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邪馬台国畿内説 Part694 (1002レス)
邪馬台国畿内説 Part694 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/
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82: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:10:50 80 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/82
83: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:11:20 奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。 奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。速く貼り付けろ。奥山氏よ、急げ。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/83
84: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:11:21 ◆FAQ 76 Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない! 最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ! 8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ! 古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか! A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。 こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。 本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。 北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。 更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。 概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。 律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77 Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか! 前方後円墳体制など、夢想だ! A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。 前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。 こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/84
85: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:11:52 ◆FAQ 78 Q:投馬国までは「水行二十日」だ! 里数が書いてないではないか! つまり投馬国は「女王国以北」ではない! 投馬国は南九州でよいのだ! A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。 『九章算術』巻第六「均輸」に 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。 本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」 とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」) であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。 乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、 縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」 「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。 三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に 「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国; 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」 とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。 ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 もとより倭人伝は倭人の国々を 1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、 2)其余国遠絶、不可得詳 と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。 戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。 倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/85
86: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:12:22 ◆FAQ 79 Q:纏向の大型建物? ただの倉庫だろう? A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。 纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照) 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。 ◆FAQ 80 Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない! 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ! 魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! ただ当時の風説を書いたのだ! A:初歩的な誤りである。 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/86
87: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:12:53 ◆FAQ 81 Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ! だから邪馬台国は畿内ではない! A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。 現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。 よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは ・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー ・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 https://i.imgur.com/XIb0RqF.png ◆FAQ 82 Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか! このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない! A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018) 初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/87
88: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:13:24 ◆FAQ 83 Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか! 鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ! A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。 ●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山 吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。 ●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳 鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読) 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。 「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。 「君?高官」「保子?孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。 「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で 「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。 本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。 続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君?高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/88
89: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:13:56 ◆FAQ 84 Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか! 古墳とは違うのだ! A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。 本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。 中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。 諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。 因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。 常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。 「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85 Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ! A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。 今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006) 4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/89
90: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:14:23 ワシントンウイザーズの闘いが、ギリギリの死闘になっているな。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/90
91: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:14:27 ◆FAQ 86 Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ! 日本の古墳は平坦で、高くない! 卑弥呼の冢は古墳ではないのだ! A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。 驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。 https://i.imgur.com/u5jP0OI.png https://i.imgur.com/EyIx7C7.png ◆FAQ 87 Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある! 「好物」は「よきもの」と訓じるのが正 特鋳説の根拠にはならない! A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/91
92: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:14:46 梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/92
93: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:14:58 ◆FAQ 88 Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ! A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89 Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ! 3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな! A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。 3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。 本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。 ・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。 対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は ・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏 ・中西部瀬戸内が平形銅剣圏 ・東辺が三遠式銅鐸圏 に分裂している。 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。 https://i.imgur.com/EXTU3lu.png http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/93
94: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:05 梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/94
95: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:05 梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/95
96: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:05 梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/96
97: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:21 梅。梅。梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/97
98: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:15:29 ◆FAQ 90 Q:倭人伝は短里で解釈するしかない! 短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ! A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。 敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。 以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。 「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔) 「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具) 「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀) ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫) 「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」 「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注) ※晋元康年間:291〜299 「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』) ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289 (始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽) 「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽) ※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91 Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ! 10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ! A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/98
99: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:34 梅。梅。梅。梅。梅。梅。梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/99
100: 日本@名無史さん [] 2021/03/18(木) 09:15:34 梅。梅。梅。梅。梅。梅。梅。梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/100
101: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/18(木) 09:16:02 ◆FAQ 92 Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている! 周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ! A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。 『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。 しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。 二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。 北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93 Q:畿内とは何だ! A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。 改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616024357/101
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