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邪馬台国畿内説 Part695 (1002レス)
邪馬台国畿内説 Part695 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/
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28: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:08:29 奥山氏、作業が、遅いぞ。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/28
29: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:08:52 ◆FAQ 3−1 Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか! A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40) 故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。 また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。 加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照) (本項 続く) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/29
30: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:09:25 (承前) ◆FAQ3−2 ※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による) 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里 予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里) 交趾郡:雒陽南萬一千里 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定) 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、 楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/30
31: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:09:27 0 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/31
32: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:09:57 ◆FAQ 4 Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる! A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。 よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。 ◆FAQ 5 Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する! A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」) 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。 (「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」) 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。 ◆FAQ 6 Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ? A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/32
33: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:10:06 梅。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/33
34: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:10:29 ◆FAQ 7 Q:纒向から九州の土器が出ないではないか! 纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう? A:そのような事実はなく、当然交流があった。 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照) このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照) ◆FAQ 8 Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな? A:読み替えない。 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9 Q:狗奴国はどこだ? 女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら 女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か? A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/34
35: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:10:42 1 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/35
36: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:10:45 1 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/36
37: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:11:01 ◆FAQ 10 Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ! 年代が判るという考古学者はおかしいではないか! A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11 Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう! それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか? A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。 ・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」 ・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」 とみられる。 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/37
38: 日本@名無史さん [] 2021/03/20(土) 21:11:21 6 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/38
39: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:11:33 ◆FAQ 12 Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている! 畿内説は倭人伝と合わないのではないか? A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、 実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと 。 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。 記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。 加えて 「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910) の指摘は今日も有効である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/39
40: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:12:05 ◆FAQ 13 Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている! 古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない! A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。 呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。 石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら) 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。 就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。 これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。 ◆FAQ 14 Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか? A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/40
41: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:12:37 ◆FAQ 15 Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ! A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、 南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から 「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011) と結論されている。 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。 古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002) という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/41
42: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:13:09 ◆FAQ 16 Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない! 九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう! A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。 ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17 Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ! A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 18 Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ! A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。 したがって測定は存在しない。 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。 西漢末成立と考えられる周髀算經においても 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正 則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」 とあり、1里=1800尺が維持されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/42
43: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:13:42 ◆FAQ 19 Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか! これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる! A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。 魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20 Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6 これで説明が付く! A:そのような整合性は認められない。 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む) 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/43
44: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:14:14 ◆FAQ 21 Q:箸墓の周濠から馬具が出土している! 箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ! A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。 郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。 現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/44
45: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:14:47 ◆FAQ 22 Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない! 同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る! A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。 http://i.imgur.com/rYVZcSP.png これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。 大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。 https://i.imgur.com/VKIld2Q.png 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、 そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/45
46: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:15:19 ◆FAQ 23−1 Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない! A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。 (河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。 1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築 2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。 ※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。 4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。 5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成 以上の段階1〜4で方丘が存在していない。 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。 ※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。 前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。 (本項 続く) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/46
47: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/03/20(土) 21:15:51 (承前) ◆FAQ 23−2 ◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと ◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと ※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。 ◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと ◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること ◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること ・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86) ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総 ・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式 ・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984) ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998) ◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること ◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること ◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24 Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616241696/47
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