[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
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18: 2024/01/17(水)00:13 AAS
>>4のデータについて

184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう

>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう

と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
省1
19: 2024/01/17(水)00:14 AAS
>>10補足

923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
外部リンク[html]:web.pref.hyogo.lg.jp
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。

> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
省8
20: 2024/01/17(水)00:14 AAS
カバネについて
臣が外様で連が譜代

> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
省13
21: 2024/01/17(水)00:15 AAS
テンプレ終わり
以下引き続き議論継続
22
(3): 2024/01/17(水)00:16 AAS
◆魏志倭人伝には「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」と記されている

↓これを見てどちらが正解か考えてみよう

●畿内説の場合
画像リンク[jpg]:i.imgur.com

●九州説の場合
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
23: 2024/01/17(水)09:19 AAS
どっちも不正解。   @阿波
24
(1): 2024/01/17(水)09:49 AAS
>>22
阿波もたまにはいいこと言うな、どっちも不正解
つまり、どっちも東南であるべき伊都国の位置を間違ってる
25: 2024/01/17(水)09:52 AAS
>>24
飛鳥時代の古代政務や律令制度の実態、官人層の生活等の様相を示す遺跡は存在するけどな。 わははははは   @阿波
26: 2024/01/18(木)08:17 AAS
纏向遺跡消滅後、古墳時代の奈良畿内は碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い、寒村巨大墓地に過ぎなかった。   @阿波
27: 2024/01/18(木)19:06 AAS
ヤマトは大和になってからはこっちが本家。九州に勝ったからな。
28: 2024/01/18(木)19:09 AAS
纏向遺跡消滅後、古墳時代の奈良畿内は碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い、寒村巨大墓地に過ぎなかった。   @阿波
29: 2024/01/18(木)23:17 AAS
やっぱり普通に考えて九州だよな
30
(1): 2024/01/19(金)14:16 AAS
白村江敗退後、唐の進駐軍の報復を恐れた大和朝廷は、我が皇統は熊襲の女酋卑弥呼に関わりなし、
まして前660年来の皇統のご領地の博多湾岸を、魏使や卑弥呼使が往来したり、
駐屯したりはあり得ず、
おそらく、倭人条に云う唐津東南の佐賀の間道を通行して・・、との趣旨で日本紀を編纂した。
31
(1): 2024/01/20(土)16:18 AAS
やっぱり九州説はソースがしっかりしていて説得力が違うな
32: 2024/01/21(日)13:49 AAS
つまり邪馬台国は朝廷に滅ぼされた熊襲の一つとみていいのか
33
(2): 2024/01/21(日)15:31 AAS
>>22
魏志倭人伝を正しく読むと「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」とは書かれていない
自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
和訳すると「女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させている。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国にて治めている。」
伊都国で常に治めているのは一大率ではない、一大率は女王国より北に居る。
伊都国で常に治めているのは女王卑弥呼である。
34: 2024/01/21(日)15:38 AAS
>>22
どっちも間違い
35: 2024/01/21(日)15:44 AAS
>>30
663年白村江敗退後、666年に唐の高宗が泰山で行った封禅に参加した日本王とは誰だったのだろう?
36
(1): 2024/01/21(日)16:09 AAS
中華史書の行程記述には「道行き法」というルールがあり、漢書をまとめた班固もこれに従っている。

則ち出発地(末盧=唐津中原)から主線行程の方角道里を順次述べ、まず東南伊都国=佐賀川上に到る。、
以降、折々に傍線行程(至〇〇の行き止まり行程の情報(東南奴国=佐賀城一帯)を付加し、
元の伊都国に戻って、東行100里の主線終点(不彌国=吉野ヶ里)に至らば、
四至(東西南北)の国々を「〇至・・」と紹介して終わる。

つまり「南至の投馬国=宮崎、自郡至水行20日」と、
同じく「南至の邪馬台国女王之所都、自郡至水行10日陸行1月」が、四至の並列説明となる。

これで主線行程は不彌国までの1万600里、自郡至女王国1万2000余里から差し引けば残り1400里
則ち、不彌国=吉野ヶ里の南1400里=110?に女王の宮殿があったとなる。
倭人条を修正する必要全くなし。で、グーグルマップで南至の方角・里数の地を探せば、
省1
37
(2): 2024/01/21(日)16:38 AAS
>>33
>常に伊都国にて治めている。 ではない。

治所を伊都国に置いている・・、の意味だ。
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