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秋篠宮家資料庫4 (448レス)
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: 2011/05/22(日)05:41
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86: [sage] 2011/05/22(日) 05:41:16.29 ID:Btn/pr6c 河原敏明 『皇太子妃雅子さま』 その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田 家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の 泉性寺に移した、という話をしてくれた。 ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻 とその子供だけ(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが七 十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。 「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移すときは そっくりもっていくものなんですがねえ」 と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のと き、恒、毅夫の両氏夫妻が村上にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠ってい るにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。 そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと 住職の広沢誠師が、 「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。 匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代にあたる兵五郎の 墓は寺にありません。私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。 三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」 と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。しかも泉性寺が明治十三年 の大火で類焼しているので資料が乏しいという。 昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。 http://anago.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1304844465/86
河原敏明 皇太子妃雅子さま その祖先が眠るという西真寺を訪ねた西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で元和四年以来ここで三百七十年の歴史を持つ住職本荘長弘師はその小和田 家の墓について毅夫氏が新潟市の学校に在勤中父金吉の墓のみを新潟市の 泉性寺に移したという話をしてくれた ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には兵五郎夫妻と道蔵匡利の妻 とその子供だけ夫の道蔵の墓は新潟に二基の墓石が並んでいる高さが七 十センチ近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない なぜ祖父の妻と子および曽祖父夫妻の墓を残していったのかふつう移すときは そっくりもっていくものなんですがねえ と住職夫妻も不審気だった昭和六十一年十一月恒氏が外務省官房長のと き恒毅夫の両氏夫妻が村上にきたがそのときも祖父曽祖父が眠ってい るにもかかわらず墓参していないことにも理由をはかりかねていた そこで小和田毅夫氏が村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと 住職の広沢誠師が 小和田家の墓は明治七年よりうちにあるがただ金吉と兵五郎の墓はない 匡利道蔵の墓だけがあります外務省の小和田家にとって初代にあたる兵五郎の 墓は寺にありません私の父が死んでいるのでその辺の詳細は分かりませんが 三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがあるしかも泉性寺が明治十三年 の大火で類焼しているので資料が乏しいという 昭和五十五年に毅夫氏がこの泉性寺にある墓の台座だけをよりよいものに直している
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