[過去ログ] 【阿曇・住吉】海人族 Part. 4 【宗像】 (1002レス)
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949
(1): 2019/07/05(金)16:08 AAS
>>948
皇帝からの下賜銅鏡の数と、日本各地で出土する舶載銅鏡の数の比率は1:100くらいだろうな。
その100のほうは、私貿易の中古骨董品だよ。
950: 2019/07/05(金)16:25 AAS
根拠のない妄言はやめたら?
畿内説の表現が下がるだけだよ。
または、根拠を示したら?
951
(1): 2019/07/05(金)16:44 AAS
銅鏡ならいっぱい日本からもでてるからな

いっぱいすぎるくらい
952: 2019/07/05(金)16:46 AAS
流行りあったんは間違いないべ

そんあと作ったんだろ、あんなんなら鍛造でも作れるわ
953: 2019/07/05(金)16:47 AAS
なかなか歪みをとるなあ難しいがな

全部ハンマー🔨で叩きながら作るからよ
954: 2019/07/05(金)16:49 AAS
鍛造ってのは火で炙りながら銅や鉄を熱して金具で打ちつけて薄く伸ばしたり形を整形したりすべて手作業でやるんだよ

日本の刀鍛冶なんかもみなそおやで
955: 2019/07/05(金)16:51 AAS
不純物があったら叩き潰し燃やし尽くして不純物を除去する

まさに叩き上げ
956
(1): 2019/07/05(金)17:16 AAS
>>951

銅鏡が国産かどうかはそもそも判断が難しい。
500枚に登る三角縁神獣鏡が国産かどうか長らく論争となっているのを見ればわかること。
それなのに>>949はわかったかのようなことを書く。
畿内説が嘘つきの集まりであることを象徴しているかのようだ。
957: 2019/07/05(金)17:21 AAS
鉄を熱しながらまっキッキに高温状態のときにやるからな

成形まで手作業ニダ(°▽°)
958: 2019/07/05(金)17:24 AAS
磁鋼石から刀まですべて手作業で作るニダ(°▽°)
959
(1): 2019/07/05(金)18:20 AAS
>>956
3世紀までに皇帝に朝見したのは、記録では奴国1回と邪馬台国2回の計3回だけ。
卑弥呼の時は特別扱いで銅鏡100枚の下賜。
奴国と邪馬台国台与が銅鏡もらったとしても、卑弥呼のと合わせて200枚にはならんだろう。
九州も大和もその他も合わせて、舶載鏡はいったい何枚出てるのか。
最大級の平原遺跡40面、三雲南小路遺跡57面、須玖岡本遺跡55面で合計152面。
このほかに鏡出土遺跡は、九州だけでも多数ある。
こうした弥生〜古墳前期の鏡が全部皇帝からの下賜品だと主張するのは、常識外れといえる。
とすれば、皇帝からの下賜鏡以外の鏡はどういう経路でもたらされたのか。
私貿易の交易品として売買されたと考えるのが妥当。
省4
960: 2019/07/06(土)04:52 AAS
中国鏡が倭にもたらされた経緯について、次のような考えがみられる。

国立歴史民俗博物館研究報告第185集(2014年12月)
「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」(上野祥史)

「日本列島への中国鏡の流入は、漢王朝への遣使という政治交渉を契機としている」
「漢鏡5期鏡には、桜馬場甕棺や平原1号墓など、方規矩四神鏡や内行花文鏡など大型鏡が存在する。その流入の背景には光武帝中元二年(57年)や安帝永初元年(107年)の遣使との関係が想定できるが…」

これは、朝貢によって鏡の取引が許可されるようになったと読むのか、朝貢の時に鏡が下賜されたと読むのか微妙なところだ。
著者は、鏡が倭に流入するようになる理由を「政治交渉を契機として」と認識しており、朝貢時の直接的な鏡の下賜というよりも、
朝貢して皇帝政治の傘下に入るという政治的関係ができたことによって各種文物の取引が許可されるようになったと考えているようにみえる。
鏡の入手は、直接的な下賜もあったであろうが、このような交易の許可によって倭国側が中国業者から鏡を購入するケースが多かったのではないだろうか。

冒頭の表題を検索して、上野氏の論文を通読してみてはどうだろうか。
961
(1): 2019/07/06(土)05:52 AAS
日本の話って証拠でてないの

勝手に妄想を膨らましてそれが事実のよ〜に既成化させてるだけ

それから古代は皇帝が貨幣にしろ独占で鋳造だのできる権限すら握っとらん

民間でそれぞれ勝手に自分らで作ってやっていた
962: 2019/07/06(土)05:54 AAS
調べりゃ調べるほど事実は明きらかになってきてんだよ

皇帝だの政府みたいなんはもともとあったものを規制などにより自分らで管理権のみ握った

これが正解
963
(1): 2019/07/06(土)07:28 AAS
>>959
>こうした弥生〜古墳前期の鏡が全部皇帝からの下賜品だと主張するのは、常識外れといえる。
>私貿易の交易品として売買されたと考えるのが妥当。

それはあなたの頭の中だけの「常識」かな?
964
(2): 2019/07/06(土)07:48 AAS
>>961
>それから古代は皇帝が貨幣にしろ独占で鋳造だのできる権限すら握っとらん
>民間でそれぞれ勝手に自分らで作ってやっていた

根拠は?
鉱山や工房を権力者以外が勝手に営めるとは考えにくい。
私営のところがあれば、権力者は取りに行くだろうし。
965: 2019/07/06(土)07:57 AAS
>>964
>鉱山や工房を権力者以外が勝手に営めるとは考えにくい。

その通り。  若杉山辰砂鉱山を押さえていたのは、狗奴国の卑弥弓呼。   @阿波
966: 2019/07/06(土)15:12 AAS
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること

そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!

庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。

なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
省2
967: 2019/07/06(土)17:23 AAS
>>963
銅鏡が九州にもたらされるのは、弥生中期後半からとされている。
弥生後期が始まるのは50年頃から。
後漢の皇帝に朝貢した最初が57年の奴国だから、銅鏡の流入はその奴国の朝貢以前から始まっているということ。
ということは、奴国の後漢への朝貢以前から九州に流入していた銅鏡は、私貿易でもたらされたものということになるのでは。
やはり、銅鏡の私貿易はあったとするのが、常識でしょ。
968
(2): 2019/07/06(土)18:01 AAS
平原遺跡、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡は弥生中期後半〜後期にかけての遺跡で、
ここから銅鏡が合計152面出ている。
この時期は卑弥呼の朝貢の前であり、中国史書の107年の帥升は朝貢できなかった可能性が高いことから、この時期に九州から後漢への朝貢があったのは奴国だけ。
この奴国が後漢皇帝から152面もの銅鏡を下賜され、それらが分配されたとは、ちょっと考えにくい。
また、平原の王が朝貢したようには見えないが、それでも平原遺跡では40面の銅鏡が出ている。
この40面の銅鏡は、どのような経緯で平原の王の墓に副葬されることになったのか。
私貿易の存在を想定するのは、妥当だと思われるのだが。
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