[過去ログ] 「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 (648レス)
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110: 2007/04/02(月)11:33 AAS
>>109 押坂彦人大兄=蘇我馬子でない 理由
押坂彦人=馬子とすると、日本書記の記述(系譜や事績)と矛盾する。
もし、「押坂彦人=馬子」が従来からの学会の定説であったら、トンデモ論者は間違いなく、「別人」と主張するだろう。
日本書記等に、「押坂彦人≠馬子」の根拠となる記述が満載だからだ。
「押坂彦人≠馬子」とした場合の疑問・矛盾を上げつらうだけではなく、
「押坂彦人=馬子」とした場合の疑問・矛盾も上げつらうべし。
まったく疑問・矛盾のない古代通史などこれまでなかったのだから、総合的に判断するしかない。
111(1): 2007/04/02(月)11:38 AAS
いつまでたっても系図を見せないから、しかたないのでスレ主のHPを見てみたのよ。
そしたらなんと、系図があった。
画像リンク[jpg]:www.kojikiden.com
で、もっとも大事な馬子=押坂彦人 のところは、敏達天皇と蘇我稲目の両方から線が伸びているのよ。
まるで、敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだという系図に読める。
敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだって、気色悪くない?
もう疑問や矛盾を超越している。
結論:広瀬満の説とは、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
112(1): 2007/04/02(月)11:42 AAS
>>109 。「通常」とは「一般的には」の意で、「例外はない」ということではありません。
では、「押坂彦人大兄の墓がなぜあのように巨大」なのは、「例外」ということもありえるね。
すなわち、「押坂彦人大兄=蘇我馬子」の根拠にならないと認めたわけですな。
(「通常」の意味を「国語辞書を調べた」なんぞとガキの喧嘩みたいなこと言ってるから、自爆するのだ。)
113: 2007/04/02(月)11:47 AAS
>>109 河内の大古墳(大山古墳、誉田山古墳)を倭国大王の墓ではないと疑う人もいないのではないでしょうか。
勝手に決め付けるな。
大豪族が建造したものであろうことは疑いないが、それ以上のことは断定できない。
大王の墓かどうかは分からない。
例えば、箸墓古墳は、建造時には日本最大であるが、大王の墓ではないという説が圧倒的に多い。
厳密な意味での墓かどうかも分からない。
建造途中で放棄、あるいは「拝み墓」などの可能性もゼロではない。
すくなくとも実際の埋葬があるかどうかは発掘しなければ分からない。
114(2): 2007/04/02(月)16:47 AAS
>>103 「日本書紀」は皇統が切り替わっていたと正直に書くわけにはいかないので天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽
陳腐なB級陰謀論に突っ込みを入れてもしょうがないが、他のトンデモ批判でも応用できそうなので、少し矛盾を指摘する。
a 「正直に書くわけにはいかない」理由は何か?(B級陰謀論の定石)
蘇我氏が強大な権力があったと再三主張しているのに、なぜ正直に書けなかったのか理由が立たない。
b 「天皇家の出自が蘇我氏であることを隠蔽」とは、誰からその事実を隠すのか?
(a) 同時代の倭国の人々から真実を隠す ⇒ 不可能
(b) 同時代の外国の人々から真実を隠す ⇒ 難波高麗館など常設の大使館のようなものがあり、不可能
(c) 後世の人々から真実を隠す ⇒ 権力闘争真最中に何故後世のことなど考えていたのか疑問
c 「隠蔽」工作の時期はいつか?
皇統簒奪とほぼ同時に隠蔽工作が行われたのか、後の日本書紀等編纂時か?
省5
115: 広瀬満 2007/04/02(月)19:42 AAS
確かに私の「大国主伝」が論述方法が問題であることは認めます。
おそらく論の進め方が強引過ぎると言うことだと思いますが他の方からもこのことは指摘されたことがあります。
仮説をまず実証して次に進むべきではということなのでしょう。私も「実証」を軽視しているわけではありません。
しかし史料の少ない古代史研究では十分な実証は容易ではありませんし、実証したとしてもそれに要する文の量も膨大なものになるはずです。
「大国主伝」は古事記論、古代史論、神話論など膨大な内容を含んでいますので丁寧に実証して論を進めていたのではおそらく今の何倍もの分量になってしまうでしょう。
それはとてもではないが普通の人が読みこなせる分量ではないと思います。
そのような事態を避けるため多くの論文では権威ある大学者の説を引用したりするのですが私説のように通説からかけ離れた説ではそれも不可能でした。
続く
116(2): 広瀬満 2007/04/02(月)19:43 AAS
続き
>>104
そこで私は仮説のままで論を進めても、古事記や古代史の謎の解明につながったり、神話の解釈が可能になることが重要と考え論を進めました。
従いまして「実証」を重視する方からすれば全く不完全な論文、あるいは壮大な仮説と言われても仕方ないとは思っています。
ただ古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないかとは自負しています。
こじんまりとまとまった「ぬかりのない」論文よりも穴は多いが魅力的な仮説の方が今は必要なのではないでしょうか。
ただし、「仮説を常に仮説として 次の議論に注釈を必ずつける配慮が必要でしょう。 それがないと、白けてしまいます。」という指摘には留意しています。
参考とさせて頂きます。
広瀬満
117(1): 2007/04/03(火)09:35 AAS
>>111
系図がそのように読めましたか?
118(3): 2007/04/03(火)10:07 AAS
>>117
ほかにどう読めと?
母方の記述もなければ、他の主要な皇子や姫の記述もない断片的なもの。
敏達の后姫や子供はいないのか?稲目や馬子に夫人や他の子供はいないのか?
それらの多くは、天皇や有力皇子や有力臣下であったり、それに嫁いでいたりして、系譜上重要。
複雑になりすぎるし、内容的にも日本書紀と矛盾しない系譜が書けないのだろう。
自分の妄想を絵にしただけの代物。
結論:広瀬満の説とは、単なる妄想であり、
「敏達天皇と蘇我稲目が交わって 馬子=押坂彦人 を生んだ」
119(6): 2007/04/03(火)10:43 AAS
そもそも >>7 の「押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だ」という言い方からして誤解を招きやすい。
主張したいことは、正しく「押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名」(>>40)という表現に統一すべきであろう。
もちろん、これもトンデモ説だ。
いつから別名を名乗ったのか?
a 馬子の存命中に別名を名乗っていた
b 死後、捏造した
120(1): 2007/04/03(火)10:46 AAS
>>119 (続き)
これらは、その答えによって、さらにいくつかの疑問を派生させる。
c aの場合、単なる別名ではなく、押坂彦人皇子というぐあいに「皇子」という身分も称していたのか。
d 「皇子」という身分も称していた場合、本当に皇子の身分だったのか。
e 皇子の身分であるとすれば、臣下の身分から、いつ、いかなる理由で、いかなる手続きや手順や段階を経て、皇子の身分となったのか。
f 皇子の身分ではなかったとすれば、身分の詐称が何故許されたのか?
g aの場合、同時期に押坂彦人と馬子の両方の名を称したのか、あるいは使う時期が異なるのか?
h 同時期に両方の名を使った場合、どのような基準で使い分けたのか?
i 使う時期が異なるとすると、それぞれを使っていた時期はいつか?
実は、「日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。」(>>7)と主張しており、g〜iについては、時期が異なり、最初のうちは押坂彦人と称し、後に馬子と称したという主張である。しかしこれは完全に記紀等の記述と異なる。
省3
121(4): 2007/04/03(火)10:49 AAS
>>120 (続き)
bの場合も重大な疑問が派生する。
j bの場合、別名を呼称するようになったのはいつからか。記紀編纂時などに捏造されたのか?
j bの場合、何故、別名を名乗るような記述としなければならなかったのか?
そして、どのような場合であれ、記紀等の記述について重要な疑問が伴うこととなる。
k 別名を名乗るにしても、それを隠蔽しようとしたのは何故か?
l 別名を名乗ることを隠蔽することは、本当に可能だったのか?(>>114 参考)
m 別名を名乗ることを隠蔽しようとしたにもかかわらず、それがばれるようにわざと記紀等に「暗示」(>>32)を残したのは何故か?
122: 2007/04/03(火)11:01 AAS
>>116 古代史研究に多くの材料を提供することはできたのではないか
自己満足、自己陶酔の妄想など何になる。
古代史研究の材料どころか、他人のオナニーのオカズを見せ付けられるような醜悪さだよ。
最大限妥協しても古代史研究にとって、おおいに邪魔。(>>84)
紙などネット以外の媒体を使う
又は自分のホームページの中だけ
として欲しい。
プラスの要素は、世の中の様々なトンデモ説全般への対処法を学ぶ材料として、反面教師になっていることぐらい。
123(1): 2007/04/03(火)13:51 AAS
外部リンク[html]:www.kojikiden.com
石渡信一郎
小林惠子
この二人に影響されたのかな?
面白いよね、この二人の本。
124(1): 104です 2007/04/03(火)15:33 AAS
>>116
広瀬さん レス有難うございます。
貴方のHP相当面白いですよ。 教科書じゃないんだから歴史ロマンを追求する姿勢は
貴方の脱線の仕方も正しいし、読み応えもある。人の10倍の努力も感じるし、
本人が楽しんでるのも判る。 がんばってください。
さて、
A=B の仮説を元に C=D を結論付ける場合、
A=Bと仮説づけた章の最後に、
「歴史においてはこの説は仮説だが、自身の説である以上
以降の章ではこれが真である前提でA=Bであったら歴史はどう解釈されるか
省7
125(4): 2007/04/03(火)15:46 AAS
>>102 「押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑」とは、>>13の「疑い」や>>14の「矛盾」と同じことか?
疑惑1は、>>32で取り下げ
疑惑2は、第1皇子なのに即位しなかったのが疑惑らしい。
珍しいことか?
同時代でも、竹田は推古の第1皇子、厩戸は用明と間人との間の第1皇子だが、即位していない。
特に、厩戸(=聖徳太子)のことは知らぬはずもなかろう。
また、>>33で、「皇位継承の決定権を握っていた蘇我蝦夷」とか「舒明天皇が蘇我蝦夷の弟だった」と強く主張しているが、これと矛盾する。
すなわち、皇位継承の決定権を握りながら、押坂彦人=馬子の第1子ではありえない田村皇子(=舒明天皇)が即位した。
あるいは、皇位継承の決定権を握りながら、蝦夷の子である入鹿は即位しなかった。
と主張している。
省2
126(1): 2007/04/03(火)15:49 AAS
疑惑3は、異母妹が3人も后妃になったことが疑惑らしい。
しかし、3人という根拠は、>>33で「理由はわからないが一応ここでは通説に従って」とあり、いい加減。
櫻井弓張皇女は敏達の娘(敏達五年の条)だが、日本書記のどこに妃になったという記載があるのか教えてほしい。
日本書記では、糠手姫皇女と小墾田皇女となるが、敏達の皇后が廣姫のときの采女の娘と、敏達の皇后が炊屋姫(=推古)のときの皇后の娘となり、時期も格も違い、政略的な意図・ねらいが同じとは言えない。
政略的な意図に大きな差がないと証明できない限り、異母妹がも后や妃になったことは疑惑になどならず、単なる思い込みに過ぎない。
また、こんなことに疑惑を持つのであれば、押坂彦人=馬子であろうとなかろうと、天皇の娘が何人も同一人物の后妃になること自体に疑惑を示さないのは、自己矛盾、御都合主義。
結論:疑惑3は、根拠のない思い込みであり、しかも自己矛盾!
127(1): 2007/04/03(火)15:53 AAS
疑惑4は、没年の記載がないことが疑惑らしい。
疑問ではあるが、没年の記載がない皇子は多いし、皇統上重要なのに没年のない彦主人王などの例もある。
そもそも、>>103「推古天皇と舒明天皇の間に王朝の交代がある」と主張するほど皇統上重要なはずの舒明天皇は生年不詳である。
父の没年が不詳だと疑惑だと大騒ぎするくせに、子の生年が不詳でも無視するというのは御都合主義すぎる。
押坂彦人だけ強調するのは偏った狭いものの見方であり、自己矛盾だ。
また、没年の記載がないことを根拠に押坂彦人は実在せず(馬子の別名)、日本書記等における記載は捏造であるかのように主張している。
しかし、捏造したとしても何故没年の記載をしなかったのか、疑問は膨らむばかりであり、これでは没年の記載がないことの理由にならない。
結論:疑惑4を強調するのは偏狭であり、しかも自己矛盾!
また疑惑4を根拠に、押坂彦人に関する記載が捏造であるとすると、かえって疑惑が増大する。
128(1): 2007/04/03(火)15:55 AAS
疑問5は、推古天皇の娘が馬子には一人も嫁いでいないことが疑問らしい。
何が疑問なのか意味不明である。
>>32で、「時の実力者が王族との婚姻関係を求めるのは普通のことである。」と言いつつ「この時代に皇女が臣下に嫁いだ例はない」と
自ら認めている(認めざるを得ない)。
「例がない」ことが「普通のこと」とは、論理破綻もはなはだしい。
結論:疑惑5は、自ら認める論理破綻!
129(1): 2007/04/03(火)16:08 AAS
疑問6は、中臣勝海の呪殺対象が彦人皇子と竹田皇子の2人であり、馬子を含めた3人でないとおかしいという疑惑である。
これも何が疑問なのか意味不明である。
中臣勝海は物部守屋を助けるため呪殺を行うのだが、臣下の敵は馬子一人ではなく「群臣たちがおとしめようとしている」と記載されている。馬子が必ず呪殺対象でなければならいという必然性は乏しい。
一方、物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしており、その対立候補の彦人皇子と竹田皇子を呪殺対象とするのは不思議ではない。
すなわち、中臣勝海が彦人皇子、竹田皇子、馬子、他の群臣の誰を呪殺対象としようとしまいと、大して疑問とはならない。
馬子を呪殺対象としていたと決め付けるのは単なる思い込みであり、その根拠を示さなければならない。
また、馬子が呪殺対象であったとしても、それを何故押坂彦人(=馬子)と記さなければならなかったのか、疑惑は膨らむばかりである。
>>32では、「日本書紀の編纂者はこのような使い分けによって読者に彦人大兄は馬子と同一人物ではないかという疑念を生じさせることを狙った」「すなわち暗示である」と言っている。
しかし、読者に疑念を生じさせなければならないのはなぜか、どういう基準で「使い分け」たのか、など疑惑は増大するばかりである。
結論:疑惑6は根拠のない思い込み。
省1
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