[過去ログ]
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
1: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:04:30.55 九州に決まっとろうが? 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん! 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎! ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。 根拠がなければただの妄想やけんね。 議論百出は大いに歓迎。 レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい! 前スレ 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾捌 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1691509931/ 過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。 それは声闘という朝鮮人の文化です。 反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/1
2: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:04:58.05 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である これを押さえておかないと正解には辿り着かない 【用例】 通鑑釋文辯誤卷六 https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a >沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける 【嘉興府志】 https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/2
3: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:05:19.28 >>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、 同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる 20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては 彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる 水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/3
4: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:05:43.56 BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg 熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ これは免田式土器の分布とも一致する https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/4
5: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:06:15.24 ◆邪馬台国の場所 383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44 さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると 以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07 >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して 総合的に考えた結果こうなった https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg 当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが 邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/5
6: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:06:56.22 考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白 倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html 伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、 内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう では切れ目はどこに?と思うだろう これを見てほしい http://inoues.net/iron_nakoku.gif 博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、 樋井川を境に分布がぷっつりと切れている そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する 樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう 春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう 伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる 鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる 海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな 青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる 奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/6
7: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:07:28.29 考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国 それは紀元前からの流れ 298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01 >>234 >伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない 古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元 まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm > 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、 > 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。 > 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。 分かるかい? 日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ 紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/7
8: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:08:02.52 考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな キナイコシ君には残念だろうがw https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg > 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04 > https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg > この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw > 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い > 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か > それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/8
9: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:08:35.72 220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26 >>218 事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w まあそれはそうだろう 3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ 諦めて現実と向き合いなさい https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82 > 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。 > > 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。 > 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照) 包囲される奈良盆地の図 https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/9
10: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:09:01.25 九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない 九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る 破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、 弥生後期から古墳時代にかけて出土する その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる 図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より 弥生時代後期〜終末期 https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg 古墳時代前期 https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg 弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して 古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している 九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している 破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる 弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する 考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/10
11: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:09:34.89 > 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50 > 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する > 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな > http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg > http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg > 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0 > >>825 > 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww > > そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな > そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と > 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40 > >>825 > >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな > 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう > だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/11
12: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:10:24.27 淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡 弥生時代の海の勢力図 http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg 瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下 弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初 https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf > エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。 > ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。 > > 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。 > 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は > 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。 > 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/ > 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。 > また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。 > 九州産のヤリガンナ > 九州産のヤリガンナ > 九州産のヤリガンナ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/12
13: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:10:49.23 136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36 >>70 そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ 絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf > (iv)九州から本州への養蚕伝播―― > 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。 > それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。 > すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。 > 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。 > 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。 > そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、 まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい 海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/13
14: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:11:19.84 http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html > (曽根崎神社の概要) > ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地 > ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。 > ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良 > ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。 > 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、 > 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。 > 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。 > 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」 > > と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。 安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/14
15: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:11:57.94 対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている 式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄 https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm > 霹靂神社 > いかづちじんじゃ > 長崎県対馬市上対馬町大増1073 > > 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社 > > 御祭神 > 雷大臣 日本大臣 磯武良 > 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/15
16: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:12:31.71 鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF > 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある > (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。 > 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 > 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より) http://www.genbu.net/saijin/isora.htm > 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。 > 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。 > 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。 古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html <磯良神社の由来> > 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。 > 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/16
17: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:12:57.51 576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74 さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう https://i.imgur.com/hLZdESM.jpeg http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/17
18: 日本@名無史さん [sage] 2024/01/17(水) 00:13:32.49 >>4のデータについて 184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76 >>159 >>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう >此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか?? 広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか? 普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう 孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/18
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 984 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.007s