[過去ログ] 小泉純一郎は運が強すぎる ▲522▲ (916レス)
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689: 2011/01/21(金)11:29 ID:20rukkiy(9/15) AAS
ポール・フィンドリー議員の場合

●22年間、下院議員を務めてきたポール・フィンドリーがAIPACの標的となったのは
彼が1978年にアラファトPLO議長と会談して以来
パレスチナ人の自決権にも理解を示す態度をとったことによる。
イランのアメリカ人人質解放のために
秘密裏にアラファトの援助を要請するアメリカ政府の求めに応じて、PLOとの仲介役も果たした。

 
●イスラエル・ロビーのフィンドリー潰しは1980年の選挙から始まった。
対立候補の選挙資金を集めるため、AIPACは
「フィンドリーはアメリカ議会史上、最悪の敵で、反ユダヤ主義者」と全米のユダヤ系新聞に広告で訴え
「この議員を破るために寄金を」と呼びかけた。

またフィンドリーの講演や選挙演説にも、AIPACが動員したと思われる運動員たちが
演説中に「PLO支持者!」と罵声を浴びせ妨害した。
シカゴでの外交問題の講演では、ある男が「この会場に爆弾が仕掛けられている!」
と叫んだため会場は大混乱に陥り、講演が中止されてしまったこともある。

●親友やこれまでの支持者たちもフィンドリーから遠ざかっていった。
友人で彼の支持者であった元連邦準備委員会の委員長は
選挙のための推薦状を依頼したフィンドリーに
「君のPLOに対する見解のために、それはできない」と通告してきた。

同じ共和党の大物政治家たちも、フィンドリーの選挙応援を躊躇するようになった。
大統領候補となったロナルド・レーガンがフィンドリーの地元を訪問したとき
大統領選挙対策本部が「フィンドリーと親しくすると
ユダヤ人の多いニューヨーク市での票を失ってしまう」と警告したため
レーガン候補の訪問中も、その運動員たちはフィンドリーをレーガンに近づけなかった。

●様々な妨害にもかかわらず、1980年の選挙で辛くも再選を果たしたフィンドリーも
2年後の選挙では、さらに強化されたAIPACの反フィンドリー・キャンぺ一ンの影響で
遂に千数百票という小差で敗れてしまった。
このときもダインAIPAC代表は、そのフィンドリーの敗北がAIPACの力によることを誇示した。

●自らの体験で、アメリカ議会におけるイスラエル・ロビーの強大な影響力を知ったフィンドリーは
その後、このAIPACの実態を丸2年がかりで取材・調査し
著書『彼らは敢えて証言する』を出版した。
その本はワシントンを中心に大きな反響を呼び
9週間連続で『ワシントン・ポスト』紙のベストセラーのリストに挙げられた。
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