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邪馬台国畿内説 Part718 (1002レス)
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1 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/08/22(日)19:33
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58: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/22(日) 19:33:31 ◆FAQ 68 Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい! A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。 墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。 布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は 但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69 Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている! このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ! 魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり 護軍将軍である淵の任地は都である! A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。 「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。 行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629626553/58
ホケノ山は布留式で箆被のある銅も出ているから世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい! 3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されているそれより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で3世紀後半とされる ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため墓上の追祭遺物と墓内遺物の判別に難があったまた小型丸底土器の評価にも争点があり帰属年代について論争があった しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘された字を以て完成時期を纏向3類中葉庄内2とする豊岡結論が最終的とみてよい 墓上破砕祭に供された画文帯神獣鏡非完鏡の年代観菱雲文編年により頃製造の鏡上野とも合致する 布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する 箆被をもつ銅は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが実際は 但馬駄坂舟隠号墓丹後内和田号墓近江桜内遺跡尾張朝日遺跡三河下懸遺跡などの地域にて弥生後期終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いておりホケノ山の年代と整合性がある 建安年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が公在反覆四千里と言っている! このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから短里が使われていたのだ! 略曹公置都護軍中尉置護軍将軍亦皆比二千石旋軍並止罷とあり 護軍将軍である淵の任地は都である! 夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する 都護軍の都は都督と同じで首都の意ではない旋軍並止罷と文章が続いており護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである 上記の続漢志劉昭注は本文雑号将軍衆多皆主征伐事皆罷に付されている事皆罷旋軍並止罷とあるとおり護軍将軍は外征時特任の官であり征戦より帰還すれば任が解かれる 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安十七年太祖乃還以淵行護軍将軍督朱霊路招等屯長安破南山賊劉雄降其衆遂超余党梁興於之斬興 行護軍将軍として長安に駐屯し以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している漢中侵攻時は行都護将軍征西将軍を歴任し陽平で戦死した 長安よりまで往還四千里はの正常な里尺が用いられている
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