才作家、三島由紀夫の最大の不幸であるように僕は思うのです。」
702(1): 2021/11/26(金)18:36 ID:OWlubeaw0(3/6) AAS
小島一志先生名言集
「『金閣寺』以降の三島由紀夫先生の苦悩にいち早く気付いたのが先生の親友であった僕の父の繁雄です。父は三島先生に初心に戻ってもらう為に先生と同じく早熟の天才、『アンファンテリブル』と呼ばれた作家、トルーマン・カポーティを日本に呼び、二人を引き合わせています。
二人の間でどのような話がなされたのか…それは僕たちには分かりません。ですがカポーティが三島先生を「面白い方であった反面、大変傷つきやすい人であった。」と評した言葉が伝わっているように、カポーティも自身と似た傾向を持つ三島先生の危うさに気づいていたのでしょう。
ですが結局、その後の三島先生の迷走からの暴走、そして破滅を止める事は誰にも出来ませんでした。
一方のカポーティもその後、三島先生と同様に作品のスタイルを変遷させていきましたが、カポーティには三島先生がもち得なかった自己への相対化が極めて上手い人であったので自身の原点である『遠い声 遠い部屋』の文章を見失う事がありませんでした。
しかし結局はカポーティも薬物やアルコールに溺れて破滅し、三島先生の自決から約14年を経た84年に亡くなることになります。
カポーティはルポルタージュ文学である『冷血』を執筆した際に犯人を評して「同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た」という言葉を残していますが、彼の中には「同じ家に生まれた者」として三島由紀夫の存在も念頭にあった事は間違いないと僕は確信しています。」
708(1): 2021/11/26(金)20:26 ID:OWlubeaw0(4/6) AAS
小島一志先生名言集
「三島由紀夫先生に纏わる思い出といえば07年に『大山倍達正伝』を三島由紀夫賞に受賞させたいという打診が新潮社からありました。選考委員の中で筒井康隆氏、福田和也氏の強い推薦があったそうです。
特に福田氏は「これは空手というフィルターを通した戦後論、日本文化論、日韓論であり、一人の人物の生き方を文学の領域まで昇華した大傑作である」と絶賛してくれたそうです。
一方でルポルタージュ作品に三島由紀夫賞を与えるという前例を作る事に、他の選考委員の強い反対もありました。
大揉めになってしまった事もあり、僕の方から新潮社に通達し、候補作にする事を辞退させて頂きましたが、結果として選考委員達の間には不協和音が残り、08年度からの選考委員が全て変わるという前代未聞の事態を引き起こしてしまい、未だに申し訳なく思っています。
僕の文筆の師であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは15年にジャーナリストでありながらノーベル文学賞を受賞しましたが、この時にジャーナリストに文学賞を与える事への反発は極めて少数に留まったらしく、時代の変化もあったのかもしれませんがそれでもまだまだ僕は師には及ばないと痛感しました。
作家は賞の為に執筆するのではありません。賞はあくまでマイルストーン、一種の道標に過ぎません。そしてそれは生真面目な作家にとっては励みになるものであっても僕のような無頼な作家には足枷ともなりかねないものなので、三島由紀夫賞の一件以降全ての賞へのノミネートを辞退させて頂くようになりました。」
710: 2021/11/26(金)21:08 ID:OWlubeaw0(5/6) AAS
小島一志先生名言集
「三島由紀夫先生といえば右翼であり愛国者…三島事件における自衛隊決起を促す演説と自決によりそのイメージは決して拭う事ができないレベルで世間に浸透してしまいました。
ですが三島先生の思想は決してそのような単純なものではありません。『金閣寺』執筆以降の執筆スタイルの変遷に見えるように三島先生はどこまでも自分自身の変化に自覚的であり、そして懐疑的でありました。
僕は三島先生の弟君であり、外交官であった平岡千之氏に数度に渡りインタビューを行っていますが、家族からみても三島先生の思想の変遷、そして三島事件に見えるような硬直し、しなやかさを欠いた右翼思想に関しては首を傾げざるを得ない部分があった、とお聞きしています。
皇族が処刑されるという衝撃的な内容の深沢七郎氏の『風流
夢譚』に対して一定の評価を与え、もし『中央公論』がそのままこれを掲載したら大問題になるであろうと考え、ご自身の『憂国』と並べて掲載する事でバランスをとったらどうか?と提案していた事、そしてその後に起きた嶋中事件により、日本の言論にタブーができてしまった事を誰よりも嘆かれていたのは三島先生です。
このような考え方は原理主義的な右翼思想からはまず出てこないものです。
僕が平岡千之氏に最後にインタビューした時に『三島先生はあれほどの才能を持ちながらも生涯で一度も思想以前に御自身の事を信じる事ができなかったのではないでしょうか?そしてその不信からの逃避としての自殺として選んだのが右翼思想だったのではないでしょうか?』と聞いた事があります。
平岡氏は驚き、酷く動揺した表情になりましたが数分後に重い口調で『おそらく君の意見は正しいのだろう。』と仰られました。
いずれにせよ、三島由紀夫先生は御自身が選んだあの死に方により、この世界に決して消えない三島文学の『呪い』を残した事だけは間違いないでしょう。」
713: 2021/11/26(金)22:23 ID:OWlubeaw0(6/6) AAS
小島一志先生名言集
「三島由紀夫先生が硬直した国粋主義者であるかのような誤解…これは死後半世紀以上たった今でも残っています。
特に三島由紀夫研究会なる三流の政治屋、メディア関係者等が集まった団体は先生の名を騙るばかりかその命日を憂国忌などと名付け、自分達の利益の為に政治利用しており、傘下にヤクザ、愚連隊もどきの連中を抱えるなど、まさに死体にたかる鼠のような極めて悪質な存在です。
かつて僕が三島先生のお骨が収められている多摩霊園の平岡家の墓にお参りに行った時の事です。それまで僕は三島先生が亡くなられる三週間前に最後にお会いし、励ましのお言葉と愛用の万年筆を頂いた思い出が何よりも大事だったのであえてお参りに行く事を自身に戒めていました。
ですが僕自身にとって初めて納得のいく作品である『大山倍達正伝』が書けた後、僕は初めてその戒めを解き三島先生へのご報告にお参りに行きました。しかし先生が亡くなられた日に近かった為か三島由紀夫研究会関係の者達が何十人と集まり霊園という場所や周りの迷惑も考えず『愛国者、三島由紀夫先生万歳!森田必勝烈士万歳!』などと大声で喚いていました。
もし三島作品に少しでも触れた事のあるものならこのような行為を先生が一番嫌われていた事くらいはどんな馬鹿でも理解できるでしょう。つまりは三島先生を政治利用したい屑と三島作品に触れた事すらないようなチンピラが集まっていたのです。
僕は三島先生との思い出を穢されたような気持ちになり、発作的に激怒してその者達を全員殴り倒し、警察沙汰になってしまいました。
恐らくこれには天国からご覧になられてた三島先生も『一志君の短気は大人になっても変わらない』と苦笑いをしていた事でしょう。
僕がブログ等であえて愛国者、右翼思想の持ち主、等と自分を紹介しているのはこういうカスどもに対する一種の当て擦りと理解してもらえれば幸いです。」
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