教養と道徳を教えない学校は最低だ (301レス)
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97(1): 2013/12/30(月)10:18 ID:FzCbV5EV(2/3) AAS
>>91
>個人主義というのは、自分の価値観だけに忠実な排他的田吾作思想ではなく
>違いがあること、またその違いの価値を認め、有能さに対して自然に尊敬を持つという思想なわけ
日本における個人主義は「周囲の人々から認められること」を一番大事にするという価値を否定するだけの
個人主義ですから、 「自分の価値観だけに忠実な排他的田吾作思想」となっています。
自分だけの価値観とならないためには、個人を超えた存在によって価値を保証されなければなりません。
欧米ではそれが「神」だった訳ですが、日本には神は存在しませんから、個人主義は個人を超えた価値観にならないのです。
98(1): 2013/12/30(月)10:19 ID:FzCbV5EV(3/3) AAS
>>96
自分の心の中をちゃんと見てください。
自分の中に「周囲の人々に認められること」を大事にする価値観を持っていて、
個人主義は無理だという事が分かると思います。
99(2): 2013/12/30(月)11:14 ID:+DOK7YWx(2/2) AAS
>>97
仮に今そうなりがちであっても、未来永劫それだとは言えないでしょ
>自分だけの価値観とならないためには、個人を超えた存在によって価値を保証されなければなりません。
自分だけの価値観とならない=排他的ではない ではなく、
自分だけの価値観である=排他的である=他の存在を認めない でもない
上は日本のいじめの例で反証できるし、下は山に単独で隠居するジジイでも人間がムシケラや動物と「共存共栄」や「住み分け」していることでも反証できる
あなたは恣意的にもしくは無自覚に「排他的」を除いて、「自分だけの価値観である」ことが「排他的である」ことと同義であるというような都合のよろしい前提で展開しているが、
人間と、キツネ、アブラムシ、で互いに排他的にならずに共存していることで反証できる
要するに、自分だけの価値観だらけの集団であっても排他的でさえなければ現代民主主義社会は成立する
省11
100(1): 2013/12/30(月)15:41 ID:2bIOMwdI(1/2) AAS
>>99
まず、個人の自我は、自我以外の何モノかによって支えられなければ存続することができません。
「何にも頼らず、何からも独立していて、自由で主体的な自我」というものは存在しません。
日本の場合は、自我の支えは「周囲の人々から認められること」です。
家の絆、村の絆などを大事にして、それによって自分の自我を支えて来たのです。
あなたは、友達との関係が悪くなってでも自分の正しいと思う事を主張しますか。
いついかなるときにも、どんな場面でも、自分が正しいと思う事を、友人関係がどうなろうとも、
親や親せきとの関係がどうなろうとも主張してきたのですか。
親しい友達や家族から、「そんな人間とは思わなかった」だとか「人でなし」だとか思われても気になりませんか。
少しでもきになるのなら、それは「周囲の人々に認められたい」と思っている事になります。
省5
101(1): 2013/12/30(月)16:07 ID:2bIOMwdI(2/2) AAS
>>99
>要するに、自分だけの価値観だらけの集団であっても排他的でさえなければ現代民主主義社会は成立する
自分だけの価値観に従って自分の正しいと思う事を言ったりしたりすれば、他者とぶつかりますよね。その時どうやって解決するのですか。
自分が正しいと思う事は自分だけが思っていればそれで済むのでしょうか。
自分が正しいと思う事を周りのみんなも正しいと思ってくれなければ、その人たちとの関係をどう結ぶのでしょうか。
自分の正しさを押し通すという事は、排他的であるという事ではありませんか。
人間関係を持つには共通の基盤が必要です。日本の場合、それが「周囲の人々に認められる」ように行動する事です。
この基盤があるから、友好的な人間関係を築くことができています。
「田吾作思想」を持たないという事は、この基盤を捨てるという事です。
この基盤を捨ててどうやって人間関係を結ぶのでしょうか。
102(3): 2013/12/31(火)00:11 ID:nqR3JQs3(1/5) AAS
>>100
お前の話はイカレた前提の上に成り立っている
>あなたは、友達との関係が悪くなってでも自分の正しいと思う事を主張しますか。
ああ、するよ
>いついかなるときにも、どんな場面でも、自分が正しいと思う事を、友人関係がどうなろうとも、
>親や親せきとの関係がどうなろうとも主張してきたのですか。
馬鹿?時と場合によるんであって
省14
103: 2013/12/31(火)00:18 ID:JjAlTicd(1) AAS
ここで祭りだ輪ショー委輪ショーーー井
2chスレ:liveplus
104: 2013/12/31(火)00:22 ID:nqR3JQs3(2/5) AAS
>>101
>自分だけの価値観に従って自分の正しいと思う事を言ったりしたりすれば、他者とぶつかりますよね。その時どうやって解決するのですか。
まずお前が盲信するように誰とでも友好的な関係を結ぶ必要などない
必ずしも人間関係を繋ぎ続ける必要はなく、関係内で解決できなければ住み分けをすればいい話
>自分が正しいと思う事は自分だけが思っていればそれで済むのでしょうか。
>自分が正しいと思う事を周りのみんなも正しいと思ってくれなければ、その人たちとの関係をどう結ぶのでしょうか。
関係内で解決できなければ住み分けをすればいい話
万人に理解されなければいいけない必要性などない
>自分の正しさを押し通すという事は、排他的であるという事ではありませんか。
省5
105(1): 2013/12/31(火)14:35 ID:7MSJPnov(1/4) AAS
>>102
>「周囲の人々に認められる」というのは人間関係を作るためのツールという面もあり、
>人間関係を作ることは経済的その他のメリットがあるわけで、
人間関係は自我のごく一部だと考えておられるようですが、それが間違っています。
自我とは自分は何者であるかについての物語と言えます。
「私は男だ。」とか「私は○○と○○の間に生まれた人間だ。」とか「○○会社の○○課の課長だ。」とか・・・
そういう社会的身分・役割の全体が「私」であり、私の「自我」です。
そして、まず私の中心に「私の本質」「私の核」のようなモノがあって、そこにいろいろな社会的役割が乗っかっていて
私の「自我」ができているというものではありません。
社会的役割や身分というモノを全部取り払った後に、自分の実体のようなモノがある訳ではありません。
省3
106(1): 2013/12/31(火)14:51 ID:7MSJPnov(2/4) AAS
>>102
>自我を満たすためだけにすることではなく自我を満たすこととイコールではない、自我云々だけに結び付けているのはこじ付け
「自我を満たす」というのはどういう事を考えておられるのでしょうか。「自我の発する欲望を満たす」という意味でしょうか。
私は「自我を満たす」かどうかの話をしているつもりはありません。
自我が存続できるかどうか、自我が崩壊せずに維持できるかどうかの話をしています。
そして、自我は、何かに支えられなければ存続できません。
「何にも支えられず、従って何にも依存せず、何からも独立していて、自律的で主体的な自我」なるモノはこの世には存在しません。
それは、ヨーロッパでは昔からずっと、唯一絶対神でした。ヨーロッパ人は神の存在を信じ、神によってその自我を支えられてきました。
神を信仰し、神の教えを守る事が正しい行いであると堅く信じ、神の教えを守る事で自分の正しさを神に保証してもらってきました。
省4
107(1): 2013/12/31(火)15:01 ID:7MSJPnov(3/4) AAS
>>102
>俺で言っても人格やら周囲から認められんでも経済合理性に専念して自我なんぞ満たさなくてもやっていけるね
もし、あなたが会社員だとして・・・
あなたはスーツを着ないで仕事ができますね。
自分の好みの派手な服を着て、装飾品をいっぱい付けて、髪の毛をモヒカンかなんかにして
金髪にして、無精ひげを生やして、仕事ができますね。周囲の人々の評価を気にしないのですから・・・。
風呂に長い事は言っていなくて、少々臭いにおいを発していても、「経済合理性」に専念して行動するのですから
まったく気になりませんよね。
周りの人から「臭い」「汚い」とか言われても何にも気になりませんよね。
周囲の人々に認められる事を大事に行動するという事は、そういう事をすべて含みます。
省5
108(1): 2013/12/31(火)15:11 ID:7MSJPnov(4/4) AAS
私は、やはり外に行く前にはシャワーを浴びます。前の晩ですけど・・・。
それは、周囲の人々に不快に思われたくない、変な人と思われたくないという気持ちが働くからです。
そして、外に行く場合でも、何かを買いにどこかへ出かけるのと、会社に行くときとでは違いますよね。
やはり、会社で同僚から「臭い」とか「汚い」とか「変な奴」と思われたくないので、きちんとひげを剃って
きちんとした服装をして、清潔な感じを大事にしようなどと思いますよね。
買い物に行くときは、外で会う人がほぼ他人ばかりですから、気を使うと言っても、だいぶと手を抜いたりしますよね。
ときには、ひげを剃らずに出て行ってしまったり・・・。
そうやって、他者の目、他者の評価をきにするものではありませんか。それが日本人だと思います。
それはそれとして尊重しておいて、「他者を気にしない自律的な自我」を確立するという事は原理的に不可能です。
109(1): 2013/12/31(火)15:32 ID:nqR3JQs3(3/5) AAS
>>105
>人間関係は自我のごく一部だと考えておられるようですが
とんでもない読み違い 国語力ゼロ
>>106
自我が何を指してるのかさっぱりわからないし、またもや根拠提示なし
>そして、自我は、何かに支えられなければ存続できません。
根拠は?
省4
110(2): 2013/12/31(火)16:03 ID:nqR3JQs3(4/5) AAS
>>107
>スーツを着ない
>自分の好みの派手な服を着て、装飾品をいっぱい付けて、髪の毛をモヒカンかなんかにして
>金髪にして、無精ひげを生やして、
>風呂に長い事は言っていなくて、少々臭いにおいを発し
すべて顧客を失うわ、職も失うじゃん
経済的合理性で正当化できる
馬鹿なの?
「休みの日は風呂入らないこともあるし無精ひげ生やしたままジャージで買い物行けるけど何か」くらいは言えるが?
企業の構成員としての自分と、俺本来の人格にとっては違うからね
省14
111: 2013/12/31(火)16:17 ID:nqR3JQs3(5/5) AAS
>>108
>「臭い」とか「汚い」とか「変な奴」と思われたくない
結局あなたの価値観だよね
日本人の代表ヅラしているけれど、「臭い」「汚い」はともかく
「変な奴」なんて小泉純一郎やらホリエモン、落合博光、富野由悠季、鉄道オタク、美少女アニメオタクみたいなのをはじめわんさかいるだろうよ
そんなに「日本人」が画一的で「変な奴」すらいない、金太郎飴みたいな民族・国民だと本気で思ってるのか?
お前が女だから、女独特の糞くだらん小グループのムラ社会ごっこに興じてきた過去を
日本人の民族性なんだという幻想を作りあげることで、自尊心を満たすツールにしてるだけの話じゃないのか
112(1): 2014/01/01(水)22:28 ID:AOIujbOp(1/2) AAS
>>110
>すべて顧客を失うわ、職も失うじゃん
ですから、少なくとも今の日本ではほとんどの人が「周囲の人々から認められること」によって自我を支えているということです。
「周囲の人々から認められる」ように行動することが道徳的に価値が高いという「信仰」が、広く社会に共同化されているという事です。
だから、みな「世間体を気に」して行動するし、周囲の人々から是認されないような行動を(自分は正しいからと言って)とる人は
変わり者、異端者などと言われて排除されるます。
113(1): 2014/01/01(水)23:20 ID:AOIujbOp(2/2) AAS
>>109
>自我が何を指してるのかさっぱりわからないし、またもや根拠提示なし
自我とは「私」と大体同じだと思ってもらっていいかと思います。
意識的人格とよばれることもあります。
言葉を用いて「私は〜だ」とか「私は〜しよう」考える主体という感じです。
「自我」は、自分と世界についての物語であり、自分の行動を律する行動規範です。
言葉を用いて考え、自分について、世界について説明します。自分を正当化するような物語を考えます。
「私は〜すべきだ」「〜してはいけない」と考え、自分の行動を先導します。
私が考える「自我」には、フロイトが「超自我」と呼んだ部分も含まれます。
省2
114(1): 2014/01/01(水)23:36 ID:uGvj2raV(1) AAS
>>112
>自我を支えているということです。
自我を支えているのではなく社会生活を支えているのだよ
お前の自我は定義はどうなってるんだか
>「周囲の人々から認められる」ように行動することが道徳的に価値が高いという「信仰」が、広く社会に共同化されているという事です。
はw
まったくわけのわからん論理だ
「道徳的に価値が高い」ではなく極小リーマン社会に限った話で、「広く社会に共同化されている」どころか業界によって恰好なんか千差万別だ
結局だらだら、自我が維持「できない」理由が何一つ示されない
お前の論理では日本人は隠居できないわけだ?(笑)
省3
115(1): 2014/01/03(金)13:12 ID:wHTLzazT(1/2) AAS
>>114
>自我を支えているのではなく社会生活を支えているのだよ
それは同じ事です。
あなたが「或る幻想が社会生活を支えている」と思っているという事は、
その幻想によってあなた自身の自我が支えられているという事です。
まず基本的な所から話を始めますと・・・私の自我が、私の住む世界を創り出しています。
私の中に自我があり、その自我が私の住む世界と私の中で向き合っています。
自我も世界も私の中のイメージ(幻想)です。
私の外部に私の住む世界があるように感じるのは、私の内部の世界を投影している結果です。
私の外部世界は、私の内部にあります。
省3
116: 2014/01/03(金)14:05 ID:wHTLzazT(2/2) AAS
「この世界にはこれこれというルール(例えば、『人のモノを盗んではいけない』というルール)がある」と信じている場合、
それがこの世界の秩序であり、このルールをすべての人が守るべきであると思っています。
そして、すべての人がこのルールを守っていると信じています。(守らない人がいれば、必ず罰を受けるべきだと思っています。)
そして、このルールが守られているこの世界だからこそ安心して暮らせるのです。
世界のみんながそのルールを守っているからこそ、心穏やかに過ごせるのです。
(多くの他者が平気で人のモノを盗むようであれば、この世界は真っ暗闇です。正義も何もあったもんじゃない。そんな世界には住めません。)
つまり、「この世界にはこのルールがある」という観念が、世界の秩序を支えていると同時に、自我(精神)の安定を支えています。
ですから、外部世界の秩序を支えていると自分から見えるものは、同時に自分の自我をもそれが支えています。
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