[過去ログ] 天上の虹と里中満智子 Part4 (94レス)
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60: 02/10/26 09:31 ID:??? AAS
三千代、「虹」では「国のため」と言っているが、
「長屋王〜」以降では藤原家のためというのを
重点的に考えてるように見える。
不比等がすげえ人すぎて、思想がそっちに転んだのかな。
まあ里中先生が「長屋王〜」以降は昔に書いたので、解釈変わっただけか。
そんな私は不比等アンド三千代が結構好きだ。
皇族が淡々としてて物足りないし。
61: 02/10/26 23:41 ID:KPiklaxp(1) AAS
「恋愛白書」文庫版かいました。
中途半端なコメディという感じで、それほど面白くはないです。
80年代後半の作品で、一番面白いのは、「愛人たち」かな
62(1): [ ] 02/10/27 00:58 ID:??? AAS
>57
房前の歌ものってなかった?
旅人との交流のからみで。
昔読んだような記憶があるけど・・・
63(1): 02/10/27 01:41 ID:duaN6wbp(1) AAS
不比等は私も好き。見習いたいところがイパーイ。
自分が不利な立場になったり、思うとおりに事が運ばなくても
冷静に対処し、逆境の中でも最善な方向を見分ける頭の良さが羨ましい。
美千代は、「長屋王残照記」と里中さんの描く
キツネ目顔のせいで、イメージ悪い・・・・(里中ワールドに影響されすぎですね)
長屋王の死に様は、本当に悲しかった。
衝撃的過ぎて、読んだ週末に長屋王の邸宅跡に建てられた奈良そごうに
足を運んでしまったよ・・・
>>58
私も宇合のツッコミ、笑いましたw
64: 02/10/27 05:46 ID:??? AAS
>>62
房前は記憶に無いです、専門家でもないのであんなにたくさんの歌フォローしきれない
そういえば麻呂は載っていたかも知れませんが印象無いです。
やっぱ宇合が一番記憶に残っています
65: 02/10/27 14:39 ID:??? AAS
房前の歌は万葉集に載ってます。
大岡さんの「私の万葉集」(何巻だったかは忘れた)に解説載ってるから興味が
あれば見てみれば?これなら初心者向けで読みやすいから立ち読みもOKだし。
大伴家との関連でかなり扱いは大きかったよ。
長岡さんの家持主役の作品にも旅人と房前の交流についてちょっとでてくるね。
ちなみに麻呂の歌も載ってます。こっちも長岡さんはとりあげてる。
里中さんはどうだろね。これから出すかな?
66: 02/10/27 17:08 ID:??? AAS
>>63
関係ないけど、奈良そごうっていうのが…なんか、いいね。哀愁。
67: 02/10/27 18:35 ID:n+0ErhsD(1) AAS
長屋王邸あとにあのデパート建てたことで、考古学・古代史の関係者からはそごうに対し、非難ごうごうだったらしい。かなり、反対論があったのを無理に押し切っちゃったんだよね。
68(2): 02/10/27 22:20 ID:??? AAS
そごうがあんなになっちゃったのはやはり長屋王のたたりだったのか…?
69: 02/10/28 20:20 ID:??? AAS
>68
なるほど!
70: 02/10/28 20:50 ID:??? AAS
>68
現代にまでたたりをなす長屋王恐るべし!
((((( ;゚Д゚))) ガクガクブルブル
71(1): 02/10/31 18:24 ID:??? AAS
紀ィって弓削より前につきあってた男いるんだろうか。
素朴な疑問。
72(1): 02/10/31 22:22 ID:??? AAS
穂積、紀ィ兄妹の母、おおぬはもう出ないのかな〜。
あの性格の母が自分の子の行状について何とコメントするか…。
興味あり。
>71
いないような気もするが、弓削との初Hのとき、初々しくなかったね…。
73: 02/11/01 11:57 ID:KvtgNeAo(1) AAS
>72
おおぬを出すと、ささらがあれほど嫌っていたおおぬの娘のきいを
なぜ孫の嫁にしたのか、という議論が復活するからではないでしょうか?
74(2): 02/11/01 15:03 ID:TFVZ3Ull(1) AAS
紀ィ姉妹が双子とか年子じゃない限り
妹(田形皇女)ならかると年齢も近かったと思うのに
さららはなぜあえて10歳も年上の紀ィを選んだんだろう?
75: 02/11/01 15:13 ID:YPXpAILM(1) AAS
>74
ソレ私も不思議に思った。
他にも適した皇女がいただろーに。
76(3): 当時の伊勢斎宮 [tama] 02/11/01 16:57 ID:??? AAS
田形皇女・・・>706年に伊勢斎宮になっているから、軽の妃にするには
無理があると思われ(翌年に文武が崩御。その時に退下したと考えられる)。
ちなみに、文武朝における他の伊勢斎宮は下記のとおり。
多紀皇女・・・>698〜700年冬か701年正月頃まで
泉皇女・・・・>701年〜不明(多分706年)
里中満智子が紀皇女を軽の妃と考えたのは、彼女の短歌から
連想したんじゃないかな? と、勝手に思ったけどね。
77(2): [ ] 02/11/01 17:29 ID:??? AAS
>74
私も違和感を感じたよ。あんなに赤兄の娘は嫌っていたのに、孫なら
いいのかって…。
史実が、紀ぃが、かるの妃だったらしいから、しょ〜がないけど。
ところで、紀ぃと弓削が問題を起こしたため、葬られたらしい、という
話を、読んだ記憶があるのだけど、どうしても、何の本で読んだか
思い出せない。「海原猛」が書いた本だったかも?
ご存じの方、いらっしゃったら教えていただけませんか?
78(2): 02/11/01 17:44 ID:??? AAS
梅原猛は日本史に関してはデムパなので信じない方がいいよ。
本業の仏教哲学についてはなかなかなんだけどね、あの人・・・
79(1): 02/11/01 18:06 ID:??? AAS
>77
「黄泉の王」(新潮文庫)ですね。
>78
梅原猛が日本史に関してデムパっていうのは禿同。
宮子の出自に関してもデムパゆんゆんな本出してましたよね・・・。
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