[過去ログ] 「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 (648レス)
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(23): 広瀬満 2007/03/17(土)07:41 AAS
天皇について議論するには天皇の正体について知る必要があります。
古事記を丹念に研究した結果、天皇家の真の皇祖は蘇我馬子、さらにその祖先は百済の貴族、木満致であるというが判明しました。すなわち天皇家は万世一系ではなく、飛鳥時代に蘇我氏に切り替わっていたのです。
この説はわたしのHPで「大国主伝」としてまとめました。

外部リンク:www.kojikiden.com

この説に対する批評、意見を広く求めます。

広瀬満
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(1): 2007/03/17(土)13:30 AAS
ゲッ
3: 2007/03/19(月)13:15 AAS
突拍子もない話だが面白そうではある・・・・
4: 2007/03/21(水)09:49 AAS
天才大林賢栄君の部屋
外部リンク[html]:www1.ocn.ne.jp

この説に対する批評、意見を広く求めます。
ずっこけるなよ!
5
(1): 2007/03/21(水)10:25 AAS
>>1
蘇我氏自体が、天皇家から分かれた家系。
百済貴族だなんて、とんでも説だよ。

蘇我氏は、武内スクネ系の子孫で、皇別・葛城氏の傍系。
蘇我氏は百済管轄の軍事を担当していたらしく
武内系の豪族で百済貴族の娘を妾にしていて
それに産ました子供が蘇我氏を名乗ったわけで。

蘇我氏が男系で見たら天皇の分家だったからこそ、
彼らは大臣になれたわけで。
大臣は、皇別氏族しかなれなかったの、当時は。
6: 2007/03/21(水)11:15 AAS
>>5
それも記紀や新鮮商事録をそのまま祖述してるだけの話だけだけどな。
歴史学では系図なんてものはアテにしないのが鉄則。
7
(14): 広瀬満 2007/03/21(水)13:34 AAS
天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
日本書紀の用明天皇のあたりの記述を私の「大国主伝」を参考によく読んでもらいたい。
日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。
にもかかわらず押坂彦人大兄皇子の舎人の迹見赤檮(とみのいちい)は蘇我馬子の元で活躍している。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

広瀬満

外部リンク:www.kojikiden.com
8: 2007/03/22(木)09:48 AAS
た、た、確かにおかしい
9
(1): 2007/03/22(木)12:10 AAS
あんまりおかしくない。
蘇我馬子は彦人皇子が消える前から登場している。
迹見赤檮が「彦人皇子の舎人」とは書かれてない。
(むしろ記事からは、赤檮が彦人皇子直属の舎人ではなかったことが読みとれる)
物部合戦で、迹見赤檮が「蘇我馬子の配下」であったとも書かれていない。

>蘇我馬子は大々王
元興寺縁起を読む限り、大々王は女性だし、
大々王が馬古大臣に告宣する場面も出てくる。
別人だな。
10: 2007/03/22(木)12:32 AAS
日本版のFBIを創設しろ!!
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(1): 広瀬満 2007/03/22(木)14:25 AAS
彦人皇子と中臣勝海連の話の後に舎人迹見赤檮と記されているので迹見赤檮は彦人皇子の舎人と見るべきである。
迹見赤檮が彦人皇子の舎人でないとすれば彼はいったい誰の舎人なのか。
迹見赤檮は中臣勝海連が彦人皇子の所から退出するのを見計らって惨殺している。このような状況から迹見赤檮は彦人皇子の命で中臣勝海連を殺害したと見たほうがよい。
ちなみに「聖徳太子伝歴」では迹見赤檮は蘇我馬子の命をうけていたとある。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物であるか否かは大変重要なことなのでここは徹底的な議論を望みます。

広瀬満

外部リンク:www.kojikiden.com
12: 2007/03/22(木)15:09 AAS
>>7 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料に、その何倍、何十倍いや何百倍もの疑問や矛盾が発生することになるが、広瀬満という方は、そういう疑いに気が付かないのであろうか?

一度、落ち着いて、
 押坂彦人大兄皇子≠蘇我馬子 の場合の矛盾点
 押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子 の場合の矛盾点
について、一覧表などを作ってみたらどうですか。
おそらくその作業の途中で、自分の愚かさ加減に気が付くでしょうけど・・・。
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(5): 広瀬満 2007/03/22(木)15:48 AAS
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい。
押坂彦人大兄皇子に関する疑いについては早急に、具体的に説明させていただく。
なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。このことはくれぐれもお願いしたい。

広瀬満
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(8): 広瀬満 2007/03/22(木)19:10 AAS
ここでは押坂彦人大兄皇子はいかに矛盾に満ちた人物であるか具体的に説明していきたい。

1,押坂彦人大兄皇子(以下、彦人皇子とする)の母は敏達天皇の皇后、息長真手王の娘・広姫であるがこの息長真手王が王女が天皇の妃となったこと以外具体的な記述が何もなく正体不明の人物である。広姫という名前も皇族にしては短かすぎる。

2,敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

3,彦人皇子の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人皇子が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。
 この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

4,皇統譜上、彦人皇子は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。
省4
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(5): 広瀬満 2007/03/22(木)19:11 AAS
続き

9,『延喜式』には彦人皇子の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。
 敏達天皇が東西3町、南北3町、天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。

10,彦人皇子の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
 牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人皇子のために造られたのか。

牧野古墳についての情報:外部リンク[html]:www.kojikiden.com

11,推古天皇の崩御後、天皇に即位した舒明天皇は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
 舒明天皇の次も蘇我氏とは血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。
省5
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(9): 2007/03/22(木)23:47 AAS
1.広姫は敏達即位4年目に亡くなっており、先后・石姫も存命と思われ、特記事項が無くても不思議ではない。
  また、この時代、坂田耳子王が中央政治に関わっていた記事が見えるから、同族の息長王家から后が出てもおかしくはない。
  息長広姫あってこその「押坂」皇子だし、「息長足日広額」天皇であろう。
2.先后の意向や存在が重視されたのではないか。(このケースでいえば額田部皇女の意向)
  (例・欽明における春日皇后、乙巳の変時における皇極、天智後の倭姫皇后=大海人の提言、天武没後の持統など)
3.3人が同時に妃だったとは限らない。記と紀それぞれの伝承では2人である。
  (ちなみに平城天皇は異母妹を2人、妃にしている。甘南備内親王を入れれば3人である)
4.舒明が即位したため結果的に皇統譜上重要になっただけのこと。天智の祖母が亡くなったのは天智の時代。
5.この時代に皇女が臣下に嫁いだ例などない。
6.だったら、「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよい。
省8
17: 2007/03/22(木)23:56 AAS
赤檮は「太子」の舎人
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