ヤマト王権なんだわ (826レス)
上下前次1-新
507: 05/19(日)06:29 AAS
そして邪馬台国論争にも負けましたとw
508: 05/19(日)13:27 AAS
所謂「欠史八代」だけど、俺は半実在説を推したいんだ。
時代設定は2世紀前期前半から3世紀後期後半あたりだと思う。
何でかっていうと、崇神天皇より前の王は確実に存在したはずだし、欠史八代の和風諡号の中には、本名と思われる言葉も含まれてるからだ。
当時の古墳時代の王族ってのは、だいたい私的な領地を持っていて、そこに邸宅を建てて住んでたんだ。
欠史八代の宮が、黒田宮とか秋津島宮とか、纏向から見ると辺鄙な場所にあるのは、彼らの私邸の場所を指してると思われる。
王族や貴族の住居ってのは、後世に朝廷が成立してから宮廷の近くに置かれるようになるんだけど、それ以前はそれぞれが自分の領地に住んでてバラバラだったんだ。
だから、欠史八代ってのは親子関係じゃなくて、後世で言う「氏の上」の地位を受け継いだ者たちだろう。
つまり、大王家の「氏の上」を継いだ者たちが欠史八代と考えれば、多くの矛盾が解決するんだ。
省4
509: 05/19(日)13:29 AAS
邪馬台国が九州から奈良盆地に移転したのは、中国からの影響力を弱め、より中央集権的な国家体制を築くためだったと考えられている。
510: 05/19(日)13:30 AAS
奈良県立橿原考古学研究所の青柳正規所長は、桜井茶臼山古墳の発掘調査について、「邪馬台国の所在地が北部九州なのか畿内なのか、長年議論されてきた。しかし、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比べ物にならないほど強力な王権が存在したことが、今回の調査で明らかになった。」と語った。
511: 05/19(日)13:32 AAS
邪馬台国、卑弥呼の時代は北九州にいた説が有力だけど、最近の研究では畿内説も浮上してるんだって。台与の時代は畿内へ遷都したってのが定説だけど、これも議論の余地があるみたい。
512: 05/19(日)13:33 AAS
瀬戸内海って、実は世界でも屈指の難所だって知ってた? 狭い海峡がいくつもあって、潮流も複雑で、船の操縦がとんでもなく大変なんだって。そんな場所で邪馬台国が海上交易なんてできるわけないだろ?
513: 05/19(日)13:34 AAS
ヤマト王権は卑弥呼から始まったわけではないよ。 確かに卑弥呼は邪馬台国の女王として有名だけど、ヤマト王権とは別の勢力なんだ。最新の研究では、ヤマト王権の形成は3世紀後半から4世紀にかけて、奈良盆地を中心とした地域で起こったと考えられているんだ。
514: 05/19(日)13:35 AAS
中国の昔の文書では、ずっと福岡とか佐賀とか熊本あたりの地域のことを「倭国」って呼んでたんだって。でも、最近の研究によると、「倭国」は日本全体を指す名前だった可能性もあるみたい。その中で、福岡とか佐賀とか熊本あたりの地域は特に重要だったらしいよ。
515: 05/19(日)17:07 AAS
Xの内容がww
外部リンク:ja.everybodywiki.com
516: 05/19(日)17:23 AAS
九州から見ると先端地である朝鮮半島との交易が生命線
そこを出雲を初めとした本州からの資源力によって割り込まれると窮地になるのは自明
そうなりきる前に本州の出雲以外に勢力圏を築きたい流れがあったことは想定できる
517: 05/19(日)17:30 AAS
対馬海峡を保有してて割り込まれることが100%ないことが自明だったので、
本州倭種なんてどーでも良かったからw
だから大量の生口を献上したのに
銅鏡一枚すら与えてないしwww
518: 05/19(日)20:02 AAS
九州は倭奴。王権へ進化する前に部族社会のまま停滞。
畿内は野蛮人の旧習を捨て渡来人を通じて漢王朝の文化を吸収。邪馬臺国から耶麻台朝廷に進化。
519(1): 05/20(月)00:15 AAS
中国の支配から逃れるために北九州から畿内に移ったんだから遣隋使の時に対等感を出したり昔の邪馬台国と違う国のように言ったんだろう
520(1): 05/22(水)04:11 AAS
北九州から畿内への移転は、政治的・経済的な理由で起こった可能性がありますね。でも、遣隋使派遣の目的は中国からの支配逃亡だけだったとは考えにくいんです。当時の国際情勢や政治体制を考えると、隋との交流を通じて国際的な地位を高め、政治体制や文化を整備することが主要な目的だったと考えられます。例えば、遣隋使の副使である小野妹子は、隋の皇帝に仏教の経典を献上し、日本が仏教文化を受け入れる姿勢を示しました。これは、中国からの影響を受けながらも、独自性を保ちたいという日本の意志の表れと考えられます。
521(1): 05/22(水)17:21 AAS
>>476
なるほど、記紀が藤原氏のファミリーストーリーという見方ですね。確かに、藤原氏は古代日本における有力な氏族であり、記紀には藤原氏の活躍が大きく取り上げられています。
しかし、記紀は単なる藤原氏のファミリーストーリーと捉えるのは少し短絡的かもしれません。記紀は、日本の歴史や文化、神話などをまとめた書物であり、藤原氏だけでなく、様々な人々の物語が記されています。
また、記紀は天皇を中心に物語が展開されており、藤原氏はその臣下として描かれています。そのため、藤原氏の視点から書かれたというよりは、天皇を中心とした国家の歴史を記した書物という方が正確かもしれません。
もちろん、藤原氏にとって記紀は重要な意味を持つ書物であったことは間違いありません。記紀には、藤原氏の祖先である藤原鎌足の功績などが詳しく記されており、藤原氏の権威を高めるのに役立ったと考えられます。
このように、記紀は藤原氏にとって重要な書物であったことは事実ですが、単なるファミリーストーリーと捉えるのは適切とは言えないでしょう。記紀は、日本の歴史や文化、神話などを理解する上で重要な資料であり、様々な視点から読み解くことが重要です。
522(1): 06/06(木)19:31 AAS
>>519
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
523(1): 06/06(木)20:02 AAS
AA省
524: 06/06(木)20:10 AAS
>>523
>不比等は記紀で
古事記ではなく、日本書紀でな。 @阿波
525(1): 06/06(木)20:19 AAS
稗田阿礼が藤原不比等説もある、稗田は中臣氏の故郷だったような
526: 06/07(金)09:05 AAS
>>525
稗田阿礼は複数人の功績の簡略化説や擬人化説もあるな
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 300 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.007s