[過去ログ]
邪馬台国畿内説 Part719 (1002レス)
邪馬台国畿内説 Part719 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
20: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:41:18 ◆FAQ 15 Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ! A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、 南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から 「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011) と結論されている。 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。 古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002) という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/20
21: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:41:50 ◆FAQ 16 Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない! 九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう! A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。 ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17 Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ! A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 18 Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ! A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。 したがって測定は存在しない。 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。 西漢末成立と考えられる周髀算經においても 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正 則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」 とあり、1里=1800尺が維持されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/21
22: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:42:22 ◆FAQ 19 Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか! これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる! A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。 魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20 Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6 これで説明が付く! A:そのような整合性は認められない。 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む) 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/22
23: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:42:53 ◆FAQ 21 Q:箸墓の周濠から馬具が出土している! 箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ! A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。 郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。 現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/23
24: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:43:25 ◆FAQ 22 Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない! 同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る! A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。 http://i.imgur.com/rYVZcSP.png これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。 大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。 https://i.imgur.com/VKIld2Q.png 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、 そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/24
25: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:43:59 ◆FAQ 23−1 Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない! A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。 (河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。 1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築 2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。 ※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。 4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。 5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成 以上の段階1〜4で方丘が存在していない。 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。 ※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。 前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。 (本項 続く) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/25
26: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:44:32 (承前) ◆FAQ 23−2 ◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと ◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと ※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。 ◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと ◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること ◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること ・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86) ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総 ・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式 ・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984) ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998) ◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること ◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること ◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24 Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/26
27: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:45:11 ◆FAQ 25 Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか! A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。 ・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実 ・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能 ・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 26 Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない! ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。 なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/27
28: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:45:42 ◆FAQ 27 Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい! A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28 Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い! 卑弥呼の墓があるのは九州だ! A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。 ◆FAQ 29 Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ! A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。 「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報) 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。 茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。 九州説にとって不利な条件と言える。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/28
29: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:46:12 ◆FAQ 30 Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ! 箸墓の築造と時間差があるだろう! A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。 「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。 「田豐以諫見誅」(魏志荀?)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/29
30: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:46:44 ◆FAQ 31 Q:投馬国はどこに比定するのか? A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、 これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。 https://i.imgur.com/TFlMqXz.png また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。 伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/30
31: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:47:16 ◆FAQ 32 Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか? A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 これが部分的利用に留まる所以である。 ◆FAQ 33 Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 と倭人伝にある! 海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない! A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/31
32: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:47:48 ◆FAQ 34 Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ! 伊都国は隆盛のさなかである! A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000) 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。 それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991) 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/32
33: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:48:19 ◆FAQ 35 Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ! A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007) 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。 ※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/33
34: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:48:50 ◆FAQ 36 Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ! A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照) 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37 Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない 纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ! A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/34
35: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:49:21 ◆FAQ 38 Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか! 仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ! A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照) 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。 「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。 農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、 弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/35
36: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:49:53 ◆FAQ 39 Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である! 邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう? A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40 Q:倭があるのは会稽「東治」の東である! 九州でいいではないか! A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。 http://i.imgur.com/BOEvc2X.png 行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。 そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。 東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。 https://i.imgur.com/E6TFLyl.png http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/36
37: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:50:24 ◆FAQ 41 Q:平原1号を見よ! 九州には古くから三種の神器がある! 大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう? A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀) 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ※内行花文鏡の幾何的設計原理 円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。 この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。 この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/37
38: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:50:56 ◆FAQ 42 Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか! 新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ! A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 申敬?は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。 しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。 これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/38
39: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/26(木) 22:51:28 ◆FAQ 43 Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ? 炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない! 確かな根拠などないだろう! A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。 その築造年代を端的に示す紀年銘塼が ・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘 ・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘 ・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘 ・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である 以上から 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系) →1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系) →1BIV型式(3世紀後葉以降:末期) という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。 凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001) また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008) よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照) 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期 の目安が得られる。 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629984661/39
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 963 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.011s