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月曜から夜更かしで横浜人=基地外が証明された件w (324レス)
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303
: 2018/07/07(土)09:53
ID:WJxyJVy8(1)
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303: [sage] 2018/07/07(土) 09:53:13.10 ID:WJxyJVy8 渡来人の故郷を探るために、これまで水田稲作文化と青銅器文化をキーにして、伝播経路などをかなり詳しく調べてきた。 そうした知見をベースとしてこの節では、主に自然人類学(形質人類学)の分野から、すなわち頭骨や人骨を比較分析する方法で、 現代本土人の形成に大きな影響を与えた、渡来人の源郷を調べて行きたい。 ■九州の弥生人のタイプ この列島が酸性土壌で、酸性に侵されて骨が残り難いということはすでに述べた。縄文人骨が比較的良く残っているのは、 貝塚に葬られた骨が貝の石灰分で中和されたためである。 北部九州においてもこの事情は同じである。人類学の中橋孝博によれば、北部九州でこれまで出土した弥生人骨は5,000体を超えるが、 これらのほとんどは甕棺墓が普及しだした弥生前期末以降のもので、縄文晩期から弥生初期の移行期の人骨が抜け落ちており、 先に述べた支石墓の人骨が少々出土しているだけという。 (甕棺墓は密封されており、酸性の土壌に侵されることなく人骨が残る。また土井ヶ浜の人骨は甕棺墓ではなく砂丘に埋葬されていた。 貝塚と同様、砂浜に含まれる貝殻の細かい粒に含まれるカルシウムが、土の酸性を弱め、雨水に溶けて人骨に沈着して、300体以上の弥生人骨を残した。) 最も知りたい肝心の時期の人骨の資料が、実は不足しているということを知ったうえで、九州の弥生人を調べてゆこう。   九州北部の弥生人でも背振山地から西の西北九州沿岸部と東の平野部の弥生人が、全く異質な集団であることを初めて明らかにしたのは長崎大学の内藤芳篤(2005年没)である。 その後内藤は九州弥生人をさらに3群に分け、下図の中央図のように提示した。 まず北部九州・山口タイプの弥生人骨は、平野部で農耕を主生業とし、死後は大形甕棺を主体とする大規模な墓域に豊富な副葬品を伴って葬られた人々および土井ヶ浜人達である。 この地域では縄文人たちが渡来系農耕民の新しい技術や血をうけいれて、文化的にも体質的(長身・高顔・・注- ヒトの頭蓋骨の計測 )にも均質な集団が誕生した。 一方、西北九州タイプの弥生人骨は岩礁性の海岸部で漁撈に従事していた人々が、極めて貧弱な副葬品と共に小規模な土壙墓や石棺墓に残したものである。 この地域は早い時期に水田稲作文化の洗礼をうけたが、水稲栽培に不向きな岩礁性の海岸部や離島に住んでいた縄文人は、土器や石器などの弥生文化要素は受け入れたものの、 伝統的な生業と風習をかたくなに守り、渡来系農耕民との通婚も拒否し続けたようだ。 したがってこのタイプの人々は低身・低顔という縄文人の形質を色濃く残した。 なお、福岡市の西郊、糸島半島の新町遺跡で支石墓という朝鮮系の墓から、この西北九州タイプのヒトが出土したことから、このタイプのヒトは、南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないかとか、 あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする説が出されているが確かなことは分らない。   最後に南九州離島タイプである。沖縄の縄文人は九州の縄文人や西北九州の弥生人と形質的に同じグループに属している。ところがこの南九州離島タイプの人々は沖縄の縄文人とは一線を画しているのである。 いちじるしく低身長で男性で154cm、女性で143cm足らずしかない。集団としてこれほどの低身長の古代人は、国内では見当たらず、あえて探せば、現代のフィリピン山中に住むネグリトとか、アフリカのコイサン(ピグミー)くらいという。 また低顔性が強く、後頭部を見るとひどく扁平に変形しており、人工的に変形させたのではないかという意見もあるくらいである。抜歯の風習も風変わりな形式で、上顎の前歯を片側だけ抜いているという。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1364270556/303
渡来人の故郷を探るためにこれまで水田稲作文化と青銅器文化をキーにして伝播経路などをかなり詳しく調べてきた そうした知見をベースとしてこの節では主に自然人類学形質人類学の分野からすなわち頭骨や人骨を比較分析する方法で 現代本土人の形成に大きな影響を与えた渡来人の源郷を調べて行きたい 九州の弥生人のタイプ この列島が酸性土壌で酸性に侵されて骨が残り難いということはすでに述べた縄文人骨が比較的良く残っているのは 貝塚に葬られた骨が貝の石灰分で中和されたためである 北部九州においてもこの事情は同じである人類学の中橋孝博によれば北部九州でこれまで出土した弥生人骨は体を超えるが これらのほとんどは棺墓が普及しだした弥生前期末以降のもので縄文晩期から弥生初期の移行期の人骨が抜け落ちており 先に述べた支石墓の人骨が少出土しているだけという 棺墓は密封されており酸性の土壌に侵されることなく人骨が残るまた土井ヶ浜の人骨は棺墓ではなく砂丘に埋葬されていた 貝塚と同様砂浜に含まれる貝殻の細かい粒に含まれるカルシウムが土の酸性を弱め雨水に溶けて人骨に沈着して体以上の弥生人骨を残した 最も知りたい肝心の時期の人骨の資料が実は不足しているということを知ったうえで九州の弥生人を調べてゆこう 九州北部の弥生人でも背振山地から西の西北九州沿岸部と東の平野部の弥生人が全く異質な集団であることを初めて明らかにしたのは長崎大学の内藤芳篤年没である その後内藤は九州弥生人をさらに群に分け下図の中央図のように提示した まず北部九州山口タイプの弥生人骨は平野部で農耕を主生業とし死後は大形棺を主体とする大規模な墓域に豊富な副葬品を伴って葬られた人および土井ヶ浜人達である この地域では縄文人たちが渡来系農耕民の新しい技術や血をうけいれて文化的にも体質的長身高顔注ヒトの頭蓋骨の計測にも均質な集団が誕生した 一方西北九州タイプの弥生人骨は岩礁性の海岸部で漁に従事していた人が極めて貧弱な副葬品と共に小規模な土墓や石棺墓に残したものである この地域は早い時期に水田稲作文化の洗礼をうけたが水稲栽培に不向きな岩礁性の海岸部や離島に住んでいた縄文人は土器や石器などの弥生文化要素は受け入れたものの 伝統的な生業と風習をかたくなに守り渡来系農耕民との通婚も拒否し続けたようだ したがってこのタイプの人は低身低顔という縄文人の形質を色濃く残した なお福岡市の西郊糸島半島の新町遺跡で支石墓という朝鮮系の墓からこの西北九州タイプのヒトが出土したことからこのタイプのヒトは南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないかとか あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする説が出されているが確かなことは分らない 最後に南九州離島タイプである沖縄の縄文人は九州の縄文人や西北九州の弥生人と形質的に同じグループに属しているところがこの南九州離島タイプの人は沖縄の縄文人とは一線を画しているのである いちじるしく低身長で男性で女性で足らずしかない集団としてこれほどの低身長の古代人は国内では見当たらずあえて探せば現代のフィリピン山中に住むネグリトとかアフリカのコイサンピグミーくらいという また低顔性が強く後頭部を見るとひどく平に変形しており人工的に変形させたのではないかという意見もあるくらいである抜歯の風習も風変わりな形式で上顎の前歯を片側だけ抜いているという
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