[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part706 (1002レス)
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523(1): 2021/07/07(水)18:23 AAS
>>514
>魏志に丹山の記があり
九州にも「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」の痕跡はあるし、「其山有丹」の例もあるし、
明帝の「鉛丹」の痕跡は不明だが、「丹木」を上獻した記録はある。
>都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也
「則魏志所謂邪馬臺者也」は、3世紀の同時代文献での記録ではなく、
はるか後代の唐代の魏徴らの「魏志倭人伝に関しての自己解釈に拠る書き変え文」情報という、
信頼性や確率が殆どない文であり、証拠にならない。
>日本書紀
即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造新館於難波高麗館之上
省6
524(1): 2021/07/07(水)18:34 AAS
>>515
>「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
などの記禄はない。
唐会要の、(日本國伝ではなく)、
倭國伝の「北限大海西北接百濟正北抵新羅西南與越州相接」に拠って、
「西北接百濟正北抵新羅」の方向指定は、北部九州を指している、という事は、
人類の常識である。
大和説学者らは、終わっている。
525(2): 2021/07/07(水)18:53 AAS
>>520
>雄略の時代にはすでに関東まで平らげていたらしいけど、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の倭王武らは、九州倭國の王であり、
書紀に書かれた大和の雄略らは、九州倭國の別種分家の阿毎氏の、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」の旧小国の王であったに過ぎず、
雄略が「関東を平らげていた」事にはならない。
>古墳時代の前方後円墳が畿内より関東の方が多いということは、
前方後円墳の多くは、皇族じゃなくて、制圧された被害者側の埋葬の可能性ない?
大和でも関東でも、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍や武将らが、
征服した毛人や蝦夷や、出雲系などの銅鐸祭祀部族らを生口や守墓人にして、
省1
526: 19:00Live 2021/07/07(水)19:01 AAS
学校では教えない元寇の真実とは|小名木善行
動画リンク[YouTube]
527: 2021/07/07(水)19:46 AAS
>>525
そうやって
「九州説は正しい」→「ゆえに九州説が正しい」
という論理を振り回している限り
九州説は永遠に
学問の世界には入れてもらえないんだよ
528(1): 2021/07/07(水)20:19 AAS
>>524
半島に近いから当然あるが方向指定のみであり、
「倭國の中心は北部九州」にはならない。
白村江の戦い、守人、鎌倉時代の元寇、秀吉遠征等
みれば、九州は中心にならない。近い所に都は置かない
529(1): 2021/07/07(水)20:35 AAS
卑弥呼、壱与,大和の系譜だな。
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
530: 2021/07/07(水)21:29 AAS
正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣され、
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年の間)
に書かれた、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
『魏志倭人伝』の、「その余の旁国二十一カ国」
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、
對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、
邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。
531: 2021/07/07(水)21:32 AAS
AA省
532: 2021/07/07(水)21:33 AAS
>穴にはウロとの発音もありウロ地が短縮してウ地→宇治、となったと思われる。
>宇治には抜け道、抜け穴、の意味があり京都宇治も琵琶湖への抜け道で
>伊勢宇治山田も浜名湖への抜け道、江戸城大奥にも宇治の間には抜け穴用、
>隠れ部屋が有ったと云われてる。
>関門海峡に有った「穴戸国」も「ウロ戸国、ウ戸国」と発音してた可能性がある
>つまり博多湾奴国の手前と思われる「烏奴国」は「穴、ウロの国」では?
>宇部市には宇治部が有ったのも玄界灘への抜け道ですんなり理解できる。
虚/空/洞/穴/(うろ)の意味 - goo国語辞書
内部が空になっているところ。うつろ。ほら。空洞。「古木のうろ」
533(1): 2021/07/07(水)22:09 AAS
>>525
なるほど
「大倭」を役職名と分かっている人って2chにはどれくらいいますか?
>>528
その通りで、だから絹も神器も、東進して畿内に落ち着いたのでは?
まだl邪馬台国は卑弥呼の時代は、
伊都国を中心とした(半島南部含む)エリアのみが連携し、畿内は別の倭種
関東もまだ別の倭種
534: 2021/07/07(水)22:19 AAS
倭国のエリアが急拡大して不審がられるのは隋か唐の時代
逆に言うと、
それ以前は九州の倭国、岡山の水軍を中心にした倭種の国、東海や関東の倭種の国などまだ地域王国の段階
いきなり日本中が統一されていたわけがない
535(1): 2021/07/07(水)22:42 AAS
卑弥呼や台与には子どもがいない 天皇の系譜と彼女たちは無関係
台与の退位は記録が無いが、266年の朝貢は台与だったと思う
ここから421年の倭王讃の朝貢までは中国側の記録は無い
倭王讃は允恭天皇と重なる時代 412年に即位
台与の朝貢のすぐ後に
日本に天皇制が生まれた
応神天皇が270年に即位、仁徳天皇が313年に即位している
応神天皇の母である神功皇后は、そのワンダーウーマンぶりが偉大な卑弥呼を想起させる伝説だと思う
熊襲征伐や神武東征、三韓征伐などは神がかった武力を誇示する逸話だと思う
536: 2021/07/07(水)22:44 AAS
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
537: 2021/07/07(水)22:51 AAS
卑弥呼は天照大神の神話となった
卑弥呼の後継者を打ち負かして天皇の治世が始まったが
神話と儀式と国名と首都はそのまま受け継いだ
新嘗祭などは卑弥呼の時代に始まったもの
さらに時代を経ると天皇の性格も卑弥呼に似て来た
卑弥呼が天皇制の精神的なバックボーンになったと言えると思う
538: 2021/07/07(水)23:26 AAS
東晋が317年に建国してから、百済は372年に鎮東将軍、高句麗は413年に
征東将軍に任ぜられている
倭王讃は宋の建国の後421年に安東将軍に任ぜられている
台与の後、一世紀と少し、日本が形成された時代といえると思う
539(1): 2021/07/07(水)23:29 AAS
>>535
伊都国には王はいる
卑弥呼、壱与は九州以外から来たのである。
国際関係上や紛争地域である
九州にいただけである。
540(1): 2021/07/07(水)23:37 AAS
>>533
邪馬台国 卑弥呼の時代は、
丹山有の記で
北部九州から三重あたりまでを
含むエリアである。
541: 2021/07/07(水)23:38 AAS
>>539
卑弥呼がいたのは邪馬台国
この首都の名前は魏志倭人伝に一度しか出てこない
日本人は何故かこの名前にロマンを感じて国名がそうだと思いがちだが
あくまで卑弥呼が住んでいた都の名前
国名は倭国
伊都国の王は良く解らないが特殊な事情で卑弥呼の時代も従来どおり王を名乗っていたものだろう
卑弥呼は倭国の王
542(1): 2021/07/08(木)01:05 AAS
>>523
魏志倭人伝のみ絶対視?
おかしな話である。
それ以外は隠蔽盗用造作した半分偽書?
隋書、旧唐書、新唐書等も中国では正史として重んじる。
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