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邪馬台国畿内説 Part972 (1002レス)
邪馬台国畿内説 Part972 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/
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39: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:06:02.28 ◆FAQ 39 Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である! 邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう? A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40 Q:倭があるのは会稽「東治」の東である! 九州でいいではないか! A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。 http://i.imgur.com/BOEvc2X.png 行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。 そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。 東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。 https://i.imgur.com/E6TFLyl.png http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/39
40: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:06:35.28 ◆FAQ 41 Q:平原1号を見よ! 九州には古くから三種の神器がある! 大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう? A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀) 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ※内行花文鏡の幾何的設計原理 円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。 この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。 この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/40
41: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:07:01.50 ◆FAQ 42 Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか! 新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ! A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。 しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。 これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/41
42: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:07:31.92 ◆FAQ 43 Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ? 炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない! 確かな根拠などないだろう! A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。 その築造年代を端的に示す紀年銘塼が ・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘 ・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘 ・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘 ・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である 以上から 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系) →1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系) →1BIV型式(3世紀後葉以降:末期) という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。 凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012) また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008) よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照) 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期 の目安が得られる。 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/42
43: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:08:02.17 ◆FAQ 44 Q:三角縁は存在しない年号が書かれている! 国産に決まっている! A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。 史料上で抹殺された年号は珍しくない。 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一) 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。 一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、 従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/43
44: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:08:31.98 ◆FAQ 45 Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか? A:◆1で略述したとおりである。 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され (金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008) その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46 Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している! これが魏晋鏡だろう? A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。 2世紀の鏡である。 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は 内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土) などがある。 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/44
45: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:09:01.81 ◆FAQ 47 Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している! 2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか? A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。 弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照) 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48 Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ? 考古学的に確認されているのか? A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。 遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/45
46: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:09:32.80 ◆FAQ 49 Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか? A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。 「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註) さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。 ◆FAQ 50 Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか? どこにでもありそうだ。 A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。 勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/46
47: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:10:01.49 ◆FAQ 51 Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ! 壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか! A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。 壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。 年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡 新方・森之宮(摂津) 雁屋・鬼虎川・亀井(河内) 唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和) ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/47
48: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:10:32.15 ◆FAQ 52 Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ? A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012) 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。 甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。 ◆FAQ 53 Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう? A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。 此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。 定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/48
49: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:11:01.95 ◆FAQ 54 Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ! 以北ってことは女王国も含むんだぞ! A:実際の用例ではそうならない。 「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」 (三国志所引魏書鮮卑) 「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」 (三国志東夷伝濊) 「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。 ◆FAQ 55 Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ! A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。 外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融) 山東省の刺史が遼東と「接」 訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮) 海中の島国がカンボジアと「接」 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007) 倭人の国ではあり得ない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/49
50: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:11:31.91 ◆FAQ 56 Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ! A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。 「世間に…」in the world の用例 ・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗) ・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈) ・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思) ・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕) ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易 ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。 「代々…」の用例: ・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五) ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。 ・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧) ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧 ・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙) ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。 ・今汝先人世有冠冕(王昶) ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒 昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守 当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。 ・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳) ※百世に亘って代々を想定 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/50
51: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:12:01.89 ◆FAQ 57 Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか? 必然性がない! A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。 この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである- https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016 ( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2) -が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。 居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。 大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/51
52: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:12:32.26 ◆FAQ 58 Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか! A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3) 「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。 これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。 「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合 「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。 また、推古紀所載裴世清の旅程より 「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」 「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/52
53: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:13:02.22 ◆FAQ 59 Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない! A:不合理である。 「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。 また 1「南至投馬國水行二十日」 2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」 は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。 よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60 Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか! 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である! A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。 (且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。 (精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。 (ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。 (烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、 西與犂「革偏に于」・條支接。 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。 (大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。 (姑墨國)去長安八千一百五十里。 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。 (漢書西域) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/53
54: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:13:31.80 ◆FAQ 61 Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」 これは実測したとしか考えられない! 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ! A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝) 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。 (「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀) また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。 「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷) 「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳) さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。 当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/54
55: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:14:01.93 ◆FAQ 62 Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ! A:定説に従う。 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。 近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 ◆FAQ 63 Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ! A:「古○○也」は政治的連続を表さない。 同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。 唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64 Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある! 径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない! A:基礎知識の誤りである。 現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅) 人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/55
56: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:14:32.24 ◆FAQ 65−1 Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する! 倭国の王権を象徴する歴史的遺物である! A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。 考古的遺物による尺は 殷商:約16cm 西周:約20cm 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的) 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見) 南北朝〜隋唐:30cm弱 と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。 参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。 「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。 記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。 《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出) ——————————MAN------------FRAU------ 4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7 3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6 2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9 A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 (本項 続く) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/56
57: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:15:02.79 (承前) ◆FAQ 65-2 『禮記』王制には 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、 古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、 古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」 とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。 この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。 秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は 古者周尺 17.3cm 今周尺 21.0cm 秦漢尺 23.1cm となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/57
58: 1 ◆ondZSOlfxeS6 [sage] 2023/12/14(木) 01:15:32.27 ◆FAQ 66 Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている! 本来は伊都国までの行程の記事であったのだ! A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」) 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。 「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 ◆FAQ 67 Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい! なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である! 倭人伝にある方位に間違いはないのだ! A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。 松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻) ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社) ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡) であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。 また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。 https://i.imgur.com/qfiOJLu.png 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。 地名が実際の地勢と著しく異なる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702482438/58
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