[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
722: 2021/08/09(月)13:04 AAS
伊都説だと、柏崎遺跡が笠沙の岬に比定されますから、
次代のコノハナサクヤヒメは末蘆王家の王女ですね。

オルドス式短剣が柏崎遺跡と琵琶湖の高島市から出土しています。
サルマタイ系のお抱え渡来工人がいて、
その頭領が高島市の熊野本遺跡に鉄工房を与えられていたわけですね。

要するに、天津国玉は末蘆王家の天神族であり、
カモ女王の多紀理ヒメを娶って、天若日子が産まれていた。
その多紀理ヒメを大国主が無理矢理奪い取った。

ニニギがコノハナサクヤにあのような嫌疑をかけたのは、
そのような時代背景があったから、ではないでしょうか。
723: 2021/08/09(月)13:05 AAS
八上ヒメ時代の銅鐸分布から考えると、
銅矛銅剣戦争終結時に、カモの東方領土は、
琵琶湖を中心とする大山咋領域と、
瀬戸内四国の大山祇領域と、の二大領域があったわけですね。

中広形銅矛将軍は、カモの瀬戸内高地性集落群=木俣、を制圧して、
淡路島に五斗長垣内遺跡を建設した。

天神族系の末蘆王家は、カモと婚姻して琵琶湖方面の領地を保有していた、
その東端が美濃国だったし、
銅鐸が既に京都市にも入りこんでいた、ということになりますね。
724: 2021/08/09(月)14:13 AAS
三遠式銅鐸は、諏訪に逃げ込んだタケミナカタ勢が配備した銅鐸ですね。

諏訪タケミナカタにとっては、愛知県と越後とを防備すれば、東国は守れます。

越後から攻め込まれる分には、侵攻できる山道が限られますので、
山城でしっかり防備して、いくつかの抜け道にだけ銅鐸を配備しておいた、ということでしょう。
越後からはあまり攻め込まれず、最後に銅戈軍の精鋭部隊が攻め込んできて制圧され、
長野に配備されていた三遠式銅鐸はまとめて柳沢遺跡に埋納されますね。

一方の愛知県では、三遠式銅鐸は、銅戈勢力側の近畿式銅鐸と対峙しています。

ちなみに、銅戈軍はニギハヤヒ(+カモ族)ですね。
金属製武器フル装備で、朱塗り盾に巴型銅器。
近畿式銅鐸はカモ銅鐸の最終進化形ということになります。
省5
725: 2021/08/09(月)14:13 AAS
三遠式銅鐸が東国にとっての防衛境界に綺麗に出現している。
ということは、
東国は既にある程度統一されていたことになります。

タケミナカタより先に、諏訪を支配していたと言われる、守矢氏などが、
東国をある程度まとめていた可能性が高くなります。
ただし、前方後方墳の建設などはもっと後の話ですし、
王権を示唆する遺物遺跡はありませんから、
王というよりは、各地の首長をまとめる長くらいの立場だったのでしょう。

琵琶湖からカモ族が領土拡張してきたことで、
畿内毛人と東国蝦夷は分断され、
省2
726: 2021/08/09(月)14:14 AAS
>>413
70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込むわけですが、
その時のタケミナカタ軍は五斗長垣内遺跡を擁して、金属製武器フル装備ですから、
70年の時に守矢氏に勝利すること自体は可能でしょう。

しかし、すぐに追ってきたタケミカヅチ軍と対峙する必要があります。

追ってきたタケミカヅチに、逃げ込んだばかりのタケミナカタがすぐに負けた場合、
捕縛処刑されて、諏訪にタケミナカタの痕跡は残りませんね。
また、後に銅戈が攻め込んでいるということからも、
タケミナカタが降参したのは70年当時ではなく、ニギハヤヒ軍が整備されて、銅戈を使い始めてから、
ということになります。
省5
727: 2021/08/09(月)14:14 AAS
>>362
59年頃から疫病があったけれども、なんとか持ち直した。
タケミナカタ軍が諏訪攻略に取りかかった。
諏訪攻略中に、70年奴国大洪水が起きた。
タケミナカタ不在の好機を逃さず、天神族が軍を出して奴国王が捕縛された。
大慌てで引き返してきたタケミナカタ水軍だったが、決戦に敗れた。
諏訪はある程度攻略済みだったので、諏訪に逃げ込んで防備を固めた。

これなら無理が無くなりますね。
728: 2021/08/09(月)14:56 AAS
西からやって来た異人であるにも関わらず、
なぜにタケミナカタが東国蝦夷に支配者として支持され続けたかというと、
銅戈軍に征服された畿内毛人の運命が原因でしょうね。

銅戈軍に征服されると、畿内毛人のように生口にされる。

だからこそ、軍事経験豊かで、北部九州の進んだ制度をもたらしてくれる(>>714)、
タケミナカタを中心にして防衛したのでしょうね。
729: 2021/08/09(月)14:57 AAS
70年代に銅戈軍が発足したとして、
107年には160人もの生口を送っています。

庄内式土器は銅戈勢力の考案した海上輸送用の土器ですね。
積載重量を軽減するため薄手で、
揺れる舟にて、木組みに嵌めて固定するために尖り底になっています。

対照的に、諏訪箕輪(諏訪大倭三輪)は陸上輸送ですから、S字甕は平底ですね。
輸送途中で休みたい時に地面に置けますからね。
730: 2021/08/09(月)14:57 AAS
銅戈軍が諏訪を占領したのは、短期決戦ですね。

なぜかというと、柳沢遺跡で銅戈で勝利式典を行っているのに、
関東には石製祭祀型銅戈で貝輪を追いかけているからです。

長野での勝負があっさり決まったが、
タケミナカタ勢の大将(伊豆早雄命?)が関東へ逃げた。

銅戈軍の隊長は、
北部九州から追加の銅戈が到着するのを待ったり、
あるいは現地で青銅器を溶かして銅戈を作ったりする、
その時間も惜しんで、
すぐ長野から出陣して、関東で追いついて捕縛した。
省1
731
(1): 2021/08/09(月)14:59 AAS
経験豊富な軍神タケミナカタ本人が存命の間は、
銅戈軍が越後から攻め込もうとしても散々に打ち破られた。
だから銅戈軍は、まずは大阪湾上陸作戦に集中したわけですね。

しかし、
タケミナカタもいずれ亡くなり、
山育ちの息子たちだけになりますね。

さらに、青銅器鉄器の供給が断たれていますから、
金属製武器が枯渇していきます。
S字甕の分布と一致して出土する、多孔銅鏃というのは、
要するに、青銅器の原料が枯渇してきて、少しでも銅を節約するために、
省5
732: 2021/08/09(月)15:01 AAS
時系列としては、
・70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込む
・しばらくはタケミナカタ軍は強いので、銅戈軍は大阪湾上陸に専念する
・銅戈軍が畿内を制圧していく

・タケミナカタ死去、諏訪東国の金属器枯渇
・銅戈軍精鋭部隊が諏訪占領、諏訪大将を関東まで追いかけて捕縛
・東国は諏訪傀儡政権の下、銅戈軍の支配下に入る

・反乱予防、忠誠心の証、として、諏訪東国各地で前方後方墳を建設
・生口として北部九州へ大量連行され人口の減った畿内へ、東国から人員補充(庄内式土器の流れ)

蛇鈕金印だから蛇神と自称。
省2
733: 2021/08/09(月)18:25 AAS
長すぎるのと、想像で繋いでいる部分が多すぎて事実と区別されていない。
当たっている部分もあるかもしれないが、読む気が起きない。
もっと短くわかりやすい表現を心がけて欲しい。
734: 2021/08/09(月)19:18 AAS
中広形銅矛が大国主=奴国王で、57年金印を貰いました

奴国王は70年に失脚しましたが、金印はタケミナカタが持って逃げました

タケミナカタは諏訪に逃げ込んで、三遠式銅鐸を前線配備して徹底抗戦しました

銅戈ニギハヤヒ軍は、まず畿内を占領してから、次いで諏訪を占領しました

諏訪に金印は無く、実はタケミナカタの息子が持たされて長崎に隠れていました
省2
735
(2): 2021/08/10(火)00:40 AAS
魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした

だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした

魏志倭人伝に書かれた日程は、238年金印の時のものです

当時の伊都で女王之所都は平原女王墓周辺に遷都していました
736: 2021/08/11(水)04:26 AAS
なんで金印が志賀島から出土したかというと、
>>707
一族の女系の祖は八坂刀売神でもあるからでしょうね。

そもそも金印などを持っていたから、八岐大蛇系のタケミナカタ一族は
200年も東西の辺境で耐え忍ぶこととなった。
一方のカモ系アジスキタカヒコネやワニ系コトシロヌシは一度は降伏しましたが、
それぞれ早期に中央政界に返り咲いています。
栄枯盛衰を悟った難升米あるいはその一族の方から進んで、
母方の縁がある豊国有力者アズミ族へ金印を献上して、身分保障してもらったのでしょう。

>>698
省8
737: 2021/08/12(木)23:35 AAS
1世紀初頭
・中広形銅矛将軍=奴国王と平形銅剣女王が夫婦喧嘩で全面戦争
・銅矛銅剣戦争の末期に奴国王が土井ヶ浜遺跡女首長を口説き落とす >>323>>341
・荒神谷遺跡で降伏調印式 >>398
・その頃に出生

1世紀前半
・半島出兵で活躍 >>358-359
・水軍大将に任ぜられ、対馬海峡〜雀居遺跡〜下関〜五斗長垣内遺跡を巡視して回る

55-56年:楽浪郡使を侏儒国(五斗長垣内遺跡・若杉山遺跡)へ案内
57年:倭の奴国王の使者として水軍を率いて奉貢朝賀(後漢書『使人自稱大夫』)
省6
738: 2021/08/12(木)23:36 AAS
奴国王の息子には他の有力部族の縁者も多い中で、水軍大将に抜擢されるには、
半島出兵で相当の戦果をあげた、ということですね。
そうなると、当然そこに相応の領地を得ていたことでしょう。

筑摩はもともと「ちくま」ではなく、「つかま(豆加萬)」であった、とのことですし、
諏訪(周防)から見て、北西にある、
ということから、
半島南部の、つ(か)ま國=投馬國であった、可能性がありますね。

投馬國は、それぞれの時代にそこを所有していた一族にとっては、当然重要な領地であり、
諏訪に移動した一族は、投馬國→筑摩つかま、という地名をつけたし、
宮崎に移動した一族は、投馬國→都萬、という地名をつけたし、
省1
739: 2021/08/12(木)23:38 AAS
また、役所を設置しただけでなく、>>714
わざわざ箕輪という地名まで残していること。

銅矛銅剣戦争で言うならば、銅剣勢力は当時敗者であったこと、
下関に名を残していること、
などから、
勝者として瀬戸内を巡視していた、のでしょうから、

そうなると、瀬戸内経済圏を担当する大倭、の海運を管理していたことにもなり、
また金印を保持していた=管理していた、ことからも、

彼が、初代の大倭長官=大物主であった、可能性が高いですね。
740: 2021/08/18(水)16:04 AAS
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

外部リンク[html]:www.seibutsushi.net
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
省1
741: 2021/08/19(木)15:02 AAS
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
省3
1-
あと 17 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.411s*