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邪馬台国畿内説 Part703 (1002レス)
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1 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/05/21(金)12:33
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15: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/05/21(金) 12:33:04 ◆FAQ 4 Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる! A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。 よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。 ◆FAQ 5 Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する! A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」) 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。 (「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」) 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。 ◆FAQ 6 Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ? A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1621567474/15
向遺跡は七万戸だという邪馬台国には小さすぎる! 誰も向遺跡邪馬台国だなどと主張はしていない 向遺跡は女王の居た王都であり国ではない また邪馬台国は大和国と言う表現を用いる諸説も多くは邪馬の語源音写元についての言及であって領域としての令制大和国という定義を主張していない 畿内説においては邪馬を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解内藤以来大きなブレは無いものの令制国のと3世紀とでは時間差による異同が無視できない よって邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの令制五畿の概念に代えて考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第様式分布域を想定する また邪馬台国と女王国をでなくで考えた場合向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある 中勢地域が纏向と結びつく原因としては東海航路の地政的意義に加えこの地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある 方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する! 年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認したさらに対馬は東西に長い島東西約三百里南北はそのと著書海録に記す東西可三百里南北三之一分 佐須浦現対馬市上県町佐須奈は対馬の北西端府中現厳原はそこから東実際は南二百六十里と書く 自此西距釜山四百八十里東至島主府中二百六十里 小船越では実際昇る朝日を見ているのに依然東に進んでいると考えており彼の地理勘はちょうど度狂っている 対馬から見て釜山を西大阪京都を北長崎を東と認識している ところが対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず江戸は京都の東千三百里と正しく把握している むろん遭難などせずちゃんと日韓を往復している このように使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに誤情報の入によって全体の整合性は易と喪失することが明らかである 畿内説では卑弥呼は記紀の誰なんだ? 記紀の王統譜をそのまま史実と見さないため卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当てめない近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している
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