[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part783 (644レス)
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68: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:40 AAS
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 画像リンク[png]:i.imgur.com
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
省16
69: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:41 AAS
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
省15
70: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:41 AAS
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
省11
71: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:42 AAS
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
画像リンク[png]:i.imgur.com
画像リンク[png]:i.imgur.com
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
省10
72: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:43 AAS
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
省16
73: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:43 AAS
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
画像リンク[png]:i.imgur.com

◆FAQ 100
省14
74: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:44 AAS
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
省6
75: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 2022/04/30(土)15:45 AAS
以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
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省1
76
(2): 2022/04/30(土)16:06 AAS
纒向遺跡の発掘をやっていた関川さんが纒向は邪馬台国とは関係ないと言っているんだから、関係ないんだろ
纒向が邪馬台国の都だとかいう妄想を語るのはいい加減にもうやめろ
77: 2022/04/30(土)16:48 AAS
>>432
>ジャップ気づいてしまうw 「邪馬台国」「卑弥呼」は蔑称・・・・・

「ジャップ」って何だい?。変な日本語を使うなよ。
それに「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言だから、
それを使う人物は、詐欺師である事になるなあ。

>山本ともひろ・・・午前、自民党文科部会を開催。

自民党文科部会なら、(皇国史観大和説贔屓の)文科省とツウツウの筈だな。

>九州大学の川本芳昭名誉教授から「邪馬台国・卑弥呼の呼称と国号日本との関係」と題して講演して頂き、
邪(よこしま)、卑(いやしい)は、当時の中国が周辺国を文明が劣ったものとして蔑称の意味で
それらの文字を当てたことが良く分かりました。今後どうすべきか考えます!
省10
78: 2022/04/30(土)16:58 AAS
>>432
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の指摘に反論出来ず、
「畿内」や「邪馬台国」などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使っている大和説学者らは、
頭が悪くて、クルっている、という事の証拠。
79: 2022/04/30(土)18:05 AAS
>>76
関川は言ってることがおかしいから橿考研で干されたんだろ
80: 2022/04/30(土)18:18 AAS
関川が纏向遺跡の発掘に関わったのは新卒のころだな
81: 2022/04/30(土)18:23 AAS
若い優秀な日本考古学者の感性

VS

反日スパイ
82
(1): 2022/04/30(土)18:25 AAS
纏向遺跡は古代物部の遺跡だと思っています。

根拠は、

・日本書紀でニギハヤヒが神武に屈服する場所が桜井市外山(トビ)だと思われる事

・先代旧事本紀ではニギハヤヒが複数の瀬戸内集団を伴い畿内入りしている事、
これは寺沢さんが2013纏向学で示された纏向遺跡の主要要素「筑紫、吉備、讃岐、播磨」と符合すると思われる事

・大王で確実に纏向に宮を構え、纏向に埋葬されているのは崇神天皇ですが、母親は物部であること
省15
83: 2022/04/30(土)18:32 AAS
というわけで、箸墓古墳は布留0式古相、270年ごろから建造開始、
300年ごろに完成、被葬者埋葬。

崇神の先代で纏向地域の主といえば、崇神のお母さんのイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成していたイカガノシコオしかいない。
箸墓古墳は崇神の叔父の墓である。

何が卑弥呼の墓なもんか、アホの>>1
84
(2): 2022/04/30(土)18:56 AAS
前方後円墳は方墳勢力と円墳勢力の政治的融合を意味してるんじゃないか?

2C後半の数十年間も続いた倭国大乱を収束させるために各国は話し合いのもと、
女性大王の卑弥呼を共立した

卑弥呼の共立による倭国の統一後は墳墓も融合する事になり、前方後円墳が開発された

だから卑弥呼即位と同じ頃から前方後円墳が出現する訳だ
85: 2022/04/30(土)19:06 AAS
AA省
86: 2022/04/30(土)19:06 AAS
AA省
87: 2022/04/30(土)19:06 AAS
AA省
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