[過去ログ] やっぱり人が住むのは田舎じゃなくて都会だと思う 8 [無断転載禁止]©2ch.net (488レス)
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242: 昼ライト点灯虫マニャデチLGBTQ性欲欠落アスペ300系3重障壁バセドウ綿飴箸JAL123 2017/06/23(金)14:31 ID:iaJTwksJ(1/3) AAS
JAL、徳島就航60周年記念行事を徳島空港で実施
6/21(水) 0:00配信
外部リンク:headlines.yahoo.co.jp
写真:Impress Watch
JAL(日本航空)は6月20日、徳島へ就航して60周年を迎えたことを記念して、徳島空港(徳島飛行場)において「徳島就航60周年記念行事」を開催した。
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就航当時の様子を紹介した展示が行なわれたほか、羽田行きのJAL456便の搭乗客は東亜国内航空時代のCA(客室乗務員)の制服姿で迎え、JALのスタッフが記念品を手渡した。
■水上機で吉野川に離着陸した60年前
徳島への就航は、JALと経営統合したJAS(日本エアシステム)の前身である日本観光飛行協会が1957年6月20日に徳島〜大阪間を不定期路線として運航したことが始まり。日本観光飛行協会は日東航空へと商号変更、合併して日本国内航空、東亜国内航空となり、日本エアシステムに商号変更、そしてJALと経営統合して現在に至っている。
1957年6月20日に運航を開始した徳島と大阪を結ぶ路線は、徳島側は吉野川大橋南詰から水上機で水面に離着陸していた。大阪側も堺の港を使っていた。当時の飛行機はデハビランド DHC-2型機(ビーバー)で、座席数6のところ初便の乗客は5名だったという。
また、翌年の1958年3月1日には商号を日東航空に変更、4月には座席数11のデハビランド DHC-3型機(アッター)を導入、以後、使用機材を進化させながら、空港も大阪側を八尾空港、伊丹空港と変更、徳島側も現在の徳島空港に変更してきた経緯がある。
セレモニーは、JAL456便の出発前に、JAL 徳島支店長の栗山俊久氏が登壇し、「当時の滑走路はここではなく、皆さんよくご存知の、旧吉野川橋のちょうど四国大学の対岸です。水の上から離発着していました」と60年前を説明。
「それから約60年間、1度も休むことなく、この徳島で運航を続けられたのは、徳島県民の皆さんがこの飛行機を利用してくださったおかげと、本当に心から感謝しています。本当にありがとうございます」と挨拶をした。
栗山氏はさらにJALと徳島の関わりについても説明。「日本航空では、徳島の藍を国内外に広めていこうと、藍の服をJALの空港の人たちが着ています。それから、今日、皆さんがお乗りになる、飛行機。この飛行機の中の照明も、徳島が世界に誇るLEDの照明を採用しています。
このように、徳島路線と日本航空は密接な関係があります。これからも、この路線を愛していただき、そして、ご利用いただければと思います」と語り、空港の旅客スタッフが着用する「阿波藍」ブラウスについても紹介した。
セレモニーの司会は、JALのCAが過去の制服を着用して務めた。栗山氏によれば、就航当時は乗員はパイロット(運航乗務員)だけでCAがいなかったため、就航当時の制服というものは存在しない。今回司会のCAが着用したのは、日本エアシステムに商号が変わる前、東亜国内航空の2代目制服である。
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