[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
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42(2): 2024/01/21(日)17:46 AAS
>>40
「常に」はどうするんだよ!
43: 2024/01/21(日)17:52 AAS
>>42
いつもは、だよ。
諸国を検察したり、港に出向いて確認作業したり、ってのが職務だけど、
普段は伊都国でデスクワークしてる。
44(1): 2024/01/21(日)17:54 AAS
>>42
常設の治所が置かれていた、を縮めた形と読めばいいだろ
そうでなきゃ、諸国を検察できない。
45(2): 2024/01/21(日)18:05 AAS
>>33
ま、あれだ
常日頃は伊都国にいて、折々に諸国を検察していただから、
今でいえば、白バイ、パトカーの駐屯所が有って、折々にパトロールしていたの感じかな。
46: 2024/01/21(日)18:11 AAS
>>45
ま、あれだ
常日頃は伊都国にいて、交易船が福津市(万津浦)辺りに到着したら検察していた。 @阿波
47: 2024/01/21(日)18:49 AAS
女王国より北って九州北岸から半島南岸だよね。漢字的には率=卒=帥だから
(意味は同じで地域で違う漢字が使われてた)、一大国(一支国)の帥が伊都国も
治めてたと。女王国は陸軍とは別に一大国の海軍があった感じ。陸軍の勢力圏が
邪馬壱国で海軍のが投馬国。
48: 2024/01/21(日)18:58 AAS
>>44
治は動詞だから「治所が置かれていた」とはならないね
「通常は伊都国にて治めていた」がやっとだな
女王国以北に置かれた一大率が通常は伊都国にて治めていたってのも変だなw
49(1): 2024/01/21(日)19:00 AAS
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣?ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣?ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
省17
50: 2024/01/21(日)19:01 AAS
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
5じゃなくて2のほうね。
51: 2024/01/21(日)19:01 AAS
>>45
一大率の業務は「檢察諸國」と書かれてるのに更に「治」するってのも変。
52: 2024/01/21(日)19:10 AAS
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽
これは郡治を置いたではなく東武陽で治めた「郡治を置いた」ではありませんねw
☆徙爲東郡太守治東武陽
これも同じ
全体的に訳がいい加減だなw
53: 2024/01/21(日)19:14 AAS
>>魏志倭人伝を正しく読む
正しく読もうねw
54: 2024/01/21(日)19:27 AAS
>>49
無理やりな誤訳してそれを証拠みたいに上げても意味が無いなw
55(2): 2024/01/21(日)20:08 AAS
自女王国以北とは、
? 邪馬台国・・・熊本、阿蘇
? 不彌国・・・吉野ヶ里
? 奴 国・・・佐賀市佐賀城一帯
? 伊都国・・・佐賀大和町川上太神宮遺跡
? 末盧国・・・唐津市及び伊万里市
? 一大国・・・壱岐島
? 対海国・・・対馬南島
地理的に最適な以北7国の中間の佐賀伊都国に、諸国検察の拠点(治所)があり、
日ごろは其処に治して、所要或る度に南北へ出動していたということでしょう。
56: 2024/01/21(日)22:23 AAS
魏志倭人伝の各国を見ると長官の官職名には統一性が無いのに
副官は卑奴母離で統一されていたりする
おそらく卑奴母離とは伊都国の一大率が派遣した目付役の官職名なのだろう
だから伊都国自身には卑奴母離がいないし、主家である邪馬台国や
一大率の管轄外である南方の投馬国にも卑奴母離はいない
57: 2024/01/22(月)07:12 AAS
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。 @阿波
58(2): 2024/01/22(月)08:31 AAS
>>55
女王国とは帯方郡から12000里の場所である
魏志倭人伝には帯方郡内の記事はなく、郡使は帯方郡の南の端の海岸から船で出発しているところから始まるので、12000里の起点は帯方郡の南の端の海岸からである
端の海岸からなので次の海岸までとなり
帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸までが7000里
狗邪韓国の海岸から対馬国の北岸までが1000里
対馬国の北岸から対馬国の南岸までが800里(400里×2)となる
計算すると
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000となる
九州への上陸地点は末盧国の北端となる
省5
59: 2024/01/22(月)08:50 AAS
>>58
>末盧国の北端の呼子付近
そもそもこれが、ボタンの掛け違え。 これで、後が台無しとなる。 @阿波
60(1): 2024/01/22(月)09:20 AAS
>>55
里程と日程は元々、別の資料からの引用である
里程は公孫氏時代の帯方郡の使者が短里で記録したものであり
日程は公孫氏が滅亡した後に派遣した梯儁や張政の報告書によるものである
なので「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
は完全に独立した文書であり、ここの部分は切り離して考えないといけない
帯方郡から南へ水行二十日で投馬國、投馬國から南へ水行十日陸行一月で邪馬壹國なのである
7000里に水行二十日、5000里に水行十日陸行一日(月)掛かるのである。
61(1): 2024/01/22(月)10:00 AAS
>>58 >>60
中國古書の行程は、道行文のルールで書かれている。
漢書を執筆した班固も、すべからくこれに従っている、・・具体的には >>36参照されたし。
この古典ルールを知らずに論じては、古代漢人に笑われる。
古田氏だけではない、本居氏、白鳥氏、内藤氏、原田氏、・・・皆遠い過去のお人になられた。
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