[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part969 (500レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
8
(2): ◆q8leUXpsw. 2023/11/25(土)11:31 AAS
中国語の古文で到と至が同時に用いられる場合は、原則として使い分けをしている
魏志倭人伝では「到」は到着する、「至」は「〜まで、〜へ」の意味で前置詞として使われていると考えるべき
そして「到」は到着を表すので次の行き先への起点にならないことに留意する必要がある

狗邪韓国には到が使われているが、狗邪韓国から直接対馬に行ったわけではない
狗邪韓国で魏使が到達した港は釜山であったろうと思われるが、そこから対馬へは海流の関係で手漕ぎの船では渡れない
帯方郡から半島の沿岸を水行し、狗邪韓国に至る手前の場所から対馬に渡ったものと考えられる(でないと渡れない)
狗邪韓国は倭人が住んでいる国だったから倭人伝に記載しただけのことである
実際、朝鮮半島では旧石器時代終末期から新石器時代中頃までの間約5000年ほどほぼ無人であり、
新石器時代に入ると縄文式土器の出土も見られることから、朝鮮半島南部に倭人が住んでいたことは考古学的にも証明された事実である

海を渡って千里で対馬国
省7
9
(1): ◆q8leUXpsw. 2023/11/25(土)11:32 AAS
次に奴国であるが、伊都国には「到」が用いられており、伊都国は奴国へ起点にはならない
(起点にするためには又などの接続詞が必要になる)
したがってこの場合は末盧国を起点と解釈しないといけない
さらに、伊都国の場合は「東南陸行五百里到伊都国と」書かれており、これは「東南方向に五百里で伊都国に到着する」という意味であるが、
奴国の場合は「東南至奴國百里」と書かれており、これは「奴国へは東南方向に百里」という意味であり、魏使は奴国には行ってはいない。

東行至不彌國百里も同様で、奴国には到着していない以上起点にならず、「末盧国から東方向に百里で不彌國」の意味である

南至投馬國水行二十日も同様にして末盧国から水行二十日で投馬国

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月も同様に末盧国を起点に考えるべきである
水行十日陸行一月は水行なら十日、陸行なら一月という意味に解釈すべきだろう

このように考えると邪馬台国はおそらくは現在の熊本県あたり、投馬国は現在の鹿児島県あたりだと考えるべき
省2
1-
あと 491 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.006s