[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part972 (1002レス)
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850
(1): 2023/12/17(日)09:39 AAS
近畿式三遠式巨大銅鐸の時代の弥生時代後期、東海道は朝日遺跡や登呂遺跡など静岡や沼津に一斉に河内や摂津と同じ鳥形の集落が誕生する
登呂遺跡は開拓の遺跡だね
同じ頃神奈川の相模原でも銅鐸の集落がある

登呂遺跡や相模原の銅鐸の集落などは弥生時代末期で営みを終える
弥生時代末期は大阪でも池上曽根遺跡など銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形の集落は一斉に営みを終えるんだよな
伊賀の名張の要塞のような集落跡も弥生時代で営みを終えている
伊賀に伊勢津彦が石の砦を作っていた伝承があるね

東海道平定はどのように行われたんやろね
851: 2023/12/17(日)09:44 AAS
AA省
852: 2023/12/17(日)09:46 AAS
>>850
>東海道平定はどのように行われたんやろね

平定?? 東海忌部が進出しただけのこと。   @阿波
853: 2023/12/17(日)09:48 AAS
>>849
邪馬台国が北部九州か畿内かわからないというスタンスを取っている時点で、「従来からの」もへったくれもなく畿内説ではない
青柳氏は邪馬台国の位置論争に関しては中立だ
854: 2023/12/17(日)09:48 AAS
今や「阿波」一択となってしまった。   @阿波
855
(1): 2023/12/17(日)09:50 AAS
>>849
行間を読めば畿内は邪馬台国では無いと言う事
856: 2023/12/17(日)09:50 AAS
記紀には、神功皇后が福岡で生まれた応神天皇連れて
畿内に帰ったという話になってるね。

旦那の仲哀天皇はもともとは北九州を治めてた人で
福岡から北九州寄りの香椎宮に埋葬されている。
857: 2023/12/17(日)09:52 AAS
神武天皇やら神功皇后やら天智天皇やら
ちょいちょい九州から畿内に移動する話があるもんだ。
858
(1): 2023/12/17(日)09:54 AAS
豊前のあたりは秦王国があったんだろうと思われる
つまり渡来の勢力……
859
(1): 2023/12/17(日)10:00 AAS
>>849
邪馬台は大和だと思ってたらこんな言い方せんわw
860
(1): 2023/12/17(日)10:01 AAS
住吉大社神代記に住吉の神さまと神功皇后の間に密事があったとはっきりと書かれている
そして住吉の神さまは吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊と名乗っているね
向かいの津の男を聞いて襲った大きな歴史の五つの御霊の速狭騰尊という意味か?
住吉の向かいは?

仲哀天皇は気比で名前を交換する不思議な話があるから九州に向かったのは本当は誰か?という謎もあるが
861: 2023/12/17(日)10:08 AAS
>>860
仲哀じゃなくて息子の応神かな
本名はイザサワケだったが、鶴賀の気比のホムタワケと名を交換したというエピソード
ツヌガの「ハタ別」と名を交換したとかよくよく渡来系と縁の多い母子のようで……
862: 2023/12/17(日)10:10 AAS
播磨風土記にもあるが神功皇后は新羅を討てとの神託を受けて九州に向かったんだよ
熊襲を討てではなくて
863: 2023/12/17(日)10:13 AAS
故郷を取り戻せってやつか……
864: 2023/12/17(日)10:17 AAS
五色の石神さまの片目を掘り潰したのが新羅人って播磨風土記にあるだろう
865
(1): 2023/12/17(日)10:26 AAS
>>859
>邪馬台は大和だと思ってたらこんな言い方せんわw

このように
なんの証拠もない妄言ばかりなのが
九州説
866: 2023/12/17(日)10:28 AAS
>>858
裴世清が宇佐神宮を参拝した時の感想だろうね
867: 2023/12/17(日)10:29 AAS
崇神→四道将軍の派遣、畿内大和の東西伸長

景行→ヤマトタケルの東西侵攻、九州平定

仲哀→神功、海を渡って半島へ進出

応神→渡来人の大量来日

ど田舎だった山奥の奈良が国際色豊かになる過程が目に浮かぶようだな
868: 2023/12/17(日)10:31 AAS
石神さん=石亀さん=伊和神社
播磨国一の宮 伊和神社
外部リンク:www.hyogo-tourism.jp
宍粟(倭名類聚抄でシサワと読む)郡に鎮座
869: ネトウヨボクメツ隊! 2023/12/17(日)10:38 AAS
崇神〜仲哀までと応神以降で王朝の雰囲気がガラッと変わっているな
応神以降は韓半島の影響が強烈だが、これ以前は日本国内のローカルな弥生時代の延長的な雰囲気が漂う

神功と武内宿禰の半島出兵軍が畿内を制圧した時に旧勢力側の豪族が多くが没落して支配階級の氏族の多くが入れ替わったはずだ
旧来の伝承の多くもここで失われたのだろう
だから大王の系図や事績の多くが分からなくなっている

なお葛城氏が没落し始める頃になるとヤマト王権の宮が難波から三輪山の麓に戻っていくことから、政治の裏側で半島重視派と倭文化重視派の強烈な派閥争いがあったのだろう
雄略の大粛清もこれに絡んだものとすれば納得がいく

物部氏や三輪氏や中臣氏などヤマト王権の祭祀一族は倭文化重視派で葛城系氏族(巨勢や蘇我)が大陸文化重視派だったのは間違いない
これは後の仏教移入の時の動きを見れば明らかだ

蘇我と物部の争いは仏教の受用だけでなく、神功皇后時代からの派閥抗争の延長だったと考えたい
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