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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
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: 2024/02/14(水)13:27
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197: [] 2024/02/14(水) 13:27:35.33 倭人伝 01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者 02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭 倭人伝は、この後の 魏時に帯方郡から送られた二人の遣使の記録の引用で始まる。 247年張政 65 其八年 太守王頎到官 66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之 と 240年梯儁 60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩 であるが、陳寿は記録を単純に引用したようで この二人の報告書の引用文は、明らかに筆致が違う。 247年張政は、遣倭 載斯烏越等の帰国船で来日した。 ・倭人船の寄港地の倭名を漢字にしてその間の里程を記した。 ・官の卑奴母離は原則乗船していて宿泊地も同行している。 ・人口については、有○○戸または家で示した。 ・全行程は海行10000里、陸行500里の伊都迄で1万5百里である。 奴國 百里 不彌國 百里 は伊都から見えた?か隣国で国境までの距離 奴国は有2万戸なので縦横だけでも100里どころではないはず。 ・行程に関して至と到を使い分けている。 240年梯儁は、倭に至る行程よりも、女王国の国勢を紹介している。 ・卑弥呼の初朝貢の返礼で金印を卑弥呼の王宮まで届けた船団の軍人。 ・韓西岸から対馬海峡〜女王宮迄は公孫氏戦以降、魏軍の初探検。 ・半島南部の韓はまだ敵地なので寄港地は宿営で地名は無いので里程も書けない。 ・兵站調達も含めて、行軍の日数を記した。 この全行程は萬二千里である。 ・人口には、可○○戸で、到と至の使い分けは無い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705417470/197
倭人伝 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為邑 旧百 漢時 有 朝見者 今 使 所通 三十 郡至倭 倭人伝はこの後の 時に帯方郡から送られた二人の遣使の記録の引用で始まる 年張政 其八年 太守王到官 倭 女王卑弥呼 狗奴 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣 塞曹史張政等 因 詔書 黄 拝 難升米 為告之 と 年梯 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 詔賜 金錦刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩 であるが陳寿は記録を単純に引用したようで この二人の報告書の引用文は明らかに筆致が違う 年張政は遣倭 載斯烏越等の帰国船で来日した 倭人船の寄港地の倭名を漢字にしてその間の里程を記した 官の卑奴母離は原則乗船していて宿泊地も同行している 人口については有戸または家で示した 全行程は海行里陸行里の伊都迄で万5百里である 奴 百里 不 百里 は伊都から見えた?か隣国で国境までの距離 奴国は有2万戸なので縦横だけでも里どころではないはず 行程に関して至と到を使い分けている 年梯は倭に至る行程よりも女王国の国勢を紹介している 卑弥呼の初朝貢の返礼で金印を卑弥呼の王宮まで届けた船団の軍人 韓西岸から対馬海峡女王宮迄は公孫氏戦以降軍の初探検 半島南部の韓はまだ敵地なので寄港地は宿営で地名は無いので里程も書けない 兵調達も含めて行軍の日数を記した この全行程は二千里である 人口には可戸で到と至の使い分けは無い
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