[過去ログ] 【祿壽應穩】伊勢早雲庵宗瑞 part02【針積玉碎】 (1002レス)
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233: 2021/11/06(土)01:22 AAS
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。
議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証がたった一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
俺の生業である工学技術の世界は勿論、文系の世界でも同じ筈で、それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。
素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると俺は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。
(続)
234: 2021/11/06(土)01:24 AAS
(承前)
明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。
黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、理工学系の知見から地震の実在が再肯定される中、自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。
明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。
(続)
235(1): 2021/11/06(土)01:28 AAS
(承前)
明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。
しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
省6
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